坊太郎日記

                                                ~京都・衣笠・思案に暮れる~

 

その① 1回生 1979年4月~1980年12月

 

 

 

 1979年 4月9日。夜6時45分。

 京都駅、ふきっさらしの新幹線のホームは寒かった。俺と母親以外に列車を待つ客の姿はなく、オレンジ色のライトに照らされた線路は冷えた暗闇の向こうに消えていた。

 椅子にへたり込んだ母親は不機嫌そうにその線路の先を見て、ほんまにこんなとこまで来にゃあ座れんのんかね?とぼやいた。どんなに混んでいても一号車まで歩けば空いた席があるからと、母親をホームの端っこまで連れてきたのだ。

 小学生じゃあるまいし、みっともないから来ないでくれというのに、なんだかんだと理由をつけて母親は入学式に付いてきた。大阪のビジネスホテルに連泊して、一昨昨日は太秦の下宿へ、一昨日は大阪の親戚の家に行き。そして今日は衣笠キャンパスであった入学式に出た。

 入学祝い10万円ももらったんだから、学期に1回くらいは大阪の親戚の家に顔を出せとか、下宿はお父ちゃんの職場の人の紹介なんだから(その人の息子さんが丁度卒業ってことで、入れ替わりでそこに住むことになった)呉々も迷惑かけないようにとか、外食ばっかりしてたら身体に悪いからできるだけ自炊するようにとか、どうでも良いことを母親は独り言のように喋っていた。こっちにきてから、ずっとこの調子でいい加減うんざりしていた。

 6時53分。列車がホームに入ってきて、母親は一人乗り込んだ。珍しく列車はがら空きで、窓際に座った母親は、こんなとこまで歩いて来なくてもガラガラじゃないの、みたいな事をぼやいているみたいだった。俺は聞こえない振りで手を振った。列車は冷えた空気を巻き上げて暗闇の向こうに消えた。

 

 俺は、一人だ

 

 俺は右手を強く握りしめた。五月蠅い母親はもういない。父親も姉もいない。俺はこの町で一人なんだ、正真正銘、自由の身なんだ、と思うと嬉しさのあまり、気がついたらホームを走り出していた。 

 新幹線乗り場から山陰一番線に降りる間、俺は雲の上を歩くようで、山陰線のディーゼル車が一駅二駅とゆく間も、男だったら泣いたりせずに父さん母さん、大事にしてね、なんて場違いな鼻歌を歌ったりした。

 三つ目の花園駅でおり、踏切を渡って南へ歩き、右へ左へと路地を曲がった先に下宿がある。その路地を歩いていて突然我に返った。

 

 俺は、一人なんだ

 

 合格通知を受け取ったあの日、あの時、あの瞬間、俺の心は遙か彼方の京都に飛んでいった。身体は岩国の実家にあったし、荷造りだの浪人時代の遺物の整理だの、友人との別れだの、日常のあれこれは普段通りこなしていたが、心ここにあらずで、舞い上がっていた。一人暮らしができる。家族と別れて一人になれる。その嬉しさだけで一月半を過ごしてきたのに、突然夢から醒めたのだ。

 今日からは困ったからといって相談する人はいない。イヤなことを愚痴る相手もいない。下宿にしたって同僚の息子さんって人は卒業して居ないわけだし、、、。大学にしたって同じだ。入学式には数え切れないくらいの学生がいたがみんな赤の他人。友人はおろか、知り合いでさえない。そんな当たり前の不安が急に迫ってきた。

 玄関先で 恐る恐る声をかけると、奥から大家さんの奥さんが顔を出した。

 

 ああ、山下くん、もう届いた荷物は部屋に上げといたし。

 

 ありがとうございました、これからお世話になります、と慌ててお辞儀をすると、あれやねえ、ほんまオボコイなあ、って含み笑いをするので、オボコイってどういう意味ですか?と聞くと、ええ?オボコイかぁ?そうやねえ、初々しいっていうんかなあ、これ褒め言葉やし、ホンマこういう気持ち忘れたらあかんよ、と言われた。

 

 俺の部屋は、母屋の二階。通りに面した小さな窓にむかって天井が傾いている屋根裏部屋だ。部屋には前の人が残していってくれた学習机とベット。入り口横の半間の押し入れには岩国から送った二つの段ボール箱が入れてあった。ベットの上には大学生協から送られてきた布団が袋のまま積んである。背広のまま布団袋をほどいていたら、ドアをノックする音がした。ドキッとした。

 恐る恐る開けてみると、ひょろっと背の高い男が立っている。隣の部屋の柴崎や、自分も一回生なんで、よろしゅうな、と片手を挙げた。大学への道はわかる?明日、さっそくガイダンスあるやんな?って言うので、いやあ、全然わからんっちゃって苦笑いすると、ほな一緒に行こうや、俺、もうチャリ買うたから乗せてってあげるわ、と笑ってドアを閉めた。

 

 一人、知り合いができた。

 

 布団にシーツを被せて敷き終わるとドッと疲れが出て、ここ三日着続けのスーツのままベットに横になった。おろしたての布団がフカフカで、あっという間に意識が遠のいた。

 

 夢の中に、一昨昨日行った親戚の家が出てきた。

 母親は十一人兄弟の末っ子なのだが、その兄弟の一番上の姉と、かつて日本国陸軍の大佐だったというその旦那(とはいってももう七十がらみの年配なのだが)の自宅。そのお爺さんと同居する息子が手広く運送会社をやっていてひどく羽振りが良いとは聞いていたが、聞きしに勝るとはこのことで、その自宅は岩国の国鉄官舎とくらべるとまさに御殿だった。俺と母親のためにわざわざ呼んだという板前が三人、広い台所でせっせと寿司を握っていた。

 わりゃ、クルクル寿司しか食うた事がないんじゃろが?お?学校が始まったらろくなもん食えんのんじゃけえ、今のうちにしっかり食うとけや、と、なぜか広島弁の運送会社社長は俺の頭を撫でた。おまえの行く学校は赤ばっかりじゃけえ、気をつけえよ、赤だけはいけん、あれは国を滅ぼすもとじゃ、と旧陸軍大佐は渋い顔で大トロをほうばった。

 

 わしゃあ、裸一貫から今の会社を作った。わしゃ中卒で学歴もない。 

 喧嘩が強いだけの馬鹿タレじゃが死に物狂いで働いたんよ。それだけ

 は誰にも負けん。社長になってようわかるが、世の中っちゅうんは厳

 しいもんじゃ。信じれるのは身内だけよぉ。ええか、京都に来たから

 にゃ今日からおまえもワシのファミリーじゃ。遠慮はいらん。なんで

 も困った事があったら言うて来い。ワシが助けちゃる。

 

 社長はそう言って分厚い封筒を投げてよこした。中をみると、束になった1万円札が入っていた。これって?と社長をみると、100万入っとる。小遣いじゃ。好きに使えや、と笑う。

 

 ええ??ヒャ、ヒャクマン???

 

 そう叫んで飛び起きたら、開いたドアの向こうに人が立っていた。向かいの部屋の太田や、経済の2回生や、よろしゅうな、近いうち歓迎会やろって話になっとるさけえ、そのときは声かけるわ、とだけ言ってドアを閉めた。

 どうやら2階には3部屋あるらしい。隣が柴崎、対面が太田。知り合いが2人になった。

 おかしい。たしか10万円って言ってたはず、と慌てて件の封筒を確かめてみたら、1万円札は10枚だけで、ああ?やっぱり夢かって思った。 

 

 

 

 4月10日火曜日 晴れ

 大学1日目。

 隣の柴崎くんの自転車に二人乗りして大学まで。下宿から大学まではほぼ北へまっすぐ。自転車で30分。大半は妙心寺というどでかい寺の境内だ。南門まで5分。北門から大学まで5分。そして境内の石畳を右へ左へ走って20分。世の中にこんなでかい寺があるのかと度肝を抜かれた。

 柴崎くんは重そうだった。途中ハァハァ言い出したから、おい、交代しようって言ったのに、いいよいいよ大丈夫だから、まかしときって一度も交代しようとしなかった。面白い奴だ。

 

 午前中は文学部全体のガイダンス。学而館大教室で各専攻の教授陣の自己紹介があり、専攻別に集合写真撮ったかと思ったら、カリキュラムがどうの、講義登録の仕方がどうのと説明され頭が混乱した。日本史専攻だけで5人の教授がいるらしい。楽しみだ。もしかして予備校仲間の林香澄がいるんじゃないかとキョロキョロしたがどこにもいなかった。

 

 昼休み。以学館地下の生協に出向いて、先日注文しておいた自転車を受け取った。小学生の頃、欲しくてたまらなかったドロップハンドル。オレンジ色のサイクリング車だ。

 学生でごった返す中、以学館から戻っていたらアメラグ部の人にとっつかまる。君、ええ身体してるやん、一緒にアメリカンフットボールやろや、って誘われた。咄嗟に、わしゃサッカーに入ることに決めちょるんで、って断ったら、そうか、サッカーは仲間なんで無理には誘えんなあ、しっかり頑張りや、って解放してもらった。やれやれ、と思っていたら今度は学ラン姿のいかつい連中に絡まれ、ええ身体や、貴様こそ我が応援団が待っていた人材や、とか勝手な事いうので、サッカー部に決めちょります、作戦で切り抜けようとしたら、ん?おまえ九州か、ワシも熊本ばい、とか言い出して、とりあえず下宿の住所と電話番号を書いてくれ、なんて言う。面倒臭いので差し出されたノートに書いたらなんとか許してくれた。

 

 午後は学而館から文学部がある清心館に場所を移して、日本史専攻の一回生だけでガイダンスがあった。教授はおらず日本史の上級生(自治会の人?)が来て司会をした。なんだか高校のHRみたいだなと思った。

 50人の学生が1人1人自己紹介した。北は北海道、札幌、旭川、函館、南は九州、鹿児島と文字通り日本全国から集まっていた。なんとなく京都にある大学だから近畿地方出身者が半分で、残りが地方からって感じなのかと想像していたが、京都出身はたった4人。そのうち2人は附属高校からの内部進学ってやつだから実質2人。大阪、兵庫を入れても10人。2割しかいない。関東からも数人。

 浪人生ってことに引け目を感じていたが、半分くらいは一浪で、中には二浪の強者も。

 もしかして林香澄がいるんじゃないかと思ったが、やっぱり日本史にはいなかった。あいつや浜田の彼氏はどこに行ったんだろ?。

 ※林、浜田の彼氏は拙著「青空 快晴 ひとりきり」参照

 

 同じ山口の奴が一人いた。萩高校出身だ。おー同県人かよって親近感を抱いたが、サークルはサッカー部に入る事に決めちょります、なんて抜かしやがるので、なんだと?って思った。柄は小さい上に七三で眼鏡をかけたふぬけ野郎だ。おまえサッカーできるんか?。そもそも萩高校のサッカー部とか聞いた事がねえっちゃ。

 サークル勧誘では咄嗟にサッカー部志望って言ったが半分は嘘だ。浪人の一年で体力も落ちてるし、そもそもあれだけガリ勉してやっと入った大学で高校と同じようにサッカー一筋ってのも、なんか違うような気がする。俺は日本史をやるためにガリ勉したわけで、サッカーやるためじゃないのだ。県高校選手権ベスト8のキャプテンである俺でさえ逡巡してる体育会系サッカー部に「入る事に決めちょります」と胸を張るその男に引っかかった。ガイダンスが終わってから声をかけてみた。

 

 おまえ、はあ練習行きよんか?

 お? いんや、まだ練習は行っちょらん

 なんやまだか、体育会系か?まさか学部系サークルじゃなかろうのお

 あたりまえっちゃ

 体育会系はえらいで、しゃあないんか?

 そりゃ覚悟の上っちゃ

 ほー覚悟の上か、そりゃ大したもんっちゃ

 まあの

 ほいじゃが萩高にサッカー部があったとはのお

 いんにゃ無いよ

 無い?、おまえやったことないんか?

 中学ん時やっちょったけえ

 そがあなんで大丈夫なんか?

 わからん、わからんが大学でサッカー部入るんはわしの長年の夢っちゃ、

 夢、そのために頑張ったのっちゃ、浪人までして

 

 終わったのは夕方で、腹が減ったので以学館地下の生協で一人ラーメンを食って帰った。130円。安い。助かる。

 

 オレンジ色のドロップハンドルで軽快に境内を下り下宿に帰ると、対面の太田くんが部屋に来て、昨日言うてた歓迎会やと言った。

 玄関脇にある半間幅の土間を10メートルほど抜けたとこに広い中庭がある。その中庭を囲むように共同の炊事場、トイレがあり、冷蔵庫が置いてあるのだが、庭の奥には二階建てのアパートが建っている。

 案内されてその一階の一番右側の部屋に入った。長髪でむっつりした松島って人の部屋だった。そこにこの下宿の住人12人が集まった。狭い六畳間にぎゅうぎゅうずめで酒盛りをした。

 さすがに12人もいると、全員が仲良しって訳でもなさそう。かといってギクシャクした感じでもない。なんだかみんな大人だなと思った。

 しばらくすると枝折さんって人(経済学部の四回生)が生協には気をつけろよと言い出した。俺と隣の柴崎くんに向かって言ってるみたいだった。大学生協は共産党系でいわば「民青」と同じなんだ、と言うので『二十歳の原点』に出てきたあの「民青」かよ、と思った。民青に誘ってもなかなか入らないので、生協で学生を釣るんだと。

 釣るって何なんですか?と俺が聞いたら、「食券」だ、と言った。生協の食堂でバイトしたらバイト代を倍の食券でくれる。貧乏学生はこのバイトに飛びつくけど、長くやってると赤旗取れとか、学習会に来いとか言い出して、そのうち先輩がオルグに来て民青に入れって言い出すんだ。食堂の人はみんな優しいし親身になっていろいろ相談に乗ってくれるからいつのまにか柵ができる。食費は浮くし、柵はあるしでついつい民青に入って、そのまま気がついたら共産党員になってるって訳よ、と苦笑いする。

 

 実は俺もその口でなあ、入学して2年生協でバイトしてたんや。最

 初はみんな優しかったんやけど、民青入れ入れって五月蠅いんで、じ

 ゃ辞めますって言うたら、逃げるなとか、日和るなとか言ってきてな

 あ、大家さんにもえらい迷惑かけてしもて。結局あいつら民青オルグ

 のために生協活動やってるんやで。

 

 一面的やなあ、いきなりそういう言い方はまずいぜ、って本田って人が枝折さんに言うと、せやけど、なんも知らん方があかんやろ、俺だって知ってたら生協のバイトなんかしてないわ、って言い返して、後半は大学生協と民青と学生運動(というか自治会活動)の話に終始した。

 

 下宿の住人が12人。萩の奴。ゼロだった知り合いが13人に増えた。

 

 

4月12日 木曜日

 

 これから練習見に行くけど一緒に行かんか?。

 

 午前中のガイダンスが終わって萩が声をかけてきた。なんだか断るのも癪なのでオッケーした。

 

 山口県人がおってえかったっちゃ、ワシ一人か思うて、ほんまは心細

 かったっちゃ。もしあれやったらおまえも一緒に入らんか?。の?え

 えじゃろ?

 

 この萩の奴、名前は久保っていう。なんだかこの前は生意気な野郎だぜって思ったけど、今日はちょっと感じが違ってた。語尾の「っちゃ」が懐かしい。

 いつもはバスで30分くらいのところにあるグランドで練習してるらしいが、今日は、新歓デモンストレーション。本学体育館前のグランドで練習してるとのこと。マネージャーだと言う人に言われるまま、見学者名簿ってノートに名前書いて、練習を見ていたら、そのマネージャーって人が、え?岩国高校って、たしか村田さんもそうちゃうかったっけ?なんて他の人に言ってる。

 

 ん?岩国高校出身の村田?

 

 ピンと来た。いっこ上の問題児村田。あの超絶テクニシャンだがそれ以上にやりたい放題、我が儘放題村田に、奴をさらに強烈にした兄貴がいるらしいと聞いた事がある。グランドを見てすぐにその人だとわかった。あの独特な走り方、そのまんまなのだ。

 

 見て、あの人、村田さんの兄貴らしいで。

 

 思わず久保に耳打ちした。村田って誰?俺のサッカー部の先輩っちゃ、そんなん知らんっちゃ、と苦笑いされ、そりゃそうかと思った。あの村田さんの兄貴に遭遇したなんて部活仲間に話したら大ニュースで、例外なく腰を抜かすところだが、この大学にそういう仲間は一人もいないのだ。

 

 そういえば午前中のガイダンスはショッキングだった。今日は近現代史担当の岩井教授が話しをしてくれたのだが、開口一番、いやあ、数年前にねえ、自分は司馬遼太郎のファンで、彼の著作は全部読みましたよって、ここで学んでゆくゆくは司馬遼太郎のような歴史学者になりたいと思ってるんですよ、なんて言い出す学生がいてねえ、腰を抜かしたんだよ、って言って爆笑したのだ。

 教授の話では司馬遼太郎は歴史学者じゃないのだそうだ。彼は歴史をネタにフィクションを紡ぎ出す小説家だ。たしかに面白いが歴史学ではない。そこを間違えるな。科学として歴史を学ぶためにって事で課題図書を出された。

 

 『歴史とは何か』(E・H・カー)

 

 自分は司馬遼太郎が好きだ。ゆくゆくは司馬遼太郎みたいな歴史小説を書いてみたいと思っていた。かなり真剣に。

 俺は来るところを間違えたか?

 

 

4月13日(金)

 午前中ガイダンスの続き、昼飯もそうそうに切り上げ体育館前のバス停に。そこから柊谷グランドまで20分。バスの中、はしゃいだ久保はひとりで浮かれていたが、俺はもやもやしていた。

 

 はたしてこれでいいのか?

 

 たしかに今でもサッカーは好きだ。高校時代やりきった感はないし、もっともっと極めたい気持ちもある。それに村田さんのお兄さんって人とも話してみたい。しかし、サッカーに憧れ全国大会出場を夢見ていた中学生の頃とは違う。あの頃はサッカーが俺のすべてだった。加奈子がつれなくてもサッカーがあれば幸せだった。それくらい情熱を傾けてた。

 でも、今の俺にあの頃の情熱はない。しかもあの頃には思いも寄らなかった日本史学という世界を俺は知った。高野悦子に導かれるように俺は京都まで来たのだ。

 それなのに、誘われるままバスに乗ったのは、久保の子どもみたいな無邪気さが、なんとなく中学生の頃の俺みたいだなと思ったからだ。奴はサッカーに焦がれてる。胸を高鳴らせている。その気持ちに誘われた。

 

 柊谷のグランドは京都の町から遠く離れた山あいにあった。山の中腹を削って造っただだっぴろいグランド。陸上競技用の四百トラック。その内側のフィールドがサッカー部の練習場所だった。

 練習に来た一回生は3人。島根から来た奴。経済学部。経験者、現役。島根県選抜のFWだったらしい。見るからに走れそうな均整の取れた身体つき。そして久保。未経験に近いが夢と希望に溢れたサッカー少年。そして俺。経験者だがやる気のあるようなないような浪人生。

 練習はぬるかった、と言える。なんとなく部員が集まってきて、なんとなく練習が始まった。先輩達が並ぶ前に引っ張り出されて出身校や名前を言わされたりするのだとばっかり思っていたから拍子抜けだった。村田さんの兄貴は来なかった。

 アップをして、いろんなダッシュ、2人1組でボール扱い、いろんなパスからのシュート練習、そしてハーフコートの8対8。だらだら2時間ほど練習をして、いつのまにか終わった。

 部室?みたいな倉庫の前で着替えていたらマネージャーが来て言った。

 

 練習は基本週3回、火木土。リーグが始まったら試合が日曜。練習は 

 基本午後2時からやから午後の講義は取らんといて。

 んで5月に関東遠征あるし、4万かかるから今から金貯めといてや。

 

 帰りのバスには島根も一緒だった。守備ってやつはワンサイドカットの積み重ねなんだ。みんなで協力して相手をサイドに追い込んでボールを取るんだ。先輩には悪いが、みんなデタラメ。なっちゃいない。だから二部リーグなんだよ。島根は久保相手に熱く語っていた。

 衣笠に帰ってきたら、もうかなり薄暗かった。汗をかいた身体にトレーナー1枚じゃ少し寒かった。俺と久保は島根と別れて以学館の地下で日替わりランチを食べた。久しぶりの運動は心地よかったが、明日は絶対筋肉痛だなと思った。

 

 下宿に帰って来たら、山下くん、電話やで、と大家さん。誰だろうと思って電話に出たら、立命館大学応援団の〇〇だ、と名乗った。応援団が何の用だ?って思ってたら、貴様、入部登録のノートに名前書いておきながら、挨拶無しとはどういう事だ?と凄まれた。入るなんて一言も言うちょらんすよ、名前書くだけでええ言われたけえ、書いただけっすよ、って丁寧に説明したのに、ゴタゴタ言い訳せずに筋通せや、なんて怒鳴るので段々腹が立ってきた、おまえ、なに勝手な事言うちょるんじゃ、何が民主的応援団じゃ、ヤクザと一緒じゃのおおまえら、と声を荒げていたら、大家さんの奥さんに受話器を取り上げられた。大きな声だした事で怒られるのかと思ったら、大家さんは応援団を叱り飛ばした。

 

 ちょっとあんたどういうつもり?親御さんから責任持って預かってる

 下宿生や、文句があるんならウチに言うてきいや、これ以上ちょっか

 い出したら大学に言うていくで、ええな

 

 

4月14日(土)

 朝、目が覚めたけど起きれなかった。身体全身が硬直してベットから起き上がれない。無理して起き上がろうとしたら激痛が走った。

 おそらく明日は筋肉痛だなとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。まあ無理もない。ここ1年、寝るか食べるか勉強するかしかしてこなかったのだ。こんな柔な身体でサッカーしたいなんて、サッカーの神様に申し訳ない。この痛みはサッカーを冒涜した罰だなと思った。かなり真剣にそう思った。

 10時頃やっと起き出してよろよろと学校に行った。清心館で久保を見つけて、やっぱ俺やめるわ、無理や、って告げたら、はあ?あれくらいで降参か?まあ残念じゃがしょうがねえのお、まあワシがマネージャーに言うといたるわ、と答えた。

 ミスター村田には会えずじまいになったなあ、と思った。

 

 下宿に帰ってムツゴロウの「青春期」を読んだ。

 

 

4月15日(日)

 滋賀県は琵琶湖の東側にある希望ヶ丘ってとこまでバスハイク。日本史専攻一回生だけの新歓行事。

 最初なんやし、全員参加してもうたらうれしいんやけどなあ、と最初のガイダンスの時、自治会の三回生がビラを配った。参加費2千円は痛かったが迷った末に申し込んでおいた。

 起きた時、筋肉痛がまだ残っていて、今日は止めとこって思ったが、ビラを見返したら費用は返金不可とある。2千円惜しさに下宿を出た。

 

 体育館前のバス停、クラスのみんなに混じって立っていたらバスが来た。言われるまま適当に座ったら、ここええか?とリーゼントヘアの優男が隣に座った。

 

 自分、長州弁が渋いじゃん。

 

 リーゼントがそう言うので、そねえな頭しておまえ、暴走族じゃったんか?と聞くと、後ろに座っていた旭川から来たという大男が、俺もそれ聞きたかったんさ、と話に加わってきた。北海道でそんな髪の奴いなかったからさ、というと、人を見た目で判断するんは良うにゃあわ、ファッションだでファッション。愛知じゃみんなコレだでね、とテカテカした髪を撫で上げた。

 バスはボクらを乗せて琵琶湖の南を東に走った。

 

 見てみろよ、あの辺りに安土城があるんだぜ

 

 後席の旭川が俺に言うようにバスの窓を指さす。自分は信長を研究するためにここに来たんさ、と旭川は力を込めたが、いや、あっちじゃのうてこっちだで、おみゃあが指さしてんのは比叡山、湖の東側だで安土城はなあ、とリーゼントに言われ、前の席に座っていたおばさんみたいな女子に、しかもあんた、今は城跡しかないねんで、と笑われしょげかえっていた。

 

 ハイキングと聞いて、去年の3月、高校のクラスで行った妹背の滝みたいなところかなと勝手にイメージしていたが全然違っていた。目的地の希望ヶ丘ってところはとてつもなく広かった。どこまでも芝生の広場が広がるような公園施設で、ここに較べたら妹背の滝は箱庭だなと思った。下宿の窓を開けたら、すぐ手が届くところに隣のアパートのベランダがあるようなゴミゴミとした京都の街と較べても、その広大さは胸がすくようで、これまで寡黙だったクラスのみんなも別人のようにはしゃいでいた。

 配られた弁当を食いながら久保とサッカー部の事を話していたら、体育会系のサッカー部に入ったんかい?なんて隣にいた奴が驚いた声をあげた。いやいや、1回練習に行って降参したのっちゃ、と言うと、入ろうと思うだけですげえや、と褒められた。俺は歴史学研究会ってサークルに誘われたから今度行ってみるべって思ってる、なんて面白いしゃべり方するので聞いてみたら、群馬県は前橋出身との事だった。

 午後はだだっぴろい芝生広場で自治会役員が用意したゲームをやったり、フォークダンスをしたりした。ついこないだまで見知らぬ他人だったのに、誰もが昔からの知り合いのようによくしゃべり、よく笑った。俺も久しぶりに笑ったような気がした。筋肉痛はまだ残っていて、身体は随分疲れたが、サッカー部よりずっと心地良かった。

 ゼロだった知り合いがどんどん増えていくなあって思った。

 

 

4月16日(月)

 サークルどうしようかな?。

 中学、高校ほとんど部活目当てだった。中学の時は野球部、高校の時はサッカー部に入ると決めていた。子どもらしい希望に燃えてた。俺は高校に勉強しに行くんだ、目指せ国立大学、なんて考えた事は一度もなかった。

 これまでの人生、部活第一できたから、その流れでついついサークルに入ろうかな?なんて考えるんだろうけど、そもそも大学でサークルに入る必要はない。その為に浪人したんじゃないのだ。

 進路が決まってからこっちに来るまでバイトした。牡蠣運送の仕事。荒井の紹介。おっちゃんの助手になって11トントラックに乗る。広島から廿日市の地御前ってとこまで行き、牡蠣打ち場から集まってくるたくさんの半斗缶を大急ぎでトラックに積み込み、広島にとんぼ返りして鉄道貨物に積み替える。忙しいのはほんの2時間ほどで、あとは助手席に座ってるだけだったが、次から次へと運び込まれる半斗缶に追いまくられるその2時間は信じられないくらい過酷で、1週間目に腰が伸びなくなった。2週間働いて手にした給料は6万円ほど。あの寒い中、牡蠣汁にまみれて頑張った事を考えると、無駄遣いをする気にはなれない。

 それと同じように、あの人生初の試練、暗く切ない予備校時代を考えると、たった4年しかない大学生活を思いつきや気まぐれで過ごしたくはないのだ。

 だから、無理してサークルに入る必要はないんだよなって思う。そもそもサッカー以上に入りたいサークルはないのだ。

 どうでもいいサークルでダラダラ過ごすくらいならバイトして金儲けした方がましだ。バイトすれば京都の人とも知り合いになれるだろう。京都の人と知り合えれば京都の街だってわかるはず。京都を知らずに日本史は語れない。なんとなれば、サークルもバイトもなしに、歴史学一筋でも良い。否、それが本筋かもしれない。

 

 

4月17日(火)

 週が明けてから冷え込んだ。岩国から持ってきたアーミーコートを着ていても震えるくらい。

 バスハイクの時に喋った前橋出身の豊島から、良かったら歴史学研究会、一緒に行ってみねえか?って誘われた。昨日、あんなに考えたのに、誘われるまま、まあ歴史学研究だからいいっか?って感じでノコノコついて行った。 

 体育館横の学生会館って建物の3階。歴史学研究会(略して歴研)のボックスを訪ねると、見たような顔で一杯だった。どうやら歴研はほとんどが日本史専攻の学生らしい。毎年そうだから今年も50人中半分くらい入るんじゃないか?って上級生は言ってた。

 見れば久保がいた。おいおい、おまえさあ、サッカーと歴研ってそりゃ無茶だぜって言ったら、えへへ、サッカー止めたっちゃって笑ってみせた。本格的に練習始まったらきつくて、とてもじゃないけどついてけないって思ったらしい。正論。正解。歴史学びに来て、歴史よりサッカー選ぶ馬鹿はいねえよなって思った。

 古代、中世、近世、近現代と部会が分かれていて、それぞれ研究テーマを決めて活動してるんだと言う。君ら、希望する部会をここに書いてって名簿を渡されたので「近現代史部会」に〇しておいた。聞けば豊島も久保も近現代だというので、一緒に部会の部屋に移動した。

 ほんとはもっと多いのだそうだが、今日来ていた部会員は10名。9名が男。女子は四回生のアヤちゃんって人だけ。一回生は俺と豊島と久保、リーゼント暴走族志村、あと大阪、東京の男。

 自己紹介の後、まずは、今年の研究テーマ決めなあかんからなあ、って感じで生ぬるく始まった。近現代部会の部長は長瀬という日本史三回生の人。20歳そこそこだろうに、すでに30男の風格を醸し出す老け顔。

 

 研究テーマどないする?

 せやなあ、何がええかなあ

 新人の君ら、なんか研究したい事ある?

 

 なんて言ってるうちに外は暗くなり、とりあえず夕飯食べに行こって事になり、夕飯食べると、テーマは来週決めよ、それまでに考えといてって事でお開きになった。

 帰ろうとしたら、四回生の長髪、稲川さんって人に誘われ、リーゼントと2人でその人の下宿へ行った。俺の下宿と同じ六畳間だったが、その壁際に置かれた本棚に圧倒された。数え切れない本が鮨詰め状態になっている。経済学部の稲川さんって人は、高3年の時に「女工哀史」を読んで以来歴史研究が趣味になった、と言ったが、その言葉どおり、本棚のそれは経済学よりも圧倒的に歴史学で、とても趣味とは思えなかった。

 

 これ、全部読まれたんですよね?

 読むだけで理解はできてないけどな

 

 その言葉で酔いが回った。下宿に帰るのが面倒臭くなってリーゼントの下宿に泊めてもらった。

 

 

4月18日(水)

 教育心理学の講義。549号、大講義室で教授を待っていたら、ふいに後ろの席の人に肩を叩かれた。振り向くと知らない女の子。

 

 もしかしたら岩国出身の方ですか?

 は?  岩国?   ええまあ、 そうですけど?

 もしかしたらサッカー部の人ですよね?

 え?、まあ    サッカー部でしたけど?

 やっぱり。私も岩国高校なんですよ。

 え?ああ、へえ、そうなんですか

 私、西洋史一回生の秋山です

 ああ、日本史の山下です

 この前からずっと似てるなあって思ってたんです。いやあ、間違って

 無くて良かった。間違ってたらどうしようって思ったんです。岩高か

 ら来たのは私ひとりなんで心細かったんですけど、先輩が居て良かっ

 たです

 

 いきなりと突然が功を奏して、女子が苦手な俺も自然に受け答えができたが、冷静だったのは最初だけ。次の言葉で頭が真っ白になった。

 

 私、高校の時はバスケ部だったんですよ

 

 とうとう、地元の知り合いまでできちゃった。

 

 

4月19日(木)

 昨日の夕方、帰ろうとしたら清心館の出口のところで、秋山さんに会った。きけば京福電車の鳴滝駅近くに下宿があるとか。じゃあ帰る方向が同じじゃんって事で一緒に竜安寺駅まで歩いた。

 秋山さんは俺の事を先輩と言う。たしかに先輩に違いはないが、実質初対面でしかも大学では同級生の人に先輩なんて呼ばれるのはなんだかむずがゆかった。

 

 先輩って刺されましたよねたしか。3年生の時。先輩が大騒ぎしなが

 ら保健室に駆け込んできた時、あの時私、保健室にいたんですよ、ほ

 らあの保健室のモモエって呼ばれてた意地悪な先生が、保健室で騒ぐ

 なって怒鳴った直後に、先輩が制服脱いだら背中が真っ赤で、さすが

 のモモエ先生も絶句して、あれは衝撃的だったですよねえ?まだ痛み

 ますか?背中。

 

 なんだかいやーな予感がした。刺された事覚えてるって事はあの事も知ってるのか?ってヒヤヒヤしてたら、案の定で

 

 合唱コンクールも大変でしたよね、背中刺されたばっかりなのに指揮

 なんて、そりゃ無理ですよ。なのに会場中が大爆笑で。人の不幸を笑

 っちゃいけませんよねえ、まあ私も爆笑しちゃいましたけど。

 ※詳細は拙著「なぜさかのぼらないか」参照

 

 秋山さんは、笑ってごめんなさいと謝りながら爆笑してみせた。秋山さんは岩国中学校出身らしい。先輩はどこなんですか?って言うから、俺は東中だって言ったら、東中っていうと、津田先輩と一緒ですかって言うからドキっとした。今度部活に行って津田先輩に会ったら、山下先輩と一緒なんですよって伝えときますよ、センパイ目を丸くするでしょうね、なんて言った。

 駅のところで電話番号交換した。同郷同窓なんですから、困ったらお互い助け合いましょうねってメモを丁寧に手帳に挟んだ。別れ際に、あっそうだ、今度の日曜日、新歓夜祭の次の日ですけど、空いてますか?なんて聞いてきた。清水寺案内してくださいよ、私、まだ京都にきてどこにも行ってないんですよ、と笑顔で手を振った。

 

 で、今日の事だが、朝、清心館に入ると、掲示板に日本史一回生、昼休み集合なんて書いてあった。今度の土曜日の新館夜祭の件だった。毎年日本史の一回生は焼き鳥「与作」って屋台を出すらしいので、今年もそれをやることにしました、なんて自治会役員になった連中から報告があった。なんだよ、面倒くせえなって思った。

 

 しょうもねえ、中学生じゃあるまいし、おい、昼飯食いに行こうぜ

 

 リーゼント志村に声かけたら、俺は残るでね、とか言うから、何を言うちょる?、まさか暴走族が焼き鳥焼こうっちゅうんか?ってせせら笑ったら

 

 だって、みんな仲間だで

 

 なんて言われた。結局、焼き鳥の下ごしらえ(鶏肉を切って串にさす)100本と当日の店番(7時から9時の2時間)をやることになった。メンバーは俺とリーゼントと豊島。うちの下宿は台所が広いし、使いたい放題だぜっていうので、明日の夕方、豊島の下宿がある高雄まで行くことになった。

 

 

4月21日(土)

 まずは昨日の事。予定どおり夕方、リーゼント志村と俺と3人で高雄の豊島の下宿まで自転車を漕ぐ。高雄は梅ヶ畑ってとこに下宿がある。梅ヶ畑は京都市内から北西。若狭に通じる周山街道を30分くらい行ったところにある。ここってホントに京都市内なのか?ってくらいの山間部。上がり下りのきつい街道にはくたびれた。 

 材料や食材は役員が準備してくれたが、なにせ焼き鳥なんて仕込んだ事もなく、なんだかんだで時間だけ食ってしまって終わったら夜の9時。真っ暗闇の中あの街道を帰るのは恐怖だぜってことで3人でチャルメラ食いながら酒を飲んだ。

 

 日共独裁の学園、どう思うよ?

 

 豊島が言い出した。聞けば豊島の家は先祖代々の豪農で、とくにお爺さんって人は若い時から政友会所属の県会議員として政治に血道をあげていたとのこと。そのお爺さんって人の影響で豊島自身も自民党右派支持の保守主義者。部屋には群馬出身の偉大な?政治家、福田赳夫氏の肖像が額に入れて飾ってある。毎朝、起きたらまず福田先生の肖像を拝むのが習慣だというのだ。

 

 ぶっちゃけた話、民青ってのも日共だんべ?つーことは自治会も日共

 独裁ってことじゃねえきゃ

 

 正直、政友会なんて大昔の話だって思ってたし、自民党右派とか、福田赳夫がどうのと言われたって何が何だかわからないが、高野悦子を死に追いやった「民青」にはあまり良いイメージはない。とくに大学当局の権力(つまりは大学を支配する日共の権力ってことか?)を笠に着て全共闘を追い出したのは「卑怯」だと思う。

 あれって反動勢力に金で雇われて街宣車走らせてる似非右翼とか、ナチスの権勢を良いことにユダヤ人狩りをやったゲシュタポとかヒトラーユーゲントとか、幕府の後ろ盾を良いことに攘夷派狩りに血道を上げた新撰組みたいなものじゃねえかって思った。卑近な例でいうと、生徒指導の教員に長ラン、ボンタンを黙認される代わりに一般生徒を締めてまわる番長グループってとこだ。正しい正しくないというよりは、情けない、みっともない、カッチョワルイの典型だと思うのだが。

 そう言うと、豊島は、そうだんべ?そうだんべ?を連発し、やっぱ長州は話がわかるぜって喜んでた。リーゼントはそんなやりとりを黙って聞いてた。おい暴走族もそう思うだんべ?って豊島が聞くと、

 

 んー右にしろ左にしろ独裁は駄目だでね、いろんな意見があっての民

 主主義だで

 

 と渋い事を言った。

 酔い潰れて、そのまま豊島の下宿で寝てしまった。

 

 ここからは今日、土曜日の事。

 2講目にある生物の授業に出なきゃってことで、朝早くに起き周山街道を下ったが、早朝サイクリングでぐったり疲れ、大教室について10分も持たずに陥落。惰眠を貪った。

 その代わり夕方からは張り切った。昨晩仕込んでいた串刺しを軽くあぶっておいて、屋台ではちょっと焦げ目をつければ良いくらいにしとこうって事で、リーゼント志村の下宿(なんと大学、東口を出て1分の至近距離)へ集合。

 狭い台所を占拠してパタパタやっていたが、タレをつけて焼くと良い匂いがするもんで、焼き鳥かじりながらチビチビやってしまい、祭が始まるころにはすっかり酔っ払ってしまった。

 串焼き100本が入った容器を持って、割り当ての7時に本学グランドに行く。グランドの中央ではかがり火。太い枕木を高くくみ上げた井桁に火が入っており、たくさんの屋台の間を行き交う数え切れないほどの学生。こんなにたくさんの人出を見たのは、中2の時に先輩達と行った、米軍岩国基地のフレンドシップディ以来だぜって思った。

 焼き増し作業はリーゼント、会計は豊島に任して、俺は屋台の前で「与作」と書かれた看板を持って客引きをやった。

 

 よお、ねえちゃん、食べてけっっちゃ、焼き鳥、うまいっちゃ

 

 酔っ払った自分の声が真っ暗な夜空に吸い込まれていった。俺もこの大学の学生になったんだな、とはじめて思った。

 途中、通りかかった秋山さんが声をかけてきた。明日の日曜日大丈夫ですか?って言うので、おお、ええでって言ったら、じゃ午前10時に阪急西院駅でねって手を振った。

 

 屋台の片付けは来週月曜日で良いって事で、祭終了後の10時すぎ、残った一升瓶2本を持って金閣寺の駐車場に移動。街灯の下に車座になって回し飲みした。まさか金閣寺の駐車場で酒盛りするなんて夢にも思わなかった。やっぱ京都の大学は贅沢だなあなんて笑いあった。

 

 

4月22日(日)

 清水寺に行った。

 地図で阪急西院駅ってのを調べて自転車でそこまで行くとGパンに白Tシャツ、薄水色のカーディガンを羽織った秋山さんが待っていた。同じバスケ部でも津田は小柄だけど、秋山さんは背が高い。ひょろっと細いけど俺と同じくらいはある。小柄な津田はドリブルでボールを運ぶとか、外からシュートを打つ役だったらしいが、多分、秋山さんは1番にゴールの近くまで行って、ゴール下でシュートを狙う役だったんだろうなって思った。

 天気が良くて2日酔いの目に日差しが眩しかった。

 なんでも京福電車ってのはひどく便利らしい。鳴滝から帷子ノ辻まで行って、そこで乗り換えれば西院まですぐ。しかも、西院駅は阪急電車につながってるから、河原町はもちろん、大阪にだっていける。

 案内してくださいよ、なんて言ってたくせに、俺よりもずっと秋山さんの方が京都の街に詳しかった。秋山さんに言われるままに、四条河原町で降りて、橋を渡り八坂神社まで歩き、そこを南に折れて産寧坂を上がった。

 錦帯橋を渡った職人町にある時計屋が実家だという話、毎年夏にある花火大会の運営に実家も関わってるって話、サッカー部いっこ下の部員だった岡崎が女子にモテモテだった話、西洋史研究にはキリスト教の聖書理解が必須だから、春休みからずっと聖書を読み込んでるって話等々、歩きながら秋山さんはよく喋った。

 へえそうなんだ、ほんとに?、そりゃびっくりだね、と俺は相づちをうつだけで済んだから助かった。清水寺の舞台に立って山手の新緑を眺めた。津田加奈子ってどんな先輩だった?って深呼吸する感じで聞いてみた。

 

 ははあ、先輩も津田先輩が好きだったんですね?

 

 なんて返されて鼻血が抜けそうになった。この子、全部知ってんのか?って青ざめたけどそうじゃなかった。なんでも体育館での津田人気がすごかったというのだ。バスケ男子は言うまでも無く、バレー男子や体操部の人なんかも、ネット越しに鈴なりで、津田先輩がシュート決めたら大騒ぎで。でも、津田先輩はそういうの全然無視なんですよね。ニヤけるでもなく、怒るでもなく、いつもと同じように淡々と練習してるんですよ。不思議な人ですよね?

 俺らサッカー部は体育館から遙か離れたグランドの隅で練習してたから、そんな体育館内の恋愛事情なんてまるで知らなかった。

 

 あいつ、俺のクラスの坂本と付き合ってたんだよ

 ああ、バレー部のカッコイイ先輩ですよね?やっぱりそうだったんで

 すかあ、すっごく積極的だったですからねえ坂本先輩、バレー部とか

 バスケ部とか坂本先輩に憧れてる女子が多くて、みんな津田さんに嫉

 妬してましたよ

 予備校の時もさ、背の高い長髪の広島の男と付き合ってたよ、広大通

 ったから、今はいかした大学の先輩とかと付き合ってんじゃないの?

 へえ、詳しいんですね、やっぱり興味あるんだ

 いやいや、ただの幼なじみだから

 そういや先輩、ラジオに出ましたよね?好きな人がいるとか、すごい

 事言ってましたよね?私、聞きましたよあれ。あれって津田先輩の事

 だったんですね

  ※詳細は拙著「なぜさかのぼらないか」を参照

 

 河原町まで降りて鰊そばを食べ、来た道を戻って西院の駅で別れた。今度は一緒に奈良に行きませんか?私、奈良一度も行った事ないんで。別れ際に秋山さんはそう言った。

 

 同年代の女の子と2人だけで遊びに行った。これってデートってやつなのか?。人生初デート?。ああ、そうなんだ、そうだったんだって下宿に帰ってから思った。

 

 

4月23日(月)

 クラスに島津さんという女子学生がいる。鹿児島出身。初めてのクラスガイダンスで自己紹介した時の事が印象的だった。

 

 私は鹿児島にいたとき、かごしま、、、かごしま、、、かごしま、、、

 の事がすごく嫌いだった、、、でも、遠く京都に出てきて、、、三日す

 ごしてみると、なぜだか、なんでだか、鹿児島へ帰りたい、、、帰りた

 いと思うのです

 

 アクセントを気にしてるのか、うつむいて「かごしま」を三度も繰り返した。島津さんは華奢な身体つきで、すらりと背が高い。俺とおなじくらい。髪は短くも無く長くもなく、風に吹かれた髪が少し頬をなでるくらい。

 

 夕方、下宿に帰ってみると部屋にテレビが置いてあった。ナショナルの⒕型カラーテレビ。大家さんにきくと、ああ、お昼頃電気屋さんが来て、置かせてもらいまっさって言わはるから、部屋に上がってもろたんやけど?え?山下くん、買うたんとちがうの?って言う。そっか、こりゃ早川やなってピンときたから、ああ、いや、もっと先になるって聞いてたから、ってごまかしといた。

 実家に電話してみると、そりゃそういう事じゃろ、あんたからお礼の電話入れときんさい、なんて言うので、おそるおそる電話してみた。

 

 テレビぐらい持っとかにゃ時代に遅れるけえのお

 

 やっぱりそうだった。一応、お礼は言ったがなんだか釈然としない。なんだか馬鹿にされたみたいでもやもやしている。だってそうだ。「下積みのころさんざコケにされたが、わしゃなにクソっ思うてやってきた」って従兄弟にあたる社長は苦労話をしてくれた。それはすごい事で尊敬もする。でもそれなら「ほしけりゃ自分で金稼いで買えや」って突き放すべきじゃないだろうか?。大学入ったくらいで調子に乗るな、人に物乞いするような根性じゃ何もできんぞ、くらい言ったって良い。

 この前すでに10万円という大金をもらったのだ。俺としたらアレで十分なのだ。それ以上は贅沢、あぶく銭でしかない。だいたい俺が2週間、腰を痛めてまで頑張った、汗と涙のバイト代が6万円。それなのに、小遣いやろう、で10万円、時代に遅れちゃいけん、でテレビ。それっておかしいだろ。

 だから悔しい。腹が立つのだが、さらに悔しいのは、買ってもらったテレビを怒りに任せてたたき割る覇気がないことだ。舌打ちしながらテレビを見て、まっいいか、あればあったで悪くはないけどな、なんて思ってる事だ。

 

 

4月25日(水)

 今日は春闘初日。昨日の夜、明日はどうせ休講だろな、と高をくくって寝た。昼過ぎに起きてテレビを見たら、国鉄は午前中に妥結なんて言ってて慌てた。ただ関西の私鉄はどこも交渉中で、明日以降に持ち越しの見通しなんて言うのでホッとした。

 

 今日は一日下宿でのんびりした。ベットに寝そべって、太宰の「人間失格」を読んだ。今日は少し蒸し暑くもあった。短パンに長袖Tシャツが丁度良い、晩春の一日。

 

 

4月26日(木)

 今日、ラジカセを買った。ソニーのCFSー686。59800円。

 俺はテレビよりもラジカセが欲しかった。そもそも辛いバイトを頑張ったのもラジカセの為だ。下宿したら、いの一番にラジカセを買おうと思っていたのに、なんだかんだで遅くなった。それにつらい労働に見合う一品をと思えば思うほど慎重になり、あちこち見て回っているうちに今日になった。ただ、岩国より京都の方が断然都会なのに、岩国の第一産業みたいな家電量販店が京都にはない。街の電気屋は小さな個人商店ばかりだ。結局、大学生協の電気製品コーナーが一番品数が多く安かった。値段にしても定価ロクキュッパが一万円引きの59800円。ぎりぎりバイト代6万円に収まった。ずいぶん重くて自転車の荷台に括り付けて持って帰るのは大変だったが、それだけに喜びもひとしお。

 設定をすませ、カセットを入れてFMを回したら、沢田聖子の「キャンパスライフ」を聞いてください、なんてアナウンスが流れた。キャンパスって響きに釣られてエアチェック。沢田聖子なんて初めて聞く歌手だ。「テニスボール」に「日差しに華やぐキャンパスライフ」、「青いタオル」に「日焼けした顔」、先輩と思われる「あなた」に「風まで眩しいキャンパスライフ」と、コカコーラのCMを思わせるようなステレオタイプの学生生活が歌われてる。これまでなら舌打ちしてしまうような駄曲だが、やっと手に入れた憧れのラジカセの力か、それとも歌詞に出てきた「あなた」って言葉が「センパイ」に聞こえて仕方なかったからか、寝るまでずっと同じ曲を繰り返し聞いていた。

 

 

4月27日(金)

 立命館は平和だ。キャンパス内を歩けば、どの校舎にも、どの道沿いにも立て看はある。「東京サミット糾弾 反動の欺瞞 分裂策動粉砕」「天皇制廃止 元号法案粉砕」「学生大会 学園民主化総決起集会」と過激な文言がいわゆるゲバ字で書かれている。夜遅くに清心館に立ち寄れば自治会の誰かが玄関ロビーに広げた立て看に黙々とゲバ字を書いている。

 でも過激なのは立て看の文字だけ。昼休みになればフォークサークル「若者」がメルヘンチックな曲を満面の笑顔で歌い出すが、やつらの正体は民青だ。ほら、こんなに平和で民主的な僕たちの仲間になりませんか?。羊のぬいぐるみを着た狼が「おぼこい」新入生を誘惑する。それって新興宗教とか、ネズミ講と一緒じゃねえかって思う。

 彼らが「トロ」と蔑む過激派学生はどこにもいない。高野悦子の全共闘はその痕跡すらない。ありとあらゆる手段で締め出し、一切キャンパスに入れなくしてるらしい。

 京都でも、他の大学では体育会系の屈強な学生と警備会社が手を組んで学内を支配してるって聞いた。もし学内でビラを配ったり看板を立てたりしたら速攻で取り囲まれて殴られるらしい。右翼左翼の差はあれど、やってる事は同じじゃねえか。学問研究の場、大学なのだ、いろんな意見や思想があってしかるべきだ。いくら学内が平和でも、論争や意見の衝突のない研究に意味があるのだろうか?。

 

 そんな話を豊島がしていた。俺には何が正しいのかよくわからない。

 

 

4月29日(日)

 テレビを買った(ということにした)事を話したら、じゃみんなでナイター見ようぜって事になった。昨日の事だ。東京は世田谷出身の小谷、札幌出身の尾崎、豊島が来て、買っておいたサントリーレッドをチビチビやりながら4人で阪神対広島戦を見た。関西地方ではサンテレビってのが阪神の試合をプレイボールからゲームセットまで中継する。熱狂的なカープファンで全国的に有名になった広島でも巨人戦くらいしかテレビ中継はないのに、阪神の力は偉大だ。

 今年は広島が絶不調。対して阪神は江川入団騒動で巨人から来た小林が大活躍だ。先発は福士とその大活躍の小林。福士も随分がんばっていたのだが5回に4点とられてノックアウト。その後は出てくるピッチャー出てくるピッチャーが打ち込まれて15対2。カープは山本浩二のHRの二点だけ。途中からは見る気も失せてダラダラ雑談に終始した。

 豊島は帰って、尾崎と小谷は泊まり、そして今日、大学はBIGフェスティバルだとかで、じゃあ行ってみるかって事でノコノコでかけた。

 映画研究会ってとこが無料上映会ってのをやってた。タダならいいべって事で「男はつらいよ(第1作)」を見た。 たしかこの映画、中1の時テレビで初めて見た。マドンナ役のお寺の娘が津田加奈子に似てるなあって思い込んだ記憶があったが、改めて見て、これのどこが似てるんだ?って思った。全然似ていない。気持ち良いくらい似ていなかった。

 

 

4月30日(月・祝日)

 今日は祝日。久しぶりに一人で過ごした。

 昼過ぎに起きてインスタントラーメンを作って食べる。腹一杯になってベットに寝そべり、今日の夕食は何にしようかな?って考えた。食パンにハムエッグとフランクフルトをのっけて食べるってのはどうだ?。ぶっといフランクフルト。フライパンで熱したあっつあつのやつに、ケチャップじゃなくてマヨネーズたっぷりかけて頬張ったらうめえだろうなあ。そう考えたら無性に食べたくなった。

 近所のスーパーに走って行って食パンとフランクフルト、マヨネーズを買った。卵はこの前買ったやつが残ってる。

 さっきラーメン食ったばっかりで、腹がペコペコって訳でもないのに、フランクフルトをフライパンであぶったら涎が溢れてきて我慢できなくなった。1枚目。ガブリとフランクフルトにかぶりついたら、フランクフルトから肉汁が飛び出して、それが美味くて美味くて踊り出しそうになった。その後はもはや記憶にない。立て続けに3つ?3枚?ほうばったら、、、、気持ち悪くなった。

 

 

 

 

 

  ※ゴールデンウィーク中で記述なし

 

 

 

 

 

 

5月6日(日)

 連休で岩国に帰っていた。荒井に電話したら車で迎えに来てくれて、そのまま荒井んちに2泊。池内や森脇も来て麻雀。結局実家には1泊したきりで、あんた何しに帰ってきたんかね、と母親にぼやかれた。

 荒井は可愛い彼女ができたのだそうだ。隣の小さな子が話すように荒井はうかれていた。知り合ってまだ2週間だそうだ。今、楽しさの絶頂なんだろうなあ。うらやましいなあって思った。そういや、バスケ部のいっこ下の子と知り合いになった事、言おうかなと思ってたが止めておいた。

 

 

5月8日(火)

 歴史学研究会、近現代部会の研究テーマが「大正デモクラシー」に決まった。

 提案レジメを読んでも理解不能。提案を受けての議論を聞いてもチンプンカンプン。発言を求められても答えられる訳もない。苦痛の3時間だった。もう少しわかりやすく話せないものかなと思う。議論の中で三回生の佐治さんって女の人が「歴史的発展の規則性が」なんて言うから、それって何なんですか?って思わず聞いてみたら「歴史的発展も知らないの?」なんて馬鹿にする。知りませんよ、そんな事、って答えたら、歴史の発展には規則性があるの、封建制は資本主義へ、そして社会主義へと発展するのよ、と言うので腰が抜けそうになった。

 

 って事は、日本も社会主義国になるって事ですか?

 そうよ

 誰が決めたんですか?そんなの

 マルクスよ、史的唯物論、マルクス主義の歴史学ではそうなってんの

 へえ、そうなんですか、で?いつなんですか?それって

 それは、、、、

 来年くらいですか?まさか来月とか?

 ちょっとあなた、人おちょくるような言い方止めなさい

 

 難しい単語を使えば使うほど良い。難解であればあるほど高尚だ。それについてこれないおまえが悪い。そう言いたいのだろうが、本当に理解できているのなら、わからない奴にわかるように説明できるだろに。まあ、俺が勉強不足なのは事実だけど。

 

 

5月13日(日)

 4日ぶりに下宿に落ち着いて日記を書いている。9日は暴走族の下宿で飲み、10日は谷脇さんちで飲み、11日は久保の下宿、そして12日は歴研コンパ。さすがに4日も続けて飲むときついわ。もう何が何だかわからなくなってくる。なんだか酒を飲むために大学に入学したみたいだ。

 それにしても昨日の歴研コンパは拍子抜けだった。一回生は例年、酔い潰れるまで飲まされるんだとかさんざん脅されてたけど、口だけ。立て看板だけ過激だけど、その実何もせず、ダラダラしてる学内の雰囲気そのまんまだ。

 一次会は祇園の正心亭という学生居酒屋。二次会は地下の居酒屋(名前は不明)夜中の1時頃、豊島や東京と一緒に千本今出川まで歩いて帰るが、さすがに歩き疲れてタクシーに乗った。とんだ散財だ。

 

 

5月14日(月)

 虚無的だ。俺はじつに虚無的。ものすごく今、虚無的なのです。今日は一日中雨が降ってたからだろうか。身体が重い。心も重い。真っ黒い雲が冷たい風に煽られて西から東に流れて行った。

 浪人時代、こんな気分になることはなかった。毎日、広島駅から30分もかけて予備校まで歩いてたよな。まっすぐ前を向いて歩いてた。そうあの頃は立命に行くんだというはっきりした目標があった。使命感といってもいい。だけど、今は闇の中だ。自分が目指した歴史学ってなんだったのか。自分はここに来るべきだったのか?迷いはじめている。

 

 そうだ、目標を立てよう。目標がいる。

 

 ①身体を鍛えよう。筋トレをやって夏までに減量。七十キロが目標だ。

 

 ②夏までに短編小説を書こう。内容は何でもいい。とにかく人生初の

  作品を一本書き上げる。

 

 ③彼女を作ろう。異性の友人でもいい。とにかくそういう人が必要だ。

  そんな気がする

 

 

5月19日(土)

 鹿児島出身の島津さんって子は笑わない。ゼミの時も、みんなクスクス笑ってるのに無反応。爆笑でやっと表情を崩す程度。そして、島津さんは喋らない。鹿児島弁が出るのを気にしてるのか、もともと無口なのかわからない。あの子の心の世界。何もしらない。

 

 見えないから見たい、知らないから知りたい、わからないからわかりたい。人間ってのはだいたいそうで、よく見えるもの、よく知ってる人、すぐに理解できる概念にはあまりこだわらない傾向がある。

 教育心理学の先生がそんな事を喋っていて、あ、それよく分かるって思った。まさに島津さんがそうで、なんだか妙に気になる。

 

 

5月26日(土)

 5月20日の日曜は久保、豊島、尾崎と4人で左京区をうろつく。銀閣寺から南下して法然院、南禅寺。みっつも回った。夜は俺の下宿でビール。

 5月24日(木)は立同戦前夜祭。岡崎公園を彷徨った挙げ句、たどり着いた野外音楽堂?で応援団の演舞を見る。集まった大勢の学生で気勢を上げた。無論、河原町でビール。

 毎日忙しくて自分が一体どこにあるのかわからなくなってくる。人の声も聞こえない。自分の言葉が空虚極まりない。煙草ばかり吸っている。そして今日はこれから歴研新歓合宿に宇多野まで。

 本読めよ、マルクス知らずのマルクス主義者じゃ駄目だぞ、毎日論文1本は読むようにせな、って歴研の先輩達は言うけど、こんな日常でいつどうやって本を読むんだよ?

 

 

 

5月29九日(火)

 歴研の新歓合宿は結局いつものダラダラで終わった。土曜日は夕方集まってセミナーハウスで夕食の後、いつもの酒盛り。島津さんでもいれば気分が違うんだろうが、彼女は歴研には入ってない。翌、日曜は部会に分かれて年間計画と係分担を決めお昼には終了。俺は2・11建国記念の日粉砕実行委員なんてやつにさせられた。ほんとに粉砕するんですか?って長瀬さんに聞いたら、まあそーゆー気概だよ、気概、って誤魔化された。

 

 そして昨日は立同戦(二回戦)観戦。ドイツ語と法学をすっぽかした。西京極の内野席は両大学の学生で超満員だった。夏さながらの暑さのなか、校歌、グレーター立命を何度も何度も歌った。ピンチでも歌い、チャンスでも歌い。喉が枯れた。

 試合は2対5で負け。これで連敗。関西六大学。立命は4位。同志社は3位。

 

 

6月1日(金)

 今日、二十歳の誕生日。二十歳になった記念に「二十歳の原点」を読み返した。立命館の学生になって読み返せば、また全然読後感が違ってくるんだろうなって思ってたけど、そうでもなかった。そもそも場所が違ってる。高野さんが通ってたのは広小路学舎。今俺が通ってるのは衣笠。同じ立命館でも全然舞台が違う。広小路には行った事がないから追体験できないのは浪人時代と変わらない。

 学園紛争や全共闘に革命と、仰々しい言葉に目を奪われがちだけど、日記に書かれた高野さんの気持ちの揺れはごく自然なものだと思う。以前、日本史クラスの話し合いが面倒臭いから、抜けて飯食いに行こうぜって暴走族志村を誘った時、俺は行かんぜ、だって仲間じゃん、ってあいつは言った。その感じと同じなんだと思う。高野さんも「だって仲間じゃん」って思ったんだと思う。どうしたら良いのかわからないけど、自分の大学が大騒動になれば無関心じゃいられない。ましてや、自分が2年間ともに過ごしてきたクラスが真っ二つに分れて罵り合ったり、殴り合ったりし始めたら、とてもじゃないが冷静じゃいられない。

 

 おまえはどっちなんだ?

 

 高野さんは問い詰められて悩むけど、「どっちでもない」が本音だと思う。対立や論争はわかるけど、とにかく自分の学校やクラスがぐちゃぐちゃになるのだけは止めて。それゆえの「どっちでもない」だ。

 

 入学以後、民青のシンパ的な立場で過ごしてきた高野さんが、結局は全共闘側に行っちゃった理由。今、なんとなくわかる気がする。

 今の俺は日本史のクラスの中では完全に傍流。自治会役員になった奴らとはほぼ付き合いがない。一緒に酒飲んだ事もないし、つるんで遊びに行った事もない。同じクラスだけど俺は教室の隅で奴らを見てる。その距離感(疎外感?)は全共闘に集った彼らにもあったんじゃないのか?。大学当局の顔色見ながらのくせに、やれ学生の自治が、とか学内民主主義が、とか物知り顔に正論をぶつ民青(自治会役員)に辟易してたんじゃないのか?。反権力と言いつつ、「権力」を笠に着て、「暴力集団」を追い出すために暴力を振るうのは最高に「カッチョワルイ」

 

 それにしても高野さんは詩人だなあ。「旅にでよう」で始まる詩が印象的だ。

 

 旅に出よう

 テントとシェラフの入ったザックをしょい

 ポケットには一箱の煙草と笛をもち

 旅に出よう

 

 出発の日は雨がよい

 きりのようにやわらかい春の雨の日がよい

 萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

 

 そして富士の山にあるという

 原始林の中にゆこう

 ゆっくりとあせることなく

 

 大きな杉の古木にきたら

 一層暗いその根元に腰を下ろして休もう

 そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して

 暗い古樹の下で一本の煙草を吸おう

 

 近代社会の臭いのするその煙草を

 古木よ おまえは何と感じるか

 

 原始林の中にあるという湖をさがそう

 そして岸辺にたたずんで

 一本の煙草を吸おう

 煙をすべて吐き出して

 ザックのかたわらで静かに休もう

 

 原始林の暗闇が包み込む頃になったら

 湖に小舟をうかべよう

 衣服を脱ぎ捨て

 すべらかな肌をやみにつつみ

 左手に笛をもって

 湖の水面を暗闇の中に漂いながら

 笛をふこう

 

 小舟の幽かなうつろいのさざめきの中

 中天より涼風を肌に流させながら

 静かに眠ろう

 

 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

 

 

6月2日(土)

 島津さんと話した。偶然だ。人生思わぬ偶然が起こるもんだ。

 今日は珍しくみんな用事があったり、だるいとかで帰っちゃって、仕方なく一人で学校を出た。いつものように妙心寺の石畳を下っていたら、誰もいない境内に女の人が一人で立ってるのが見えたんだ。遠くから見て、なんだか見覚えあるなあって思ったんだけど、近づいたら島津さんだった。あれ?こんなとこで何やってんすか?って自転車を止めたら、あ?たしか、えっと山下くん?って。ちゃんと名前覚えてくれてた。

 退蔵院の瓢鮎図とか、法堂の雲龍図とか見にきたんだけど、時間が遅くて見れなかった、って笑ってみせた。一人であちこちの寺社を見て回ってるとも言うので、美術に興味があんの?って聞いたら、あたし、そのために立命館に来たんだよって頷いた。本当は絵を描きたかったんだけど、絵が下手だから美術史を勉強しようって、それなら京都が良いんじゃないか?って担任の先生に言われたんだ。

 島津さんはよく喋った。夕方の境内が静かだったからかもしれない。お坊さんもいなくて、俺と島津さんだけだった。

 それにしても美術史とは意外だった。俺は、歴史っていえば政治史だと勝手に思い込んでた。美術系サークルに入ったけど、日本画やりたい人があまりいなくて、って苦笑いしていた。島津さんは日本画とか水墨画に興味があるのだそうだ。消せない絵だからだそうだ。墨や岩絵具はしくじったら、また最初からやり直し。だから息が抜けない。集中して一気に描き上げた描き手のエネルギーを感じる。ずっと油絵を描いてたけど、油絵は真逆だ。気に入らなければ消せる。絵の具を削ったり、上から塗り直したり。消せない絵があるって知ってビックリした。

 島津さんは良く喋った。久しぶりに喋っちゃった、って自分でも言ってた。

 「二十歳の原点」読んだことある?って聞いてみた。他の人にも聞かれたって島津さんは言った。日本史に来た人で読んでない人、いないんじゃないかなってくらいみんな読んでるよねって。島津さんはこっちに来てから初めて読んだらしい。どうだった?って聞いてみたら意外な答えが返ってきた。

 

 私、高野悦子って人が、なんか、こわい。

 

 え?怖い?どこが?カッコ良くない?ウェイトレスのバイトでお客さんに笑顔振りまいてたかと思ったら、Gパンヤッケ姿にヘルメットかぶって機動隊に突撃していくんだよ、なんかアメリカのスーパーマンみたいじゃない?って言ったら、

 

 いやあ、詩がね、その、ちょっとねえ、怖かった

 

 って言いにくそうにつぶやいた。もしかして「旅にでよう」って書き出しの、あの詩が怖いって?って聞いたら、うんって頷いた。あの詩良いよなあって、わざわざ日記に書き写した矢先だったからびっくりした。

 笛がねえ、って島津さんは言う。笛を吹き終わったら、深い湖の底に沈めちゃうって、見た目綺麗なお嬢さんだけど、高野さんってすごく傲慢な人なのかも、って言ったきり、それ以上は何も言わなかった。

 

 

6月4日(月)

 今日の5限目に「二十歳の原点」について岩井教授が話をするらしいぜ、って暴走族志村が言った。日本史二回生クラスが主催らしい。タイトルは「二十歳の原点と今」こんな偶然ってあるかよ?って思った。俺の誕生日に読み直して、一昨日、島津さんと喋ったばかり。俺の為にわざわざ開いてくれたんだなって思った。志村と豊島を誘って大喜びで参加してみた。

 岩井教授は10年前の学園紛争の時、すでに日本史の教授だった。たしか日記の中にも名前が出てきたはずだ。だから、どんな話になるのか興味津々だったが、ガッカリした。噂に聞けば、かつては陸軍少尉かなんかだったのに、戦後転向して共産党に入党。行動する歴史学者を標榜したとかしないとか。共産党系教授が多数を占める大学当局側だった訳だから、当然といえば当然で全共闘への共感はゼロ。「暴力で世の中を変えようなんて思うところがすでに傲慢なのだ」とか、「都合の良い事だけ聞いて、そうでない事から逃げていては学問にすらならない」とか、そんな話ばかり。文学作品としての「二十歳の原点」や、日記を綴った高野さんへの言及はなく、立命学園紛争における全共闘批判、その後の学園民主化政策の正当化に終始してほんとガッカリだった。

 あれなら「立命学園紛争と今」ってタイトルにすれば良いのに。わざわざ「二十歳の原点」を持ち出す必要はない。なんだか「二十歳の原点」を冒涜されたような嫌な気分だった。

 

 

6月6日(水)

 昨日世田谷小谷がうちに泊まった。結局、今朝の六時頃まで喋っていて今日は学校へ行ってない。

 「学部自治について話したい」と言われて暴走族志村と世田谷小谷、それと岸和田東田が太田さんの下宿に行くと寺島とか梶原、合計六人の民青が手ぐすね引いて待ってた。一人に対して二人がかりでオルグされた。そんな話を聞かされた。

 

 歴史学は生きる為の学問だ

 象牙の塔じゃだめなんだ、学ぶということは行動する事なんだよ

 社会正義が通らない世の中で良いのか?

 口だけで何もしないということはそれを黙認することになるんだぞ

 わからなくても良い、とにかく行動するしかないんだよ

   

 結局、「民青が何かを知るため」暴走族志村が入る事にしたらしい。

小谷と東田は保留したらしい。

 個人の自由だから、民青だろうが応援団だろうが入れば良い。暴走族が民青に入った事をとやかく言うつもりはないが、ただ、民青(自治会役員)の奴らは好きになれない。奴らはすごく親切だった。入学して不安だらけの俺たちに親身になってくれた。新歓行事も盛大だったし、その労力を考えれば感謝しかないが、それもこれも全部、民青への勧誘のためだったのかと思うと残念としか言いようがない。こいつはいける、こいつは駄目だという判断を何気ない会話の裏でしていたと思うと反吐が出る。

 そんな話を朝までしていた。あんなオルグは無いぜ、って世田谷は文句言ってたが、話を聞けば親が共産党らしい。いつだったか、俺が共産主義革命って、国が貧しいから起こるんだろ?って言ったら、それは違うよ、共産主義ってのは完成された社会体制で、高度に発達した資本主義国でしか起こらないんだよって歴研の佐治さんみたいな事言ってた。いつかは世田谷も入るんだろうなって、なんとなく思った。

 

 

 

6月10日(日)

 7日の木曜日

 暴走族志村んちで飲んだ。世田谷は、オルグの話はナシやで、って言ってたけど、酔えば黙ってる訳にはいかない。暴走族志村んとこは共産党と聞くと顔をしかめるような家。俺が民青なんか入ったら、グズグズ言うに決まってるからなあ、って以前から奴は言ってた。だから良く親を切れたなあって思う。社会正義の為に葛藤を乗り越えた、その事には感心する。リーゼントのくせに純粋で真面目。そんな男だから余計に気になる。

 おまえ大丈夫なんか?って聞いたら、小谷、おまえ喋ったな、って世田谷をにらみながら志村は言った。

 

 俺も元号法制化には大反対だったんだ、元号法制化して、なし崩しに

 天皇制復活させようって魂胆だろが、そうはいくか。そもそも二十一

 世紀も近いっていうのに元号とかおかしいじゃん。だからそれで共闘

 してもいいって思ったでね

 

 歴史学ってのはセクトに属して、思想的な立場をはっきりさせなきゃ身につかないもんなんだろうか。俺にはよくわからん。

 ただ、あの純粋な志村が、来年は親切ごかしに新入生に近寄って、無垢な信頼感を利用してオルグするのかと思うとあーあって気分になる。

 

 

 9日土曜日。

 朝2講目の生物に出ようと10時くらいに目覚ましをかけておいたのに、山下はん、電話でっせ、と呼ばれて気がついたら夕方6時だった。

 

 おまえコンパ来えへんのか?

 

 そういえば今日はクラスコンパの予定だった。慌てて衣笠まで自転車で行き、そこからバスで四条河原町まで。会場の虎連坊についたらちょうど一次会がはけた時だった。ほとんどの奴らが二次会に移動。よしちょっと出遅れたが、俺の夜はこれからだぜ。そう気合いを入れたら尾崎の声が聞こえた。

 

 たしか、このさきだったんだよなあ。シアンクレール。

 

 なに?シアンクレールだって?それってあの?二十歳の原点のシアンクレールか?って聞いたら、そだよって言うので、もう二次会なんかどうでもよくなった。

 憧れのシアンクレール。高野悦子のシアンクレール。ずっと夢見てたシアンクレール。窓際の席に座ってリクエストしたスティーブマーカスがかかるのを待ってる俺。見上げる窓の外は快晴、青空。予備校時代、俺の心の支えだったシアンクレール。そのシアンクレールだ。

 ※詳細は拙著「青空 快晴 ひとりきり」を参照

 憧れのシアンクレールは思ったよりずっと狭かった。10年前は1階がクラッシック、2階がジャズの音楽喫茶だったらしいが、今は1階だけのジャズ喫茶。オールドの水割り450円。コーヒー250円。せっかくだから水割りを注文した。客は俺たち2人だけ。尾崎がソニーロリンズの「イージーリビング」を、俺はスティーブマーカスの「トゥモロウ ネバー ノウズ」をリクエストした。

 感激して涙がでるだろうなって思ったけど、いつものスティーブマーカスだった。ただどでかいJBLのスピーカーの音が胸に浸みた。

 

 

6月11日(月)

 岩井先生が課題図書に挙げていた「歴史とは何か」を読んでいる。気になったところをメモに取りながら読んでみたが、全然わからない。

 

 すべての歴史は現代史である

 歴史上の事実は歴史家が創造するまでは歴史ではない

 歴史の書物を読むときは歴史家の頭の中のざわめきに耳を傾けた方がいい

 歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去

 との間につきることを知らぬ対話なのだ

 歴史を研究する前に歴史家を研究するべき。そして歴史家の歴史的および

 社会的環境をも研究するべし。

 偉人伝で歴史は描けない

 歴史とは過去の諸事件と次第に現れてくる未来の諸目的との間の対話と呼

 ぶべきかも

 歴史とはその本質において変化であり、運動であり、進歩である

 マルクスによると、歴史というものは3つのものを意味している。一つは

 客観的な主として経済的な法則に合致した事件の動き、第2は弁証法的過

 程を通して行われる思惟のこれにたいする発展、第3はコレに対する階級

 闘争という形態での行動で、これが革命理論と実践とを調和し統一する。 

 

 歴史とは現在と過去との対話か。だから、すべての歴史は現代史だ、なんて言うのだろう。なんだかわかったような気もするが、じゃあ説明してみろって言われても説明はできない。

 ここでの「わかる」はこれまで経験したことがない「わかる」だ。予備校の模擬試験でぜんぶの問題が「わかって」も、その「わかる」じゃないのだ。小説読んで、主人公の気持ちに共感して涙する。あんたの気持ちよう「わかる」っちゃ、の「わかる」とも違う。

 クラスのみんなは解るんだろうな。いつも小難しい事ばっか言ってる高山とかなら余裕で頷いたりするんだろうなあ。やっぱ、俺は来るところを間違えたかもしれない。

 

 夕方、下宿に帰って来てから近くのスーパーに買い物に行った。安売りだなんて張り紙がしてあったので、あれこれ買い込んでしまって、気がついたら3500円も使っていた。あと10日を12000円で過ごさなくちゃならない。バイト代と入学祝いの残りは4万円。眼鏡のレンズも換えたいし、扇風機も買いたい。

 

 テレビは俺を不安にさせる。

 ラジオは俺を不愉快に。

 俺のよりどころは音楽。それしかない。

 

 レコードプレーヤーが欲しいなあ。カセットは便利でいいけど、レコードジャケットを横目で見ながら、レコードに針を下ろす時の緊張感はカセットの簡易さにはない。

 

 今日、杉原が「島津さんって面白い子だね」って言ってた。何が面白いって発想が独特だよ、と。「わかる」やつには「わかる」んだよな。

 

 

6月12日(火)

 そろそろ梅雨なのかもしれない。ここんとこ雨ばっかりだ。

 雨のせいじゃないけど、今日は地学をさぼってしまって、昼前に学校に行った。学食で志村や豊島に会った。おまえ良い奴だから今日はおごってやるわ、って志村が言った。この前、世田谷と3人で飲んだ時の事を言ってるんだと思った。おいおい、おごってもらおうと思ってお前を気遣ってるんじゃねえぞって言おうと思ったけど、ついふらふらと奢ってもらった。情けねえ。

 

 豊島は、返せ北方領土のなんとかって言う集会に行ったらしい。随分衝撃的だったようで、俺は馬鹿だとぼやいてた。何も知らねえくせに、爺さんから聞いた事を鵜呑みにして威張ってた、共産党も汚えが、自民党も汚えんだ、と。豊島はゴリゴリの保守主義だと思ってたけど、全然頑なじゃない。感受性が豊かで思考は柔軟。やわらかい。

 志村にしても豊島にしても純粋で素直だ。ああいう人間に出会えて良かったって思う。それにしても自分は駄目だ。これだっていう哲学がない。あるのは虚無感と性欲と偽善だけだ。

 

 ラジカセにプレーヤーつないだらレコード聞けるだら、って志村に聞いた。俺が買ったラジカセならパワーもあるし、十分だろって。

 

 

6月13日(水)

 今日の事だ。久保が授業に来てなかった。そう言われてみれば昨日も来てなかった。先週だって、誘っても断られたし、あいつ体調でも悪いんじゃねえのかって話になって、俺、豊島、尾崎の3人で下宿に行ってみた。そしたら、カーテン締め切った暗い部屋の中で、ベットにもぐり込んでた。

 自律神経失調症だって。なんでも月曜日に学内の医局に行ってみたら、そう言われたって。朝、起きれないし、食欲もない。しょっちゅう微熱があって、何もやる気がしない。今日も朝起きれなかったんだ、とぼやいていた。そりゃ困ったなあ、とか言いながら、3人とも床に寝っ転がって、煙草スパスパやりながら、テレビの(最近買ったらしい)ワイドショーなんかを見てたんだ、そしたらいきなりだ。いきなりガバってドアが空いて、小柄なおばさんが入ってきた。

 

 何をしよるんねアンタら、こねえな空気のわりい、ほれカーテン開けて

 

 殴りつけるようにカーテンを開けると、掃き出し窓を開けて、両手で煙草の煙を掻き出すような仕草をする。なんだか怒ってるみたいだった。ビックリして固まっていると、久保がぽつんと言った。

 

 かあちゃん

 

 あ、こりゃども、いつもお世話になってます、とかなんとか言いながら俺ら3人はあわてて部屋を逃げ出した。昨日実家に電話したって言ってたから、どうやら心配の余り、居ても立っても居られなくなって萩から出てきたんだなって3人で話した。あいつ、サッカーやるっちゃって、ものすごく張り切ってたから、サッカー部、挫折して目標失っちゃったのかも。

 みんないろいろあるよねって思った。

 

 

6月14日(木)

 入学の時にもらった文学部版「学修要項」ってのをパラパラ読み返していたら良いこと書いてあった。

 

 日本史学を学ぶのは

 「日本史学に取り組む主体としての自己を確立する」こと。

 そのためには

 「日本史学が存在する理由を発見し」

 「日本史学研究の方法を身につけ」

 「日本歴史の構造や発展の特質を科学的に明らかにすることの現代的

  な意義を把握」

 することが必要らしい。

 

 さらに、今持ってる興味関心を日本史学の学問的課題とするためには、専攻の諸研究文献を内容的に正確に把握し、それらの研究が提起された時代の社会的背景にまで立ち入って批判的に整理することが必要。

 そのために研究入門(プロゼミ)史学概論、史学史、社会経済史は早い内に履修するべき。さらに個別の研究が大きな歴史の流れの中に位置づけられるべきという観点から日本史概説も大切。

 

 つまりは、日本史を学ぶイコール研究方法のマスター、じゃないって事らしい。なぜ歴史学があるのか、歴史学の現代的な意義は何か、をハッキリ自覚してないとおかしな研究になるぞって事みたいだ。たしかに戦前の皇国史観だって歴史学と言えば歴史学だが、まるっきり天皇制のための学問になっている。しかも戦争遂行の論理的根拠にもなってたわけだ。そう考えれば怖い話だ。一生懸命やれば良いって訳でもない。真面目にやればやるほど害悪をまき散らすって事だってある。

 そこを意識して「歴史学に取り組む主体としての自己」を確立させろって話。おまえは何にために歴史を研究してんだ?って事だろうな。

 「歴史とは何か」にあった「現代と過去との対話」「すべて歴史は現代史だ」って言葉は、「日本史研究の現代的意義」あたりと関係ありそうにも思う。

 

 俺は何のために日本史を研究するんだろ?何のために?誰のために?。

 

 

6月17日(日)

 金曜日、クラス合宿(琵琶湖西岸、蓬莱セミナーハウス)最悪のイベントだったわ。行かなきゃ良かった。

 

 湖西線乗るなら国鉄が便利だろってことで、山陰線花園駅から京都駅に向かったんだ。だから行きは俺一人。もうみんな来てるのかな?って、いざ着いてみたら誰もいない。大広間にポツンと一人きり。何もすることがなく、ただみんなを待つこと1時間。残りの奴らは集団で、楽しそうに、わいわい言いながら遅れて来やがって、そこでかなりもういじけてたよね(俺らの方言では「はぶてる」っていうやつ)で宴会が始まっても気分は乗らず、東田が「ラブユー東京」を歌って喝采を浴びても、舌打ちとかしてたんだ。そのうち眠くなった俺は、馬鹿騒ぎする主流派の奴らが屋上に繰り出し、女子連中もどこかに消えちゃったのを良いことにタオルケットを腹に巻いてごろ寝を決め込んだのさ。一眠りして目が覚めたら、残った連中が男だけでトランプやってる。目を覚ました俺に気づいた志村が、おいおめえも七並べやるだら?かなんか言ってきたが、男だけで七並べするために琵琶湖まで来たってか?って気分で、おりゃ女とトランプが大嫌いなんだよバーロー、とか悪態ついてまたふて寝したわけ。だけど、しばらくして女の子の声で目が覚めたじゃないの。どこかに姿を消していた女子連中がトランプに合流してる。島津さんの声もする。

 

 え?トランプ?楽しそうじゃん、俺もまぜてよ

 

 そんなふうに快活に言えば良いものを、いじけていた気分はまだ残っており、しかも大嫌いだなんて言っちゃった手前、素直に言い出せない。そのうち、屋上組まで戻ってきて、おい、多過ぎだから二部リーグ制にしようぜとか言って、ますます盛り上がる様子。そしたら流石は島津さん、山下くん、起きたら?せっかく来たんだから、寝てないで一緒にやろうよ、なんて誘ってくれる。地獄に仏とはこのことか?って感激してたら、あ、ダメダメ、そいつ今機嫌が悪いんだから、女とトランプが大嫌いなんだってよ、なんて志村が余計な事言う。へえ、そうなんだ、なんて島津さんも納得するから、起きたくても起きていけなくなっちまった。

 苦痛の深夜、大トランプ大会は夜が明けるまで続いた。

 俺は高校の時、古典で習った「宇治拾遺物語」の「稚児のうたた寝」って話を思い出してたよ。

 

 

6月19日(火)

 朝、等持院のところで秋山さんに会った。この前、清水寺に行ってからも、しょっちゅう清心館で出会ってたし、会えば、おお、おはよ、とか、元気?とか言葉は交わしていた。ただ、秋山さんも西洋史専攻で友達ができたみたいで、いつも何人かの友達と一緒だったし、俺も大概は誰かと一緒だったから、じっくり話したのは久しぶりだった。

 テニスコート脇を通って大学に着くまで自転車を押しながら一緒に歩いた。バスケ部に入ったって言うのですげえなって思った。俺がサッカー部練習に行って挫折した話をしたら、ああ、体育会系じゃなくって文学部のサークルだから、遊びみたいなもんですよって笑ってた。

 今週末、奈良どうですか?って言われたので、良いねえって速攻でオッケーしておいた。この前、清水寺に行った時、来週にでもどうですか?って勢いだったからそのつもりで待っていたのだ。週末が楽しみだ。

 

 大学生協購買部でレコードプレーヤーを買った。パイオニア製。定価36000円がなんと19000円。ダイレクトドライブじゃなくってベルトだけど、ラジカセにつなぐならあれで十分。早く届くと良いな。

 帰り道、花園駅前のレコード店で一枚LPを買った。プレーヤーが届いてもLPが1枚も無いんじゃ洒落にならねえ。キングクリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」すげえエゲツイ顔のアップが描いてあるジャケットが気に入った。

 

 

6月20日(水)

 文学部学生大会。以学館1号。1時から。

 学生大会とは要するに文学部学生自治会総会の事。高校で言えば、生徒総会みたいなやつ。大教室に数百人もの学生がすし詰め。トロが来る、トロが来るって志村は呪文のように言ってた。トロ(反代々木の新左翼系セクト)の奴らがあの手この手で学生大会をぶっこわそうと企んでるって言うのだ。火炎瓶を投げ込んだり、ゲバ棒で殴りかかったりすんのか?って聞いたら、それもあるかもよ、なんて言うので青ざめたが、小競り合い程度ですんだ。

 彼らは彼らなりに張り切ってた。自治会が出した総括、活動方針に逐一イチャモンをつけた。大声でヤジを飛ばすかと思えば、緊急動議を連発する。壇上に駆け上がって議長を取り囲み説明を阻止。マイクを奪って自分たちの主張を叫ぶ。そのたびに壇上で自治会役員と取っ組み合い。参加者から囂々の非難。議場は騒然となるが、やっとこさ採決になったら、こんなの猿芝居だ、みんな議場を出よう、以学館前広場で民主的な学生大会を開こうじゃないか、と大声で呼びかける。でも、そうだ、議場を出よう、と呼応するのは仲間内の数十人しかいない。

 俺はこの前のクラス合宿を思い出してた。トロツキスト君達がクラスでひとりぼっちにされ、いじけてる俺に見えて仕方なかった。こいつらどうしようもねえだら、民主主義を語る資格はねえだら、って志村は言ってたけど、やつらが暴れたくなる気分がなんとなくわかった。

 終わったのは夜の7時。疲れた。

 

 

6月21日(木)

 プレーヤーが届かない。箱がでかすぎて自転車では持って帰れそうになかったので配達してもらうように頼んでおいたのだが。2、3日中にはって言ったくせに。イライラする。

 

 イライラすると言えば、今日の東寺行きは中止になった。サブゼミのグループ(島津さんもいる)で発表が終わったら打ち上げに東寺にでも行かないかって話になってたのだ。その発表が今日で、無事終わったのだが、言い出しっぺの平田が用事ができたとかで、それじゃまたの機会にって感じでお流れになった。

 それだけじゃない。学而館の史学概論のあと、俺が教室を出たら、俺の前をミニのジーンズスカート姿の島津さんが急ぎ足で階段を降りていった。一緒に東寺に行きたかったなあって思って見てたら、サーファー柴田がさらに急いだ感じで階段を降りていく。あれ?っと思ってピロティーまで行ったら、柴田の野郎、島津さんを捕まえてなにやら話し込んでる。柴田はサブゼミの時も、なんだかんだと島津さんに話しかけ、島津さんも嫌がる様子もなく笑顔で応じ、なんとなく気になっていた。

 ほんとイライラする日だった。

 

 

6月23日(土)

 やっとプレーヤーが届いた。夕方、大汗かいて組み立てた。途中、ドライバーを買いに走ったりと大事だったが、小一時間で完成。ラジカセにつないでレコードに針を落とした。が、ブーって雑音がするだけ。焦ったが、ケーブル接続が間違ってた。

 今、「クリムゾン・キングの宮殿」を聞いている。これ、傑作じゃねえか?って思う。ジャケット以上にすげえわ。

 

 

6月24日(日)

 奈良。秋山さんとデート?。

 10時に京都駅で待ち合わせ。秋山さんはピンクのポロシャツにホワイトジーンズという出で立ち。オシャレやなあって思った。

 国鉄奈良線で小1時間。車中、現役時代の受験の話をする。龍谷大学受験の時、伏見稲荷駅で降りて下見に行ったけど、怖くて食堂に入れなかった事とか、泊まった宿で同部屋になった人と一言も話さずに一晩過ごした事とか。先輩って見かけによらず繊細なんですねえ、なんて含み笑いするから、それを言うならビビリと言ってくれよって言っておいた。

 今日の目当ては東大寺。どこ行く?って聞いたら、やっぱ大仏でしょって秋山さんが言い、鹿もいるからねって事で意見が一致。奈良駅からバスに乗らずブラブラ歩く。秋山さんは自分からあれこれ喋ってくれるので楽だ。話題が無くなって気まずい思いをする事がない。

 先輩、うちらの岩国高校って異常なんですね、なんて言い出すのでビックリした。クラス合宿に行った時に出身校の話題になった。東京の公立高校出身の子が、自分とこは、制服はない、頭髪も自由、腰まで伸ばした長髪の男子だって教師は全く注意しない。さすがに喫煙が見つかれば注意はされるが、それも「吸い過ぎに注意」のレベル。校則なんかあってないようなものだ、って言うから、それ異常じゃないの?って笑ったら、他の子達が、え?普通じゃない?って言うので、あれ?って思った。じゃ、あんたのとこは違うの?って聞かれたから詳しく話してあげた。

 

 まず男女共学と言いながら校舎が別でしょ。2年まではクラスも男女

 別。男子は1年までは坊主で、2年から長髪許可になるけど「目にか

 からない、耳にかからない、もみあげを伸ばさない」という岩校3原

 則ってのがある。それに違反したら速攻で坊主。休日でも外出時は制

 服制帽着用。

 

 そう言ったら大騒ぎになった。そんな学校あるわけないって。戦時中じゃあるまいし。嘘言わないでよって。そういう事らしいですよ。岩国高校って戦時中だって。やっぱ米軍基地があるからですかね?なんて笑うので、じゃ今度俺も日本史のクラスで聞いてみるわ、って言っておいた。

 

 大仏はでかかった。まあ、でかいから大仏なんだが、やはりでかい。大きいことは良いことだってCMがあったけど、鎮護国家思想を体現する大仏としては、でかさは命だったんだろうなって思った。あれだけでかけりゃ御利益ありそうだ。万能感炸裂といった感じか。

 大仏殿を見た後、奈良公園を歩き回って鹿に餌をやった。

 

 昼飯何にする?って聞いたら、奈良は三輪素麺とか有名ですよねって言う。秋山さんは何でもよく知ってる。すごいなって思う。朝から蒸し暑い日で、こんな日に冷たい素麺とか最高じゃんって思ったので、空いている店を探して二人で食べた。歩き回って疲れてた身体が素麺の冷たさで生き返った。秋には正倉院展ってのがあって、正倉院の御物が一般公開されるから、そのときまた来ましょう、って秋山さんも美味しそうに素麺をすすった。

 夕方、京都駅で別れる時、秋山さんが言った。

 

 そういえば西洋史専攻の二回生チューターで岩国出身の人が居ました

 よ。男の人です。

 

 最初の自己紹介で岩国高校出身って言ったら、それを覚えてたらしくて、新歓行事の時に話しかけられた。自分も岩国に住んでた事あるんだって言うから、え?岩国高校なんですか?って聞いたら、そうじゃないけど、岩国東小学校だったって。先輩も東小ですよね?。

 え?っと思った。浪人してるのなら上級生ってことになるが、もし現役入学の二回生って事になると俺と同学年だ。東小学校で俺と同学年。でも岩国高校じゃないって事は、小学校から私立の中学に行ったか、よそに引っ越したのかって事になるが、いったい誰なんだろう。

 どんな人?って聞いたら、黒縁の眼鏡をかけてて、肩までの長髪。すらりと背の高い、静かな物言いの、すごく知的な感じの人ですよ、って秋山さんは言った。名前、聞いたの?って聞いたら、そんなの恥ずかしくて聞けませんよって顔を赤らめた。

 

 

6月25日(月)

 早速だが、おまえらの学校ってどうだった?って聞いてみた。

 豊島

 制服制帽はあるにはあったが、校則云々は緩いぜ。1年の時には学校から前橋駅まで行進していって、一斉に駅前の噴水に飛び込むのがならわしさ。そこで校歌を歌うんだ。市民もそれをわかってて、拍手で歓迎してくれるんさ。旧制中学のバンカラが残ってる感じだな。煙草だって吸う奴多かったけど何にも言わねな。先生がバケツもって吸い殻拾って歩いてたよ。だけど、他のところで妙に厳しかったなあ。たとえば、予備校の講師が講演に来た事があんだよ。でも話がつまんねえから大騒ぎしてたら怒って帰っちゃった。でさ、ステージに教師が出てくるから説教すんのかと思ったら、それでいいって褒めるんだ。あんなくだらねえ話聞く必要ねえ。もっとでかい事に情熱向けろって。

 

 尾崎

 制服はあったけどたしかに校則は緩い。札幌は寒いからみんなコートに凝ってたな。だいたい3着は持ってて、気分で着替えてたなあ。で、文化祭の時はみんな泊まり込みで準備してた。でも夜は寒いべ、みんな酒持参で、チビチビ飲んで身体を温めながらだ。そしたら3年の時だったか、酔っ払った奴がさあ、うぉーってわめきながら雪が積もってるグランドに突進して行ってさ、それっきり戻ってこなくなって。まずい凍死するべって事でみんなで探しにいった事がある。あんときは焦ったなあ。

 

 大阪・富田林、田ノ上

 せやなあ、俺らんとこは腹巻きやな。男はみな腹巻きしてんねん。で、流行りがあってなあ、俺らんときはラメ入った派手なんが流行ってたかな。休憩時間に見せびらかしたりしとったわ。

 

 大阪・岸和田、東田

 俺らだんじりがあるからなあ。もうだんじりの時は学校休みやねん。そらみんなあれに命かけてるもん。勉強どころの話やないわな。

 

 山口・久保

 まあ、校則とかは岩国ほどじゃないけど似たようなもんっちゃ。ただ、萩高は補習科があるっちゃ。田舎じゃけえ予備校がない。予備校行こうと思や下関とか北九州とか行かにゃいけん。金がないとこはそういう訳にも行かんっちゅうことで、高校卒業したのにもう1年萩高に通うのっちゃ。敷地の隅に別の建物があって、そこにね。俺も通うた口じゃが、惨めなもんっちゃねえ。下級生は哀れんで見てくるし、ほんま最悪っちゃね。

 

 秋山さんの言うとおりだった。他の地域が現代だとすれば確実に岩国高校は戦時中だ。都会では、制服があって校則が厳しいのは私立なんだそうだ。公立高校は基本自由。私服も多い。田舎とは逆だ。

 ただ、話を聞いてて驚いたのは、みんな「生で外人みたことない」って話。週末に駅前の商店街とか行ったら基地のアメリカ人がたくさん来てる。黒人も白人も、みんな家族連れで買い物してる。基地のそばの中学なんかハーフの生徒も多い。見た目黒人の女だと思ったら「見ちょる、聞いちょる、何しちょる?」って方言丸出し。なんて話してやったら岩国って戦時中だけかと思ったら、植民地でもあるんやなって失礼な事言いやがった。

 黒人の手の甲は黒いけど、掌は真っ白やで、って話したら、嘘やって誰も信じようとしなかったから、「生で外人みたことない」ってのは本当なんだなって思った。

 なんでそんな事聞くんや?って言われたので、昨日、秋山さんと奈良に行って、っていきさつを話したら大騒動になった。

 

 おまえ、あの子とつきあってんのか?

 

 なんて言い出すのでビックリした。いやいや、そういうアレじゃねえよっ、同郷同窓のよしみってやつだって言うのに、怪しいとか、不自然だとか好きな事言ってた。

 秋山さんは良く喋り良く笑う。物知りだし、話も面白い。一緒に居て楽しい。リラックスしていられる。それになんたって元岩国高校バスケ部、津田加奈子の後輩だからなあ。秋山さんならつきあっても良いけど、向こうはそんな気ないだろうなって、ちょっとだけ思った。

 

 

6月30日(日)

 朝から洗濯。1月分貯めに貯めた洗濯物を全部洗濯機にぶち込んだ。もう着ていくものがないのだ。洗濯機が回ってる間に部屋の掃除。洗濯物を部屋の中に干した後は、歴研理論部会のレジュメを書く。

 午後は妙心寺まで行って木陰で高橋和巳を読んだ。本当は桂川に行きたかった。嵐山に下宿してた高野悦子さんが桂川近くの公園まで散歩した、なんてよく日記に書いてたから。窓の外はもう真夏で、陽光にキラキラ照らされる桂川の川面が脳裏に浮かんでたが、地図を開いてみると太秦から嵐山って、太秦から梅ヶ畑までと同じ距離。今からじゃ無理だわってことで妙心寺にしたのだ。

 もしかしたら島津さんが瓢鮎図でも見に来てるかも?なんて思ってて、人の気配がしたら慌てて立ち上がって見たりした。

 

 インスタントラーメンでラーメンライスを食べた後、ドイツ語の予習をした。辞書を引き引き2ページ訳したら3時間近くかかってた。

 

 

7月1日(月)

 今朝、清心館の一階で掲示板を見ていたら、センパイ、センパイって秋山さんが駆け寄ってきた。一緒にいた岡山大河原や豊島がニヤニヤして冷やかした。どうしたの?って聞いたら、ほらセンパイ、藤井さんですよ、って後にいた男子学生を紹介した。

 

 ほら、センパイと六年生の時、同じクラスだった。この前はなした、

 二回生のチューターの、藤井秀夫さんですよ。覚えてないんですか?

 

 え?って思った。藤井くん?たしかに6年生の時、藤井くんって子が居た。みんなが博士君って呼んでた秀才だ。たしかに黒縁の眼鏡は小学生の時のまんまだが、もっと小柄でちっちゃくて、髪だっておかっぱっていうか刈り上げだったぜ。ほんまに博士くん?って聞いたら

 

 ああ、その博士くんだよ、こんなとこで再会するとはなあ

 

 って笑った。

 

 岩国でも俺らの住んでた地区は海沿いの工業地帯。大きな化学繊維工場とパルプ工場の街。だから小学校も2つの会社の人と、その会社目当ての商店関係の人が3分の1づつを占めていた。

 パルプ工場にはたくさんの社宅があったが、平社員用の社宅が長屋だったのに対して、管理職用の社宅は芝生付きの一軒屋。そこには東京や大阪から転勤してきた「都会の人」がたくさん住んでいて、田舎の下町では異彩を放っていた。博士こと藤井くんはまさにそのパルプ工場の管理職住宅の住人だった。

 博士くんは6年生の後半からは私立中学受験専門の進学塾に通いだした。広島の私立中学を目指してるって言ってた。親がしがない国鉄職員で、進学塾はおろか、算盤だ習字だの塾でさえ通わせて貰えなかった俺からすれば、まさに上流階級。住む世界が違っていた。

 博士くんは見事合格して広島の名門私立中学に進んだ。小学校を卒業してから1度も会った事はない。俺が大学受験に失敗して予備校に通ってた頃、私立中学に行った藤井くんなんかは、きっと東大、京大か、六大学のどこかにストレートで合格してんだろうな、なんて思った事があった。その博士くんと同じ大学の同じ学部にいるなんて、なんて俺ってすごいんだろうって我なから誇らしい気分だった。

 

 昼飯を食いながら、いつものメンバーにそんな地元話をしたら、向こうは、あのボンクラと同じ大学になっちまったのかって落ち込んだんじゃねえか?なんて岡山は総社出身のカラス天狗大河原が笑いやがった。ふざけんなって最初は思ったけど、よく考えてみたらそうかもなって思った。それくらい俺と彼じゃ違ってた。雲泥の差ってくらい。

 

 で、夕方、帰ろうとしたらピロティーで2人が待ってた。いつもの連中と別れて大学そばの喫茶店ヨークに行った。

 なんだか不思議な感じだった。たしかに話せば藤井くんなのだ。記憶も一致してるし、ゆっくり思慮深く話す感じはあの頃のままなのだが、目の前の藤井くんは、すらりと背が伸びて別人みたいだった。肩まで伸ばした髪をかき上げながら煙草をくゆらせる。まさに大学生って感じ。

二回生って頭があるし、無意識に敬語で話してしまった。

 

 どこに下宿してるんですか?

 それが、あたしの下宿の近くなんですよ、京福沿線、ですよね?センパイ

 

 6年生の頃、よく彼の管理職住宅に遊びに行った。あの家には俺んちにはない文化の香りがあった。分厚い映画の冊子。「ベン・ハー」「ウェストサイドストーリー」「アラビアのロレンス」「戦場にかける橋」アメリカアカデミー賞受賞作品が映画音楽のレコード付きで紹介してあった。家具調ステレオの重低音でそのレコードを聞かせてもらった。

 アサヒカメラのバックナンバーも揃ってた。夜空の写真。動かない北極星と同心円状に数え切れない星達の軌跡。どうやって撮ったらこんなになる?て目を剥いてたら、それはカメラのバルブを解放にしたまま、何時間か固定してたら良いんだよって博士くんが教えてくれた。

 そんな思い出を喋ったら、すごいですねえ、小学生の頃から物知りだったんですね、だから博士くんって呼ばれてたんだ、って秋山さんが嬉しそうに彼の顔を覗きこんだ。

 そんな事あったかなあ、坊太郎がでかかったって事しか覚えてないんだよ、あの頃自分はちっちゃかったから、余計に印象が強くてねって彼は笑った。だから今朝、会った時も、え?坊太郎、こんなにちっちゃかったっけ?ってビックリしたんだよ、と。

 山下先輩、昔は大仏だったんですねって秋山さんが爆笑した。

 

 

 

7月3日(火)

 夏休みは7月10日から。あと1週間。なんてたって京都は暑すぎるし、とっとと帰省するぜって、みんな言ってる。俺はなんとなく7月20日からが夏休みって感じがしてならないから、それまではこっちに居ようかなって思ってる。中高時代の感覚が抜けない。

 そういえば、この前、荒井から電話があって、夏休みに日通で引っ越しのバイトするけど、もしその気なら一緒に頼んどこうか?って聞かれ、速攻で頼むわって答えておいた。何日からかはわかったら知らせるからって事だった。

 

 最近カラス天狗大河原とよく話すようになった。春頃は彼も主流派で、ほとんど口をきく機会もなかったのだが、歴研の理論部会がきっかけで仲良くなった。同じ中国地方の岡山県出身って親近感もあり、しかもやつの下宿は学校から徒歩3分。ちょっと寄っていくには最適な距離なのだ。やつは良いギターを持ってる。メーカーは聞いた事がないとこだけど、弦高が低いというのか、実に弾きやすい。音の響きもグッド。下宿に行くたびに弾いてばかりいる。

 

 ドストエフスキーの「貧しき人」を呼んだ。さみしい物語だ。ドストエフスキーを赤だと揶揄する人もいるが、全然そんなことはない。プロパガンダやイデオロギーとは別次元の普遍性があると思った。

 

 

7月6日(金)

 奨学金は駄目だった。入学後、日本育英会の奨学生に応募しておいたのだ。貧しい国鉄職員の息子だから、親の収入云々で失格になることはないと聞いたし、もらった金も教員になればチャラになるって事だったから。

 ああ、それなのに、それなのに。

 貧しき人に愛の手を。

 

 考えられるのは俺の高校時代の成績。平均が3・5以上が条件らしかったが、そんなのあるわけない。それでも捲土重来、ボンクラ学生が更生して大学に受かったんだから、そこを評価されて合格って事もあるかもって期待してたのだが。甘かった。

 

 

7月7日(土)

 豊島が下宿を変わるという。なんてたって梅ヶ畑は遠すぎる。しかもこれから冬場にかけて随分冷えるらしい。通学に便利で、小綺麗な下宿を探して、この休みに引っ越ししておこうって事らしい。それじゃってんで、2人で学生課に行ってみた。季節外れなのにたくさんの不動産情報があった。ファイルをペラペラめくりながら2人で値踏みした。京福沿線というファイルをめくって秋山さんの事を考えたり、円町周辺のファイルをめくって島津さんの事を考えたりした。

 

 清心館の談話室にいたら島津さんが入ってきたので、いつ帰省するの?って聞いたら10日だって言ってた。9月10日に上洛って言ってたから2ヶ月も会えないんだなって思った。久保は11日に、尾崎は10日に帰省するらしい。尾崎は鉄道ファンだから、北陸周り各駅停車で札幌まで帰るらしい。

 

 さっきまで暴走族志村と三回生の鈴木が俺の下宿に来てた。鈴木ってやつ、顔は知ってるけど話した事はない。無論、民青加入のオルグだ。嫌だっていうのに、話を聞いてくれるだけでいいからって暴走族がしつこいので渋々オッケーしたのだ。

 予想どおり、象牙の塔じゃだめだ、とか、わかるって事は行動するって事だ、とか、若者の情熱こそが世の中を変えていけるんだぜ、とか言ってた。

 それって民青と一緒でないと駄目なのか?って聞いたら黙ってた。いろんなやり方があっていいんじゃない?、今の民青はいわば学内の「体制」で、ある意味権力だ。闘争って基本『反権力』だろ?体制側にべったりくっついて闘争も糞もねえわなってせせら笑ってやったら、むっとして帰って行った。

 おまえさあ、相手三回生なんだからさ、もうちょっとさあ、言い過ぎなんだよ、ああいうことされると困るんだよなあって志村がぼやくから、闘争にセンパイもへったくれもねえだろって言ってやった。これに懲りてもうオルグになんか来んじゃねえぞって。

 

 

7月11日(水)

 今キングクリムゾンの「ムーンチャイルド」を聞いている。そういう気分。

 今日、昼間、談話室のソファに座ってたら梶井あさかが入ってきて、俺の前に座った。梶井あさかは暴走族志村と付き合ってる、らしい。煙草を吸おうとしたらライターが切れてた。

 

 おい梶井、ライター持ってねえか?

 持ってるわけないじゃん

 

 豊島は下宿決めたって言ってた。西大路を南に下った北野白梅町の嵐電の駅からちょっと西に入ったあたりらしい。ちょっと家賃は高かったけど、部屋に台所とトイレがついてて、共同だが風呂まである。おまけに新築っていうからもはや御殿。1回帰省して、親父と一緒に舞い戻ってきてトラック借りて引っ越しする積もり。親父も京都に行きたいって行ってたから喜ぶだろうって。

 

 今日、荒井から手紙が来てた。7月の20日からバイトに来いって連絡があった。よろしくねって。ってことは遅くとも19日には帰省しないとな。

 

 

7月16日(日)

 昨日は宵山。

 火がすっかり暮れた8時半。蒸し暑い中、豊島と一緒に祇園に繰り出す。四条河原町を東に進み八坂神社。浴衣姿の娘が目立つ。歩行者天国になった四条通はものすごい人出。キョロキョロ、可愛い娘を見ながら歩く。高島屋向かいの雑居ビルでジンギスカンとビール。さんざ喰いまくって店を出たのが11時半。丸太町まで出て、通りを西へ西へ千本あたりまで頑張ったが、そこでグロッキーになってタクシーでカラス天狗の下宿へ。天狗は寝ていたが、迷惑省みずたたき起こして騒ぐ。

 4時半ごろ、真夜中の妙心寺を豊島と2人で歩き俺の下宿まで。俺の部屋にたどり着くや倒れ込むようにして寝る。

 豊島は朝、1人で起きて帰って行った(みたいだった)けど、俺は昼過ぎまで寝ていた。

 世田谷小谷が来て起こされた。なんで昨日来てくんなかったの?なんて言う。おいおい、しつこいんだよって文句言ったら、頼むよ、お前しかいないんだよ、と泣きつかれる。やれやれだ。

 あんなに暴走族志村の民青加入をこき下ろしてたのに結局小谷も民青に入った。で、昨日、民青の話したいから談話室に来てくれって言われてたんだ。行けたら行くし、と答えたが、はなから行く気はなかった。

 俺は入る積もりないんだからいい加減諦めろよって言うのに、話だけでいいからってしつこいのだ。民青も部活とか応援団みたいに上級生に命令されてんのかなって思った。もしそうなら可愛そうかなって思って、しぶしぶつきあった。

 民青の奴ら、清心館の談話室にとぐろ巻いてんだろって身構えて行ったら、三回生の、見た事ないやせっぽちの男が一人で待ってた。なんで民青のやつって、言うことが同じなのかなって不思議に思う。なんか勧誘の手引きみたいなのがあるのかもしれない。

 歴史学を学ぶって事は世の中を変えるって事でもある、とか、行動する学問こそ本物だよ、とか、象牙の塔じゃ駄目なんだ、とか。

 本当に俺を誘いたい。本当に仲間に入れたい、一緒に闘いたいって思ってるんだったら、借り物の言葉じゃなくって、自分の言葉で言えよって思ったから、そう言ってやった。

 

 なんでそんなつまんねえ事しか言えねえんだよ?どいつもこいつもお

 んなじ事ばっか言いやがって。

 どうせ勧誘の手引きってのがあんだろ?見せてみろよ

 

 その人は困ったような顔をして黙ってた。

 

 夕方帰って寝てたら豊島が来た。祇園祭の山鉾引きのバイトしてきたんだって言ってた。顔が日焼けで真っ赤だった。関西テレビにインタビューされたから6時のニュースに出るぜって言うので、2人してテレビの前で待ってた。

 たしかに山鉾引いてる姿はバッチリ映ってて、おお、出てる出てるって大騒ぎしたけど、インタビューはカットされてた。

 2人で5把くらいの素麺をゆでて食った。うまかった。

 

 

7月18日(火)

 明日、帰省。今日は部屋の片付け。荷造り。

 蒸し暑い部屋で、ベットに扇風機を置き、ラジカセで高中正義を流しながら荷造り。服と辞書だけでアディダスの鞄は一杯になった。本は別にプーマの手提げ鞄に詰める。2つともずっしりと重い。2ヶ月の重み。

 

 以前、目標を立てた事を思い出した。

 ①身体を鍛えよう。筋トレをやって夏までに減量。七十キロが目標だ。

 ②夏までに短編小説を書こう。内容は何でもいい。とにかく人生初の

  作品を一本書き上げる。

 ③彼女を作ろう。異性の友人でもいい。とにかくそういう人が必要だ。

 

総括 

 ①は特に筋トレやった訳じゃないけど、なにせ食費が食費だから普通

  に過ごしてても体重は減る。春先、七十五キロだったのに、昨日、

  銭湯で計ったら七十キロ丁度だった。○

 ②はまるで駄目。ぜんぜん、手もつけてない×

 ③はどうだろ?秋山さんは彼女と言えるのか?島津さんは?②ほどじ

  ゃないけど、まだまだ達成はできてないよな。でも人生初の女の子

  とのデートできたから三角ってところかな△

 

 

 ※夏休みの日記は割愛 

 

 

 

9月10日(月)

 昨日の夕方上洛。久しぶりの下宿。ふるさとの人間が誰もいない京都。

久しぶりの1人。

 

 昼すぎに起きて、2時頃、下宿で荷物を片付けていたら、電話でっせーと呼び出された。久保からだ。みんな上洛してるから下宿に来いやって。誘われるまま、のこのこ久保の下宿まで。豊島、尾崎、そして久保、の四人で「久しぶり」。何もかも「久しぶり」

 豊島は盆すぎに父親と来て引っ越しをすませたって言ってた。今度、みんなで遊びに行く事になった。

 

 いよいよ明日から学校だ。17日からは語学の試験もある。

 

 

9月11日(月)

 朝、東の空から陽が昇るように

 東門からあの子はやってきた

 背に眩しい陽を浴びて

 風になびく長い髪、ワインカラーのスカート、純白のシャツ

 

 久しぶりに島津さんを見たよ。

 久しぶりやね、元気だった?って聞いたら、うん、まあって笑ってた。

 

 そういえば夏休みに暑中見舞いを出したら、島津さんから返事が来た。官製はがきに水彩で朝顔が描いてあった。サラサラっと描いた感じの朝顔。こりゃ上手いわって思った。そのこと言えば良かったと思った時は島津さんはどっかに消えてた。

 

 

9月17日(月)

 ドイツ語の試験。4日連続の語学中間試験の初日だ。

 ここんとこずっと根をつめて試験勉強してきた。ドイツ語の試験なんてこれまで受けた事ないし、一体どんな問題が出るんだろうと心配だったけど、案ずるより産むが易しで、どうって事ない試験だった。丁寧に勉強してれば満点取れるレベル。俺も丁寧にやったつもりだったが、細かいところを見逃してた。まあ80点ってところかな?

 

 そういえば、試験の後、秋山さんに声かけられた。秋山さんもドイツ語なのだ。秋山さんとは地元で1回会ったきりだ。その節はどうもって言ったら、せっかく来てもらったんだから座敷席で見てもらえば良かったのに、ってお母さんに叱られちゃいましたよ、なんて言ってた。錦帯橋の花火大会は、あそこの商店街が主催者で、秋山さんとこはその幹事の年だったから、河原に設えた座敷席はフリーパスだったのだそうだ。

 そういえば、休み中に津田センパイに会いましたか?なんて聞くのでドキッとした。いや、会ってないけどって言うと、あの後OB会に行ったら津田センパイが来てたんですけど、最初誰だかわかんなかったんですよ、と言ったきり笑いこける。何なに?どうしたって?って聞いてみると、別人かって思うくらい、顔なんてまん丸なんですから。大学に入ってから運動もしないし、ノーストレスで美味しいもの食べてばかりいたらこうなっちゃったって笑ってましたよって。

 たしかに小学生の頃はポチャッとしてた。バスケ始めて痩せたけど、もともと太るタイプだよなって思った。で、俺の事、津田に話したのか気になって仕方なかったけど、そのことは何にも言わない。

 ちょっとサテンにでも行こうか?って誘ってみた。津田に俺の事、話したのかどうか詳しく聞いてみたかった。それにいつもの連中が受講してる中国語の試験はこれからだから、俺だけ暇なのだ。ドイツ語は西洋史専攻が多いが、日本史の学生は大半が中国語選択なのだ。あ、いいですねって応じてくれると思ってたのに、ごめんなさい、ちょっと今日はって断られた。教室を出たら、待っていた?藤井と一緒にどこかに消えた。やけに仲がよさそうだった。

 

 

9月20日(木)

 今日、内藤先生の英語の試験。4科目の中間試験は全部終了。準備はしていたし、まずまずの出来。単位を落とす事はなさそうだ。

 夕方、島津さんちに電話してみた。試験が終わったらサテンにでも誘ってみようかなってずっと思っていたのだが、電話に出た知らない人は、帰省したみたいですよ、と素っ気なかった。

 9月10日に上洛して、20日に帰省?また10月1日からは通常の授業が始まるっていうのに?。

 へえって思った。

 俺の方は、明日、地元から池内と荒井が来る予定。9月いっぱいは授業がないから、その間、遊びに来いって誘ったのだ。

 

 

 

 

 

9月30日(日)

 午後三時。台風が近づく中、2人は岩国に帰っていった。今、夜の9時。外はすごい雨と風。俺は昨日あたりから喉風邪をひいて調子悪い。

 9日間なんて長かったようでも、あっという間だった。夕方、部屋を掃除していたらビールとジュースの缶が36本出てきた。よく飲んだもんだ。

 しかし、どっかおもしろいとこない?なんて言われてハタと気づいた。俺は京都の事を何もしらない。下宿と学校の往復ばかりで、定番の観光地だって、清水寺とか金閣寺どまり。穴場なんて知るわけが無い。そんな訳で大したところには連れていってやれなかった。反省。

 今日、ラジって女性ボーカルの「ハート トゥ ハート」ってアルバムを買った。

 

 

10月1日(月)

  台風が通り過ぎ、今日は光溢れる涼しい秋の1日だった。

 

 なんで台風が通り過ぎたら天気が良くなんの?

 そりゃあれだ、風が雨雲を全部連れて行くからだろ

 なるほど、そういうことか

 そりゃそうさ

 

 そんなつまんねえこと誰かが言ってた。

 今日スパイロ・ジャイラの「モーニングダンス」ってアルバムを買った。夏休みのバイトは2週間。今回、手にした現金は5万円足らず。現金を手にするとついついレコードが欲しくなる。

 

 夏の引っ越しは少ないが、春は1か月くらい大忙しだそうだ。春も頼むぜって事務所の人に言われた。

 

 

10月2日(火)

 アッセンブリアワーが嫌だった。

 秋の学園祭の相談。執行部は日本史一回生のメンバーで劇をやりたいらしく、その提案があったのだが、話が全然盛り上がらなかった。そりゃそうだ、ついこの間まで休みでみんな帰省していたのだ。急に学園祭が、なんて言われたってピンとこない。でも、執行部?の連中はその無関心な感じが許せないらしく、ずっと不機嫌だった。で、竹下なんかは、勝手に昔語りをはじめて、俺の高校もこういう雰囲気で、無関心無気力がカッコイイって奴ばかりで、ずっと不満だった、大学でもまたこれかよって思うとやるせないんだよ、なんてぶっちゃける。最初は黙って聞いてた俺だが、なんだかだんだん腹が立ってきた。

 いつまでもオママゴトやってんじゃねえよって思った。そういう青春ごっこは高校で終わりだろ。みんな歴史学学びたくて立命館に来た。俺は一浪までして立命に来た。それは歴史学のためであって演劇のためじゃ無い。劇がやりたいって奴の邪魔をする積もりはない。やりたい奴はやればいいが、興味も関心もねえやつをそういう言い方で巻き込むのはやめろ。学費稼ぐのが大変で毎日バイトバイト。劇どころじゃねえってやつだっているだろうし、サークル活動で忙しいやつだっている。執行部は学園祭を盛り上げようと頑張ってる。そのことは認めるし、協力できなくて申し訳ないとは思うが、みんながみんな執行部と同じレベルでは考えられないんだよ。

 そんな事を言ってやった。はじめは冷静なつもりだったのだが、自分の言葉に興奮してしまって、随分苛ついた感じになった。怒りをぶちまけたって言い方の方が合ってるかもしれない。完全に浮いてたなあ。みんな黙りこくっちゃって。島津さんも黙ってた。感じ悪いっておもったろうな。

 

 でも、間違った事を言ったつもりはない。高田って女子学生が大学をやめた時、みんなの問題としてクラスで討論しようって事にはならなかった。誰もそんな事は言わなかったし、執行部だってスルーした。冷たすぎやしないか?って思ったやつだっているだろう。でも、それで良いんだと俺は思う。みんなもう大人なんだ。高田が1人で悩んで、1人で考えて出した結論だ。それは高田の人生だし、高田の自由なんだよ。

 

 

10月3日(水)

 昼過ぎに起きる。風邪も良くなって、今日はだいぶ元気になったが、学校はサボった。

 昨日、帰りにパンクした自転車のタイヤ。起きたら直ってた。誰が直してくれたんだろうって自転車を見てたら、大家のご主人が出てきて、直しといたし、っていわはった。

 

 ども、すんません、おおきに

 請求書、渡すでな(爆笑

 

 うちの下宿は本当に良いところだ。

 

 

10月4日(木)

 俺の屋根裏部屋の小さな窓。その窓から名前も知らないお寺が見える。その大きく流れる瓦屋根の、てっぺん。あそこに登ってみたいなあって思った。

 緊張感のある、ひんやりとした朝。オレンジ色の日の出だった。

 徹夜したのだ。一晩中、安岡章太郎「ガラスの靴」を読んでた。気がついたら外が明るくなってきた。

 

 俺は窓を少し開け、

    ベットで枕を抱えて日の出をじっと見た。

 ヘッドフォンをして

    スパイロ・ジャイラの「モーニングダンス」を聞いた。

 食パンを囓り

    湯気の立ってるコーヒー啜りながらチェリーを吸った。

 新聞配達のお兄さんが自転車で、

   マラソンのおじさん、通勤のサラリーマンが足早に通り過ぎた。

 

 

 今、夜の9時半。学校の帰りに道ばたの公衆電話から島津さんに電話してみた。妙心寺の絵は見れた?って聞いたら、まだ行けてないんだ、って苦笑いが聞こえた。明日、夕方喫茶店「ヨーク」で待ち合わせの約束をした。いいよ、どうせ暇だから、って言った。「どうせ暇だから」か。嬉しいような、残念なような複雑な気分。

 

 

10月5日(金)

 約束どおり島津さんが来てくれた。コーヒー1杯で小1時間喋ったけど、妙心寺の時ほど盛り上がらなかった。店の中に学生や観光客がたくさんいたせいかもしれない。まるでインタビューみたいに、俺がいろいろ聞いて、島津さんがボソボソ答えた。会話が途切れる事も多くて焦った。秋山さんみたいに、1人でいろいろ喋ってくれるとありがたいのになあ、とか思った。

 でも、すごく印象に残った話。1番最初の自己紹介の事を話したんだ。鹿児島が、鹿児島が、って3回くらい繰り返してさ、なんだか方言のイントネーションを気にしてたのかな?って思ったんだ、って。そしたら、たしかに鹿児島の言葉を気にしていたって言った。でも、それは「恥ずかしい」って事じゃないよって念を押した。鹿児島弁同士で話すのなら、人前でも言いたい事言えるけど、ちがう言葉で喋ってる人に話すんだから、その人の言葉で話さないとって思っちゃって、それでああなっちゃったんだ、と。

 なんだか、アメリカに行ったら英語で喋らないとって言ってるみたいで面白かった。豊島なんかは、いつまでたっても上州便だ。直す積もりもないみたいだし、関西弁なんて絶対におれは使わねえって言ってる。上州ナショナリズムだよって威張ってる。それでいいんだと思う。

 

 暇な時に電話したら話し相手になってくれる?って最後に聞いた。

 

 うん、いいよ

 

 やっと少し笑ってくれた。

 

 

10月8日(月)

 土曜日、島津さんは学校に来なかった。今日も来てない。え?俺がモーションかけたから?まさかね。俺に、そんな影響力ないでしょ。

 

 昨日の総選挙で共産党が大躍進。なんと衆議院の議席が41。自治会の奴ら、大喜びだった。

 

 

10月9日(火)

 久保の下宿に寄ったらあいつ1人だった。他のやつらがいなかったので、つい島津さんを呼び出して茶店で会った事を話した。久保はすっかり秋山さんと俺が付き合ってると思ってたようで、なんや?お前、二股か?そりゃいけんで、と顔をしかめた。いやいや、秋山さんはあくまで同郷の友、俺のタイプとしては島津さんなんだよな、って言うと、島津さんねえ、でも、あいつ暗いじゃん、何も言わんし、どこがええんかワシにはわからんわ、って苦笑いした。

 電話してもええか?って聞いたら、ええよって言われたんじゃが、毎日してもええもんかのお?って聞いてみたら、久保が自分の体験を語り出した。中学の時、ある子に付き合ってくれって言われた。嫌いじゃなかったけえ、ええよって言うて付き合ったんじゃが、何遍か話すうちに可愛い子じゃのおって思いはじめた。しまいに好きでやれんようになったけえ、毎日電話しよったら、ある日、突然、もうしつこいけえ嫌い、言うて振られてしもうた。

 誘惑されて捨てられて、っちゅうパターンじゃのお、って笑ったが、人ごとじゃないって思った。

 

 

10月10日(水)体育の日

 島津さんと1回じっくり話してみたいと思った。その願いが叶った。1回話せればそれで十分幸せだけどなって思ってたのに、1回話をしたら、また話したいって思った。

 電話で話相手になってあげるよ、とは言ってくれたけどまさか毎日だなんて思ってなかっただろう。なのに電話で声聞いたら、次の日も聞きたくなって電話した。流石に毎日電話かかってきたら鬱陶しいだろうな。俺が島津さんだったら、ええ加減にせえよって怒ると思う。きっとそうだと思うけど、やっぱり電話したい。声が聞きたい。だから今日も電話してみた。声聞けば幸せだけど、やっぱ顔みたい、会いたい。合えばついでにどっか遊びに行きたいなって思ったりもするだろう。でも1度、遊びに行ったら、もう1回もう1回ってきりがなくなるんだろうな。

 そんなこんなで転がり落ちる雪玉みたいに、どんどん大きくなって、いつかどこかにぶつかって粉々になったりするんだろうな。久保の気持ちよくわかる。どこかで止めないとね。

 

 今日は1日、1人で下宿にいた。

 昼前に起きて飯を食い、テレビでNYコスモス対日本リーグ選抜の試合を見る。

 その後、洗濯をし夕食後、文学のレポート、英語の予習、「歴史とは何か」の2回目を読む。やっぱり難しい。

 

 

10月11日(木)

 島津さんは謎が多い。そもそもクラスに友達みたいな人が少ない。歴研にも入ってないし、自治会活動する訳でもない。談話室にいることはまずないし、クラスの子とつるんでどっか行く訳でもないし、ワイワイ喋ってる姿もみない。強いて言えば鈴川さんくらいか?。意図的に日本史クラスを避けてるような節さえある。

 

 島津さんの事が気になって仕方ない。でもブレーキかけなきゃって思う。これじゃ高校生の時の繰り返し。津田加奈子の二の舞だ。勝手に1人で盛り上がって、坂本と付き合ってるって知って落ち込んで、坂本と別れたって聞いて復活して泣いたり笑ったり。独り相撲でヘトヘトになって、話した事もないあいつにいきなり「好きだ」なんて言ったりして。そりゃ迷惑だよなあ。恋愛ってのは男も女もお互い意識してて、お互い盛り上がって良い感じになって、それからの話でしょ。温度差があっちゃ駄目なんだよな。

 今度だけはそういう失敗はしないようにしなくちゃ、って思う。まずは知る事だよな。お互いを知るには時間がかかる。そもそも、俺があの子が気になるように、あの子にも興味を持ってもらわなくちゃ。残念だが、今のあの子は俺には興味も関心もない。俺がアプローチするから、それに応じてるだけ。ただのリアクションだ。そこを間違えちゃ駄目だ。

 

 島津さんは今日も休んでた。どうしたんだろって思うけど我慢した。風邪でも引いたの?って電話してみようかとさんざん悩んだけど、我慢した。俺ってすごい?。

 

 

10月12日(金)

 今日、島津さんが来た。来たんだけど、なんだかなあ。なんでこうなるのか。人生は皮肉だ。

 

 サブゼミに島津さんが来たのだ。1週間ぶりだった。どうも風邪こじらせちゃったみたい、って、まだ少し鼻声だった。俺と茶店で話した時も微熱があったみたい。なんだ、そうだったんだって安心した。

 で、一段落ついて雑談してた時に、もうじき奈良の正倉院展があるって話になって、サブゼミのみんなで行かないか?って事になった。珍しく島津さんも乗り気で、あ、それ、行きたい、なんて言ってたんだ。そういえば秋山さんも正倉院展の事言ってたなあ、って思ったけど、ここは島津さん優先だろって思った。そしたらタイミングの悪い事に教室のドアのところから秋山さんが顔覗かせた。

 

 あの、山下先輩、ちょっといいですか?

 

 おいおい、彼女が呼びに来たぜ、なんて豊島が言い、へえ、山下くん、西洋史のあの子と付き合ってんの?なんて平田なんかも調子に乗りやがって、見たら島津さんは無表情で窓の外かなんか見てるし。

 

 いやいや、同じ高校の後輩ってだけだから

 

 って誤魔化したのに、地元で一緒に花火大会行ったんだんべ?、それってもう付き合ってるって事だべなあ、なんて豊島が平田に解説してまずい感じになった。あ、ごめん、今ちょっと重要案件の審議中だから、って大きな声で断ったら秋山さんが食い下がった。

 

 すっごく大事な話なんです、先輩に話したい事があるんです

 

 しぶしぶ廊下に出て行ったら、明日の午後、一緒に仁和寺行きましょう、って誘われた。仁和寺?すっごく大事な事って、それなの?って聞いたら、秋はやっぱり仁和寺でしょ?なんて訳のわからない笑顔を作り、じゃ午後1時に嵐電の等持院駅で待ってますね、と言い放ってどっかに消えた。

 どうやら話を聞かれてたらしく、教室に戻ったら、いいなあ、彼女と仁和寺デートかあ、俺も一緒に行っていい?って豊島に冷やかされた。いや、だからあの人は学校の後輩で、同郷の友人ってだけだから、って一生懸命説明したのに、誰も聞いてくれなかった。

 

 

10月13日(土)

 すごく嫌な気分。なんでああいう事するのかね。ほんと嫌だ。もう絶対、あいつらとは話さない。絶交だ。

 なんで仁和寺なんかなって思ってた。たしかに近くにあるのに行った事ないし、1回行ってみたいなとは思ってた。でも、さすがにアレはない。

 等持院駅で待ち合わせて嵐電で仁和寺駅まで。そこから少し歩いて仁王門。観光客もほとんどいなくて、境内は良い感じだった。背伸びして深呼吸。ああ、空気が旨いなあ、なんて言ってたら、秋山さんが突然言い出した。

 

 先輩、私と一緒にがんばりましょうよ

 え?がんばるって?何を?

 だから、その世の中を変えるのは若い力だと思うんですよね、やり方

 はいろいろあって良いし、社会変革につながるなら、どんな団体でど

 う取り組んだって良いはずだって、先輩はそういう意見らしいですけ

 ど、あたしとしては一緒にがんばって欲しいんですよ

 ちょっと、それって?

 そうです、民青です

 え?秋山さん民青に入ったの?

 だって一人の力って小さいじゃないですか?弱い立場の人は団結して

 闘わなきゃ権力には勝てませんよ

 いや、俺はいいよ

 学内では権力かもしれませんが、世の中で共産党って全然権力じゃな

 いですよ。だから私達学生も大学当局と協力しながら社会変革に取り

 組むんです。うちの学内で反権力って、世間じゃ右翼、もしくは新左

 翼じゃないですか、トロなんか話にならないでしょ

 

 俺がこれまでオルグで喋った事が全部筒抜けだった。あいつら秋山さんを餌に俺を抱き込もうって魂胆なんだっ、てその時、わかった。同じ高校出身だから、あんまり酷い事は言いたくなかったけど、さすがにこれは耐えられなかった。

 

 そういうの俺、大嫌いなんだけど?

 そういうのって?

 そういうのって、こういうの。人間関係で丸め込むの止めようよ。俺

 が入りたいって思えば、自分から入れてくれって言うよ。

 

 花火大会に誘ったのも、これが目的だったのか?って詰問したら、いえ違いますよ、あの頃はまだ入ってないですし、と答えた。だけど、こんな事されたら、何を信じて良いかわからなくなる。

 

 いや、もう良い、俺、帰るわ、なんかすごく馬鹿にされた気分だし

 

      そう言って仁王門の方に歩いて行った。

 

 あいかわらず短気だな

 

 そう言って藤井が門の陰から出てきた。俺が彼女に言ったんだよ、と続ける。秋山さんがオルグするべきだって、俺が言ったんだ。だから怒るなよ。秋山さんが藤井の後ろに隠れるのを見て、こいつら付き合ってんだなってピンと来た。

 秋山さんじゃなかったら、博士くんじゃなかったら、俺はぶん殴ってたと思う。それくらい嫌な気分だった。それからどうやって下宿まで帰ったか覚えてない。とにかく腹が煮えくり返って、下宿に着いたら本当に腹が痛くなってベットに倒れ込んだ。

 もうあいつらとは絶交。2度と口きかない。

 

 

10月16日(火)

 こんど一人で自転車に乗ってどこかへ行こう

 学校を三時頃出て、どこかに行こう

 京都の街を自転車にのって 町並みを眺めながら

 秋の風の中を どこかへ行こう

 ふと古本屋に立ち寄って適当に本を買うのもいい

 誰かが読んだ 誰かが持ってた、薄汚れた本を買うのがいい

 そして場末の暗いジャズ喫茶の隅に腰掛けて

 誰かのだった古書を読もう

 

 ジャズ喫茶を出たら

 もうあたりは暗くなってるかもしれない

 すっかり肌寒くなってるかもしれない

 ならば 自転車のライトをつけて

 ならば 薄いコートを羽織って

 一人で帰ればいい

 

 いつか自転車でどこかへ行こう

 すっかり秋の京都の街を

 

 夕方、サブゼミやってたら急に停電した。窓から見たらキャンパス中、すべての電灯が消えてた。パニック。「おちついて、そのままの場所にいてください」って自治会の誰かがスピーカーで呼びかけてた。しかたないので薄暗い中、雑談した。今日は女子が誰も来てなかったから、この前の仁和寺の一件を話した。久保も豊島も最初はニヤニヤしながら聞いてたけど、段々無表情になって、最後には怒りだした。

 

 だから民青なんて嫌なんだよ、ったくぶっ飛ばしてやんべ

 

 今にも談話室に殴り込みに行きそうな勢いだったので焦った。

 

 

10月17日(水)

 昨日の夜、久保の下宿で雑談してるうちに俺だけ居眠りしてしまってた。で、その時、変な夢みたんだよな。でかい戦車が唸りを上げて大学のキャンパスを突き進む。その場面だけで、何故か韓国だってわかってるんだ。韓国の学生運動を軍隊が弾圧してるんだって。

 で、ガバっと起きて、おい、大変な事になったぞって大きな声だしたら、何寝ぼけてんだよってみんなに笑われたんだ。そうじゃないんだよ、軍隊が、ほら、学生運動を弾圧してさ、戦車がキャンパスを蹂躙してて、って言うのに、はいはい、ご苦労さんとか言って全然真に受けてくれなくて。

 目が覚めて、ああ、あれは夢だったのかって、わかったけど、なんだかリアルな夢だったよなあって不思議な気分だったんだよね。そしたら、今日、夕方のテレビニュースでやってた。韓国は釜山で反政府デモがあったって。市民や学生と軍隊が衝突して戒厳令まで出たとかなんとか。

 これって予知能力ってやつか?って思った。これまでも、似たような経験はあるけど、ここまでハッキリした奴は初めてだ。だって、居眠りしてる時、テレビはついてなかったし、そもそも韓国のニュースなんて興味持って見た事なんかなかったのに。こりゃ自分でも怖いわ。

 

 

10月19日(金)

 昨日の8時に寝て、今午後2時に起きた。18時間睡眠だ。

 今、雨が降ってる。けっこう強い雨。台風が近づいてるって言ってたしなあ。

 昨日はプロゼミの発表。やっつけ仕事だったが、なんとか無事に終了。

 よーし、打ち上げだ、ってんで午後、久保と豊島と3人で百万遍に繰り出す。京大のキャンパスをうろついたり、古本屋街を冷やかして歩いたりした。キースジャレットの特集が載ってたスイングジャーナル(74年)を買って帰る。

 

 今、ケルンコンサートを聴きながらスイングジャーナルを読んでる。

ジャズシーンの地図はさっぱりわからないが、キースジャレットのピアノは好きだ。「生と死の幻想」ってアルバムがゴールドディスクになってた。聞いてみたいなあ。

 ジャズは魅力的だ。知らない、解らないから惹きつけられる。

 

 

 毎月7万円仕送りしてもらってる。そのうち家賃と電気代で二万円。残りの五万円で1月過ごしてるが、今月は2万円も余った。そろそろコタツが要る。1万円でコタツを買い、残った1万円でジャンパーを買うか?アーミージャケットは久保のアディダス製ウィンドブレーカーと交換してもうない。あのウィンドブレーカーで冬を越すのは不可能。暖かいジャンパーが欲しいところだが、1万円ではちと足りないかも。バイトでもするかなあ?

 

 18時間寝てる時、変な夢を見た。お父ちゃんの夢。大学に入ってから、実家の事なんか考えた事もないし、ましてや夢に家族が出てくるなんて1度もなかったのに。

 夢の中でお父ちゃんはクラッシックを聴いていた。いつものように。ヘッドフォンをして。1人でステレオの前にあぐらをかいていた。煙草を吸いながら、目を閉じて。眉間に皺を寄せて。薄暗い部屋で1人。

 それを俺は部屋の入り口でじっと見てる。そんな夢だった。

 

 

10月20日(土)

 19日の午後、電話で呼び出された山下くんは、雨の中を久保くんの下宿に行ったのだそうです。そこには豊島くんと尾崎くんも居て、だんだん寒くなるとおでんが食べたくなるよなって話になり、それなら豊島くんの新居訪問も兼ねて、おでんパーティーをやろうぜって事になったようです。豊島くんの新居は、部屋に流しとトイレがついているという超高級仕様なので、こういうイベントには最適みたいです。

 竹輪だのコンニャクだの卵だのを鍋に放り込んで煮込み、四人でしこたま食べたそうです。ついでに共同風呂まで拝借して、そのまま泊まっちゃったらしい。

 今週は木曜から全然学校に出て来ず、一体何やってるのかと思えば、あんな事してたんですね。

 今日、山下くんはバス停に居ました。私を見て作り笑いしてたけど、なんだかさみしそうでした。何かあったのかしら?。

 山下くんは四条河原町に服を買いに行ったようです。高島屋だの阪急デパートだのを見て回ったけど、あまりに高いので諦めて、新京極のバッタもんで我慢したそうです。セーターとボタンダウンのシャツ。あんなに暖かいジャンパーをほしがってたのに、なぜセーターとシャツなんでしょうか。

 

 なんて事を日記に書いてくれる女の子、この世にいないかな?

 

 夜、世田谷小谷が下宿に来た。学生大会に来てくれよってのが要件だったけど、その実、雑談ばかりしてた。めんどうくせえわって言ったら、何度も何度も、頼むよって言われ、そこまで言われるとむげに断る訳にもいかず、「行けたら行くわ」って言っておいた。

 

 夜11時頃、煙草を買いに出たらめちゃくちゃ寒かった。寒いのなんの。あんまり寒いんで必死で自転車漕いだら、スピード出過ぎで当たる風が冷たいのなんの。漕げば漕ぐほど震えるって、どうなってんの?って感じだった。もうじき11月。煙草買いに行くのも命がけやな。

 

 さっき2時すぎ、あんまりの空腹に耐えきれずメシ2合炊いて、むすびを作った。5つ握って3つ喰った。腹一杯。

 

 木金土と学校に行ってない。良くないな。逃げてるな。

 島津さんは火曜日から見ていない。

 

 

10月21日(日)

 やつはみかんが食べたくなった。ひとつかふたつ。でも、スーパーでは一山いくらでしか売ってないから、一つか二つ食べたかったみかんを山ほど買ってきた。

 コーヒー沸かして、みかん食べ食べレコード聴いて、煙草ふかしては机に向かってるあいつ。貴様の魂はどこにあんだよ?って聴いてもやつは答えない。ヘッドフォンで聞こえないから。

 

 家に帰りてえなってやつは思った。そういえば島津さんって子も同じ事言ってたなあってやつは思い出す。こんなとこに一人でいるなら、いっそ鹿児島に戻って草むしりでもした方がましだって思うなんてね。心の空白。それって台風が過ぎ去った翌日の空?。

 

 奴は豊島から借りた「青葉しげれる」を読んでた。面白かったのかどうか、無表情だからわからない。やつはダラダラと日記を書いている。やつにとって日記は大切なものだ。日記を書くのが中学いらいの習慣になってる。その日にあった事をその日のうちに書いておくのが日記だが、今のやつは日記に書くために毎日を過ごしてる節さえある。それくらいに大切なものだ。

 やつは、その場の感情に流されない、思慮深い人間になりたい、なんて書いている。立派な心がけだが、その心がけが、そもそもその場の思いつきだから無理じゃねえかと思われる。

 やつは、秋山さんの一件いらい元気がない。人間不信。別に好きだった訳じゃないけど、さすがにあれはない。小さな自尊心がトラックに轢かれたみたいにぺしゃんこになった。島津さんに電話する気にもならないみたいだ。

 やつは眠そうになってきてる。机には明日の一講目の体育のため、ジャージなんかが出してある。あーーあ、なんてため息ついて布団にくるまった。あっ、電気消しやがった。

 

 

10月22日(月)

 体育はバレー。張り切ってがんばったら疲れてしまって、久保の下宿に転がり込むや寝てしまった。一緒にいた豊島と久保が立同戦の応援に行こうぜ、と俺を起こした。中国語は休講だから、という。行きたいのはやまやまだが、先週も欠席したし、二週続けてってのは流石にまずい。今日は止めとくわって俺ひとりドイツ語に出席。先に来ていた秋山さんと目が合ったが、俺も無視だし、彼女も何も言わない。

 ドイツ語が終わって財布が無いことに気がついた。どうやら久保の下宿に落としてきたらしい。久保下宿は鍵がかかってるし、どうやっても部屋には入れない。授業の後は本屋に寄って、茶店で旨いコーヒーを飲んでってあれこれ考えていたのだが、全部パア。

 急に島津さんの声が聞きたくなって、学校からの帰りに電話ボックスから電話した。その後どう?元気っすか?って言ったら、あの、こういうの山下くんの彼女に悪いから止めた方が良いと思うって島津さんが言い出した。いやいや、だからあの子はそういうんじゃなくて、この前説明したでしょ?って言うのに、本当の事を言うと、彼女がというより私なんです、こういうのあんまり嬉しくないんですよね、なんだか二股かけられてるみたいでって、すごく不機嫌だった。そうじゃなくって、アレは民青の勧誘がって説明しようとしたら、ごめんなさい、そういう事なんでもう電話しないで、って急に切られた。

 

 呆然として下宿に帰ったら、俺の部屋に久保が座ってた。立同戦、3対1で勝ったぜーってはしゃぐのを見てたら泣けてきた。おいおい、そんなに嬉しいのか?何泣いてんだよ、たかが大学野球だぜって爆笑しやがるから、悔しくて号泣した。

 

 

10月23日(火)

 今日は夕方4時過ぎまで寝ていた。途中夢を見た。豊島が起こしに来て、俺がなにやら答えて、豊島があきれて部屋を出て行く夢だ。目が覚めて、もしかしたらあれは夢じゃなくて、現実だったのか?って思った。明日聴いてみなくちゃ。

 起き抜けに煙草を吸い、くわえ煙草で鏡を見たら、自分の顔が酷く醜く思えた。何ヶ月も放ったらかしの髪の毛がアナーキーなのだ。

 

 よし、散髪に行こう

 

 衝動的に思った。これくらいでええ?いや、もうちょい切った方がええよね?ここは刈り上げとくかな?、せやな、これくら切っといたほうがなんて床屋のおっさんが言うのに、はあ、とか、ほお、とか言ってたら滅茶苦茶短くなっていた。床屋を出て頭に触れ、これって坊主か?って思った。下宿で見直したら坊主ではなかったけど、相当短い。やはり、その場の感情に流されず思慮深く行動しないと行けないよなあって痛感した。衝動的はいかん。ほんとにいかん。

 

 今、十二時。「ムツゴロウの結婚記」ってのを読んでた。個性的な人もいたもんだ。読むたびに度肝を抜かれる。

 

 

10月25日(水)

 昨日の話から書いておこう。

 4限目の教育心理の教室に行くと岡山大河原が座っていた。近づいたらこっちを見たのに、無視するので、何だよお前、って言ったら、初めて俺だと気づいたみたいで、おーおーって奇妙な声を出して俺を指さした。尾崎は入り口から奇妙な顔で近づいてきて、大河原はわかったけど、隣のやつって誰や?って思っちゃったもんね、全然わかんなかったもんね、って説明。授業が始まってから入ってきた久保と豊島は無言でニヤニヤしっぱなしだった。

 

 で、今日は英語、概説Ⅱ。その後書籍部で漱石の「彼岸過迄」と北杜夫の「楡家の人々」の2冊を購入。学食で夕飯を食べた後、久保の下宿に転がり込み10時くらいまでダラダラしてた。

 

 明日はサブゼミのメンバーでコンパやる予定。豊島の高級アパートが会場だ。島津さんもサブゼミメンバーだから一応誘ったけど、冷たく拒否された。ごめんなさい、忙しいんでって。

 

 

10月28日(日)

 金曜日は盛り下がった。平田とか他の女子もメシだけ喰って帰っちゃうし。

 

 土曜は、一応、1限目の生物に出席。レポートを出してきた。その後久保下宿にしけこみ、広島対近鉄の日本シリーズ第1戦を見る。5対2であっさり敗戦。高橋慶彦は初回いきなりエラーするし、それをきっかけに北別府は失点するし、打ってはたった5安打散発。これじゃとてもとても日本一にはなれない。

 

 で、今日、日曜。よせば良いのに、自室で初回からテレビにかじりついて日本シリーズ第2戦を見る。先発山根は見事なピッチングで6回まで抑えていたのに味方の援護なし。拙攻拙攻の嵐。7回に江夏に交代。ところが頼みの江夏が乱調。バカバカ打たれて4対0。完封負け。

 もうむしゃくしゃして部屋の壁をぶち壊しそうだった。どうやら下宿の大家さんは近鉄ファンらしく、試合が終わった瞬間、おっしゃー、みたいな大声が聞こえた。

 

 唯一の慰みはコタツ。生協で注文したのがやっと土曜日に届いたのだ。

今もコタツに入ってコレを書いている。ベットにうんと近づけて背中をベットにもたれかけて座椅子の代わりにしてる。こうしてると左にはテレビとプレーヤーが、右にはラジカセが、どちらも手の届くところにあって、至って快適。

 コタツはあったかいなあ。ほんと、あったかい。

 日本のあったかさ。家庭の温みがコタツにはある。

 一人でいても団らん。ああコタツ。日本のぬくもり。

 

 

11月29日(月)

 大雨の中、学校に行く。3限目は英語。授業ギリギリに教室に入ると、狭い教室の最前列しか空いてない。しぶしぶ最前列の窓際に座る。教授はなかなか現れない。窓の下に等持院の森、視線を上げると妙心寺の甍が煙る雨の向こうに見える。

 遅れて来た教授はいきなりラフカディオハーンの話を始めた。彼は少なからぬ愛と情熱をハーンに持っている様子。なんでも最近ハーンの全集の翻訳を手がけ、近々出版される予定とか。どうりで。

 ハーンは大のキリスト教嫌い。ギリシャの離島育ちだった彼の母親がアイルランドで村八分にされ、そのせいで精神を病んでしまう。そのこともあってハーンは幼少時からキリスト教に恨みを感じていた。そんな彼はキリスト教とは無縁の極東の島国にやってくる。彼が日本や日本の女性に惹かれたのは、なによりそうした事情があったからに他ならない。

 そんな話を、いろんな方向に脱線しつつ、多少飛躍も交え熱く熱く語った。教授は30十分ほどしゃべり続けると、ふーっとため息をつき、光るくらいに油を撫でつけた頭髪をかきむしりながら、じゃ授業に入ろうかって言った。

 教授は一番に島津さんを指名した。島津さんは指定されたページの日本語訳を読み始めた。かなり気を遣って読んでいるのはわかったが、彼女のアクセントはあきらかに関西独特のそれとは別物で、クスクス笑い声も聞こえた。島津さんの声が小さくなり、途切れ途切れになると、事情を察したのか、教授がごく自然に訳を引き取った。薩摩ナショナリズム。それでいいのに、って俺は思った。

 

 キースジャレットの「生と死の幻想」を買った。陰鬱さがたまらない。暗さがきらめいている。

 いよいよ、明日は日本シリーズ第三戦。シリーズが終わるまで授業には出られそうにない。困ったなあ。

 

 

10月30日(水)

 果たしてカープはやってくれた。2連敗の後の2連勝だ。昨日は3対2の接戦を、池谷、江夏のリレーでモノにしたが、今日は4回に逆転してからは、終始リードを保って余裕の勝利。松原が完投。ただ、大好きな衣笠が絶不調なのがさみしい。

 

 カープ2連勝の勢いをかりて、昨日書いた歴研への退会届を出してきた。半年、我慢して続けてきたが、やっぱり歴研は自分に合わない。稲川さんとか門脇さんとか、すごい先輩に出会えた事はありがたかったけど、その逆もありだ。特に太田。歴史学を研究するサークルの全体会で、どうして府知事選対策を話し合わねばならんのだ?。サークルの私物化。セクト主義。公私混同も甚だしい。サークルのメンバーだから全員が共産党支持じゃねえだろ、そういう話は民青でやってくれよ。それを言ったら、全体会に出たくない会員は切り捨てる、だと。おお、上等じゃねえか、切り捨てられる前にこっちから辞めてやるわって。そんな流れですわ。あの太田って野郎、現役で入ったから上回生だが、年は同じだ。あんな野郎を「さん」つけで呼んでた自分が情けない。まあ、いくらオルグしても懐柔されない俺が鬱陶しいんだろ。ほざけ。馬鹿めが。

 

 

11月2日(日)

 今日から学園祭。十日のフィナーレまで講義は中断。俺はクラスの嫌われ者だから劇などお呼びもかからないし、まるっきり暇。しかし、俺にはカープの応援という大義がある。ふふふ。

 

 

11月3日(土) 

 木曜日は山根が快投を見せ、1対〇の完封勝利で3勝2敗。日本一に王手をかけた。

 昨日は移動日で試合がなかったから、いつものメンバーで正倉院展を見に行った。春、秋山さんと東大寺に行った時、秋に一緒に行きましょうねって約束したのになあ、なんて思ったりした。

 美術品の価値は全くわからなかったけど、仲麻呂自筆の上品目録を見た時は感激した。やはり本物を見るって事は何よりも大事だなって思った。先生達がよく言う「一次資料に当たれ」ってやつだな。

 展示品の中に「迦楼羅」ってのがあった。何でも仏教でいうところの神鳥らしいが、その顔つきがカラス天狗大河原に似てるって事で盛り上がった。帰りはみんなやつのことを「カルラ」って呼んでいた。

 

 行き帰りの電車で自主ゼミの話が出た。

 文学部では必修科目の研究入門(プロゼミ)と小人数のグループ毎で共同研究するサブゼミってのがある。だが、それ以外でも自主ゼミってのがあるらしい。自主的にグループを作って学生課に書類を出せば「自主ゼミサークル」としていろいろ補助を受けられる。それをやらないか?って話だった。

 俺が歴研を辞めたら、豊島、久保やカルラなんかも辞めちゃった。もともと不真面目な会員で、さぼってばかりだったが、無くなったら無くなったで暇でもある。じゃあ、自主ゼミでもやるかって感じになったのだ。メンバーはカルラ大河原がいろいろ当たってみるって言ってた。楽しみだ。

 

 で、シリーズの方はというと、今日、日本一が決まるかと豊島の高級アパートに泊まり込んでテレビ観戦したが、近鉄が意地を見せた。近鉄先発の井本が気迫の完投。さすが日本シリーズ、そう簡単には勝てない。明日が最後、いよいよクライマックスだ。

 

 

11月4日(日)

 逆境ではじめてその人間の力がわかる。今日の9回、ノーアウト満塁の江夏を見て痛感した。佐々木を仕留めたボールといい、スクイズを察して藤瀬をアウトにした場面といい、最後、石渡を3振に切って取ったボールといい、江夏の底力に震えたよ。もはや神だ。

 それにしても最後の場面は苦しかった。あんなに苦しかったのは人生初だ。だから疲れた。カープが勝った。日本一になった、という喜びよりも、「疲れた」ってのが正直な感想。

 

 久しぶりに実家に電話した。カープファンのお父ちゃん、大喜びだろうって思った。一緒に喜びを分かち合うのも悪くないと思ったし、それに、いつか見た変な夢の事がずっと気になっていた。

 お父ちゃんは居なかった。今日は仕事なんよ、ってお母ちゃんが言ってた。じゃあ、あのすごい場面をリアルタイムで見れてないのか、って不憫に思った。それを言うと、まあみんな元気でやっちょるけえ、心配しんさんなって言われた。

 

 さあ、シリーズも終わった。この10日くらいは何もしてない。カープ、カープで毎日が過ぎた。これまでさぼった分、勉強がんばらにゃ。

 

 

11月7日(水)

 学園祭で暇なので月曜から小説?のようなものを書いている。それと平行して漱石の「彼岸過迄」を読んでいる。

 小説を書くのは実に難しい。おおまかでも全体の構成をハッキリさせておかないと話が前に進まない。今、書いているやつは、結末も、そこに至る道筋もないまま、思いつくままに書き始めた。

 書いていると、先の道筋が幾筋にも分かれてくる。分かれてる様は見えるのだが、どれに進めば良いかわからない。どこを行けばどんな結末が来るのかもわからない。

 それに較べて漱石はすごい(なんて当たり前すぎて噴飯物だな)。文章も構成もすごい。そもそも漢文、英語の幅広い教養がある。ごく普通の情景描写でさえ粋な比喩や巧みな美文で織り上げられた西陣織のようだ。

 「文豪漱石」なんて人は言うけど、どこがすごいのかわからなかった。でも、いざ自分が書いてみると「文豪漱石」の意味がわかる。俺には漢文も英語も、いや日本語すらまともに書けない。そもそも読書量が少なすぎる。いつも小難しい事ばっか喋ってる高山なんかは高校時代ランボーとジットに傾倒していたなんて言ってた。

 小説?なんか書く前に、もっともっと読むべきだろう。古典も、それを踏まえた現代文学も。 

 

 

11月10日(土)

 伊藤整の「文学入門」を読んだ。浪人の頃、誰かにもらったのだが、読まずにいたものだ。暇つぶしのつもりで読み始めたら、意外に面白いので時間を忘れて読みふけってしまった。

 白樺派、自然主義(太宰その他の破滅型作家)のところは、俺の考えと一致した部分に頷き、自分の知らなかった部分、考えた事もなかった部分に感心しつつ読んだ。特に志賀直哉の「城の崎にて」の解説、生と死を降下的に扱う太宰と昇華的に扱う志賀との対比(海の表面で波にもまれて生活してる人間の実生活を海の底から覗く)は読み応えがあった。

 

 暴走族志村と最近、話してないなあって思った。なんたって奴は大学に入って初めてできた友達だ。奴が民青に入ってから、話す機会が少なくなった。でも、民青に入っても奴は相変わらず奴で、暴走族志村だ。他の民青の奴らとは違う。歴研辞めたいきさつも話してないし。

 

 

11月11日(日)

 午後1時に起きる。起床が遅いと1日が早く終わる。やることはたくさんあるのに1日が早く終わる。困ってしまう。

 慌てて掃除をし(一ヶ月ぶり)洗濯をしながらドイツ語の予習にとりかかったのが午後3時。久しぶりのドイツ後は新鮮で良かったのだが、まるでパズルを解くような七面倒臭さは相変わらずで、たった25行の文章を訳すのに3時間。気がつけば夜。

 こりゃ夕食を作らねばと階下でラーメンを煮ていたら、2階の方から何やら音がするので、覗きにいくと、俺の部屋の前に誰かが立っていた。

志村と三回生の竹内だった。

 ラーメンを啜りながら話しを聴いた。言うまでもなく民青のオルグだった。竹内って体つきがごついし、民青にしては戦闘的というか強圧的な物言いをするから、警戒してたけど、いざ話してみるとそうでもなかった。

 民青入らないのなら、せめて赤旗だけでも取ってくれないか?なんて竹内は言った。それも立派な民主化運動なんだよって。ちょっと待ってくれって俺は思った。物書きは書いたものを世に問う。政治家は言論で世に問う。絵描きは描いた絵で世に問う。あんたも俺も日本史学専攻の学生だろ?歴史研究で世に問うってのが筋じゃねえのか?。そりゃプロパガンダも大切だろうし、機関誌だって読んでもらってなんぼだから、新聞売りが下らないとは思わないが、なにかベクトルずれてねえか?。あんたらマルクス知らずのマルクス主義者じゃだめだって言うけど、新聞売って歩いてたら「資本論」読む時間ねえだろ。象牙の塔じゃ駄目だとも言うけど、言うほど本読んでねえだろ。

 そんな意味の事言ったら、まあたしかに本読む時間ないんだよなあ、って頭を掻きながら苦笑いするから、結局、あんたら共産党の幹部に搾取されてんじゃねえのか?タダ働きで新聞売らされてよお、上手いこと使われてるだけじゃねえのか?って言ってやった。

 挑発すりゃ激高するかと思った。それならそれで都合が良い。喧嘩すりゃさすがに諦めるだろって思ったのに、君、なかなか鋭い事言うね、なんてニヒルに笑い、また話そう、って、おい!逆効果じゃねえか。

 

 歴史学の研究方法を習得するだけじゃだめだ。何のためにその技術を使うのか。その現代的な意義を自覚することが大切。そう「学修要項」にはあった。

 何のための歴史学なのか。民主化運動に関わる事で見えてくるものもあるだろう。何もせずに下宿でぼーっとしてたんじゃ何も見えてこないのかもしれない。だけど、俺には研究方法のなんたるかさえわかってない。ましてや、研究方法の「習得」なんて寝言かってレベルなのだ。野球にサッカーに、中学高校と野外で走り回る事しかしてこなかった。じっくり本なんか読んだ事ないのだ。もっともっと本を読んで、もっともっと考えなければ。深く深く掘り下げなければ。上っ面撫でてばかりじゃ駄目だ。奴ら、「みんなで」が口癖だ。なにかにつけ「みんなで」って言う。でも、能力の無い人間がいくら集まったって何にも起こらない。まずは一人一人が「勉強」しなくちゃ。

 

 志村はずっと黙って俺と竹内とのやりとりを聴いてた。昨日の今日だから、本当は志村と話したかったのに。正直、志村が言うなら赤旗くらい取っても良いんだけどなって思った。

 

 

11月13日(火)

 土曜日に一雨きてから空気が変わった。肌をなめるような柔らかさが消え、肌を刺す、身を切る感じはゾリンゲンの歯のような空気に変わった。この部屋の床からは冷気が浸み上がってくる。シャツ、セーター、ジャージを着てもまだ寒い。

 

 プロゼミの準備を始めた。テーマは「武士団」

 高校生の頃見たNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で関東武士団に興味を持った。あれ以来、いつかチャンスがあったら関東の武士団について調べてみたいって思ってきた。良い機会だから、そこを掘ってみようと思う。

 平将門の乱と藤原純友の乱、同じ時期に起こった地方の反乱、二つを絡ませたドラマだった。戦前の皇国史観では朝廷に逆らい、関東一円を支配した上で、独立まで試みた希代の大悪党とされていた「平将門」を、地方に根付き、朝廷に搾取され続けてきた関東武士団の利益を守るために、あえて反乱を起こした人物として描いていた。

 その関東の武士団がなぜ反乱を起こせたのか。西日本で反乱を起こした海賊とあい通じるものは?その辺を調べてみたいと思う。俺の考えでは「馬」が鍵じゃないかと思うのだが。あくまで思いつきだけど。

 

 今日買った本

 伊藤信吉「詩のふるさと」 講座日本史の③「封建社会の展開」

 林睦朗「古代末期の反乱」 イーノックアーデン

 

 

11月14日(水)

 日本史のクラス。50人余りいるが、4つか5つに分かれてきた。

①主流派と呼ばれるグループが10人くらいかな?自治会活動に熱心な人

 達だが、イコール民青ではない。清心館の談話室に必ずいる人達。歴

 史学研究にも意欲的である。

②反対に歴史学研究にやや情熱を失った人達。サークル活動に熱心と言

 う方が良いのか。剣道部の彼、メンネルコールの彼。京都出身の女子

 学生2人。他10人くらいは専門の授業くらいしか顔をみない。談話

 室にいることはまずない。

③その中間にいるのが俺ら。今回自主ゼミをやろうかって言ってる連中。

 10人くらい。ほぼ毎日学校には来ているが、自治会活動はしない非主

 流派。談話室にいることもたまにある。でも歴史学から離れてはいな

 い。サークル活動はしていない。中途半端な半端もんグループ。

④そして民青一派。自治会活動にも熱心だが、主流派の役員連中とはや

 や異質。

⑤その他。どこで何をしておられるのかあずかり知らぬ人達。

 

 

11月16日(金)

 夕方、下宿に帰ると葉書が来ていた。野村から。

 「合気道の試合で大阪に行くのでついでにお前のとこにも寄ってやる」とあった。16日に電話すると追記もある。え?それって今日じゃないかと思った。

 九時頃電話があった。明日かあさっての朝、こっちに来るといっていた。

 

 昨日は岡山大河原の下宿で自主ゼミ準備会。夜中3時くらいまで溜まっていた。

 なんとなく「部落問題」が自主ゼミのテーマになりそう。部落問題は地域によって温度差が大きい。俺や尾崎、豊島なんかは聞いた事もないが、岡山や京都、大阪なんかは身の回りに空気のように存在する(らしい)。見てるし聞いてるし、そして差別意識が強い。それっておかしいじゃんって批判すれば、たしかにおかしな話だよな、と応じるが、「でもね」って必ず言う。だってしょうがないんだよって。あるものはあるんだって。

 部落差別を無くそうなんて無理なんだよ、きれい事なんだよ、本音じゃみんな、しょうがねえって思ってんのさ、なんて岡山が言うから、じゃなんでそうなってのか、みんなで考えてみようぜって事になった。

 参考文献というか、軸になるテキストは大阪勢に一任することにした。

 

 

11月21日(水)

 日曜の昼に野村が来た。花園駅まで迎えに行って王将でラーメンを奢ってやった。どっか連れていけって言うので、その足で妙心寺へ行きいつだったか島津さんが見損ねた『雲龍図』ってやつを見る。おーさすが島津さんがわざわざ見に来るだけの事はあるなあ、とその迫力に感心した。

 北門を出たら仁和寺への矢印があって、お?「徒然草」に出てくるアレか?って行きたそうにする。仁和寺は嫌な思い出しかないので竜安寺にしようぜって言うのに、徒然草を見にゃいけんじゃろーと、歩き出す。自分が行きたいと言ったくせに、山門をくぐったとこで拝観料300円の表示を見るや、アホくさ、とか、がめついのお、とか文句を言い出す。どっか街が一望できるようなええとこはないんか?なんて我が儘言うので、仕方なく清心館の屋上につれていった。

 あれが双が丘、あれが今行った仁和寺の五重塔、あの森が妙心寺、向こうに小さく見えるのが京都タワー、って説明したが、わかったのかわからないのか、へーとか、ふーんとか言っていた。

 帰りに酒屋でジンを買って下宿に帰ると、あとは飲むだけ。合気道の試合の話だの、大学の様子だのしゃべりながら夜中まで飲む。

 

 月曜日、昼頃起きて、新京極あたりをうろつく。夜はまた飲む。

 

 今日、やつは山口に帰っていった。京都駅まで送りに行ったけど、人を見送るってのは辛い。電車が出るまでは良いが、見送った後がいけない。後に残った自分は黙って歩くしかない。

 今年の4月、母親を見送った夜の事を思い出した。

 

 帰りに本を買う

    黒田俊雄「体系日本歴史2」日本評論社

    「武家の歴史」岩波新書

 

 

11月22日(木)

 夕方、下宿に帰ると荷物が届いていた。岩国の実家からだった。中身はカメラマンコートとちゃんちゃんこ。

 ついでに仕送りの封筒も入っちゃいまいか?と探したが無かった。

今日は1日気持ちがブルーだった。理由はいろいろあるが、1番はお金だ。なんと手持ちの金が300円しかない。節約に節約を重ねて1万円残しておいたのに、それも野村と遊んでいるうちに消えた。2、3日内には仕送りが来るはずなのだが、果たして300円で生きながらえるのか。それを考えると、自主ゼミ準備会も、いつもの連中とのソフトボールもどうでもよくなり、1人帰宅したのだ。

 机の引き出しをひっくり返したら10円玉や5円玉なんかが結構出てきた。数えてみたら合計300円分ある。少し気持ちが軽くなった。さっそくスーパーに買い出しに行く。

 店内で思案熟慮を重ねた末に

 

 ククレカレー、ククレ親子丼、のりふりかけ、つけものパック

 うどんそば玉、四つで100円、米は買い置きがある 

 

 以上、合計500円。

 

 夕食は飯を2合炊いて親子丼と漬物で食べた。

 

 北杜夫の「楡家の人々」を読み終える。面白かった。時代背景を織り交ぜながら進んでいく構成も素晴らしい。うちの母親はこの本が好きで、何かにつけてアレはええ本じゃって褒めてたが、訳が分かった。主人公の桃子って子はブルジョアの末娘に産まれるが、末っ子が故に姉をうらやんで育つ。でもいざ自分が娘になるころには家は没落して惨めな思いをすることになる。

 まさに、戦後朝鮮半島から引き上げてきた母親、そのままなのだ。母親はきっとこの桃子に自分を重ね、同情しながら読んだのだろう。

 

 

11月23日(金)

 夕方、4時頃起きて階下に降りたら、「仕送り届いてますし」、と大家さん。7万円入っていた。さっそく下宿代と電気代を払う。残りは5万円弱。同封してあった手紙には、年末には帰ってこい、みんな楽しみに待ってる、とあった。世の中で本当に俺のことを思ってくれてるのは親しかいないんだな、としみじみ思った。

 金が手に入ると昨日までの被害妄想は嘘のように消え去った。大船に乗った気分。矢でも鉄砲でももってこいやって感じ。

 一人悦にいってたら、よぉっ、とか言って志村が入ってきた。いつものように、民青とか学大の話だったのだが、どうしてこうも違うのかなって思った。志村とそういう話しても楽しいばっかりなのだが、上級生の民青と話すとイライラする。

 赤旗取っても良いんだが、下宿に配達されると大家さんや下宿人にばれるしなあって言うと、じゃ匿名の配達ボックスでどうだ?って言う。金払ったら匿名の配達ボックスに配られるから、好きな時に取りに行けばいい。それならオッケーだって言うと、次までに詳しい事確認しとくからって志村は帰っていった。

 

 左翼って貧乏人の味方だよね。無産政党とか、労働者党とか、難しく言えば生産手段を持たない、「身体が資本」って人々の政治思想。それに対して右翼って金持ちの思想だと思うけど、実際に天皇万歳って言ってる連中って、意外と庶民だったりする。赤貧ではないけど、さほど裕福でもないのに天皇万歳って言ってる。いくら万歳って言ったところで奴らが助けてくれるとは思えないけどな。馬鹿なのかな?。

 で、うちは国鉄職員の父と引き揚げ者の母親。言うまでも無く貧乏人側だ。これから先、どうあがいても資本家にはなれそうもない。だから左翼思想に惹かれる。というよりは、政治思想としてはそれ以外無いやん、って思う。貧乏のくせに、赤はいかん、危険思想やって言うやつとか見ると、やっぱやつら馬鹿なのか?って思う。

 てなわけで俺は左翼思想以外は認めてない。でも左翼思想、左翼運動イコール共産党ではない。新左翼だって貧乏人の味方だ。自由主義とか言う奴らにだって社会的弱者の為に尽くそうって連中はいるはずだ。

 共産党、民青ってなんだかしっくりこないんだよな。あの偽善的な笑顔のせいか、親切ごかしに近づいてくるやり口のせいか、学内の「権力」とでも平気で手を結ぶ体質のせいか、よくわからないが、とにかくしっくりこない。なのになんで暴走族志村とは馬が合うんだろう。不思議だ。

 

 

11月27日(火)

 夕方、談話室で学大に参加する人の名前が書いてある立て看板見てたら島津さんの名前があった。おい、島津さんの名前があるぜ、って口に出してしまった。日本史一回生女子で参加するのは主流派の一部だけ。彼女と仲が良い鈴川さんも不参加だというのに、どうした風の吹き回しだ?。まあ、今回は学費値上げ問題が中心だから背に腹は代えられないって奴なのか?。

 ヨークで喋った時、歴研ってなんか雰囲気が悪いんだよな、って俺が言ったら、そうだと思った、あんなとこ辞めちゃいなさいよって笑ってた。そんな島津さんが、どうしてまた行く気になったのかなあ。

 

 で、下宿に帰って明日のプロゼミ発表の準備をしてたら、志村と小谷が来た。明日の学大に向けての決起集会がこれからあるんだ、お前も一緒に来てくれよ、という。そのためにわざわざ俺の下宿まで来てくれたのか?って驚いた。でも、あの暗く寒い夜道を、今帰ったばかりの学校にまた戻るなんてありえねえ、って思ったから、かんべんしてくれよって泣きついたら、じゃ明日の学大は頼むぜって言い残して帰って行った。

 

 

11月28日(水)

 学大に出る。文自の議案は早々に可決して4時過ぎには終わった。面倒臭せえなあと思いつつの参加だったが、来て良かったと思った。とくに女子寮の状況には胸が痛んだ。生活費月5万円を全部バイトで稼いでる、と言ってた。仕送り無しの女子学生が女子寮の3割いるのだそうだ。仕送り月7万円の俺はなんだか申し訳ない気持ちで一杯だった。国内で神奈川大学に次いで学費の安い立命館。俺だってそこに惹かれて入学を決めた。女子寮の彼女達にしたって同じだろう。なのに今更学費値上げなんて詐欺だ。大学辞めろって言ってるようなもんだ。

 大学当局は相対的低学費みたいな事を強調する。つまり、早稲田、慶応他主要私立大学の平均学費の7割ぐらいに留まるようにするから、値上げさせてくれって言う。でも、そういう相対的な問題じゃないのだ。絶対的な問題なのだ。学費上げたらもっとバイトしないと大学に通えない。でも大学に通うためのバイトなのに、バイト増やしたら大学に通う時間がなくなる。おかしい。絶対におかしい。認める訳にはいかない。

 

 最後、トロの連中が「韓国民主化闘争支援」の特決を出したが否決された。なんで韓国の民主化闘争支援しないのか、不思議だった。自治会サイドの奴が反対の意見をがなり立ててたが、かなり強引だったと感じた。中身よりはとにかくトロの意見は全部潰すみたいな雰囲気で嫌な感じだった。採決で保留が200余り出たのも、そういう事なんだろうと思う。

 

 日本史一回生クラスは学費値上げ反対のクラス決議を挙げたのに、学大参加は全部で10名。クラス決議挙げたのに、たっ10名だ。クラス討論の時、なんだかんだ演説してたヤツは欠席。あの時、えー?面倒臭せえわって無視決め込んでた俺は島津さんに釣られて出席。やれやれだ。

その島津さんは来てなかった。そりゃないよ。トホホ。

 

 

11月29日(木)

 概説Ⅲの講義が面白い。岩井教授は話が上手い。話術が巧みだ。著名な教授、優れた論文をたくさん発表してる学者でも、話を聞くとまるで退屈なんて人もいるが、通史を語らせたら岩井教授の右に出る者はおるまい。まさに名講義。名調子。

 

 今日は雨が上がって空気はカラッカラッに冷え込んだ。

 墨汁をぶちまけたような空からパラッパラの粉雪が舞い降りた。

 降り積もった路面を歩くとザラッザラって音がした。

 

 下宿に着くなり、鈴木茂の「ヘイ ウォマン」を聞いて、そのまま朝まで寝た。

 

 

12月6日(木)

 夕方から第1回の自主ゼミ学習会があった。

 メンバーは俺と久保、豊島、尾崎。そして岡山。岡山は顔が広いから、彼のつてで河内長野の田ノ上、そして大阪つながりで田ノ上の友人、東大阪鴻池の吉川。さらに吉川つながりで佐賀は唐津の川尻。あと岡山大河原と付き合ってる根尾女史も加入することになった。そしてサブゼミつながりで平田女史。全部で10人。言ってみれば俺らのグループと大河原グループが合体したって感じか。

 暴走族志村や世田谷小谷らの民青グループには声をかけなかった。島津さんも誘いたかったけど、拒否されると辛いからなあ。

 

 年齢や思想信条等々、すべて無関係で言いたい放題が学習会の唯一の規約。

 研究テーマは「部落差別問題」

 テキストは「被差別部落の歴史」(原田伴彦)。

 

 今日は古代史の賤民制あたりの箇所。俺は全くといっていいほど古代史は疎いから、みんなの討論を黙って聞いていた。聴くだけでも結構勉強になるもんだ。

 紙代は文学部からの補助でなんとかなるけど、会員分、テキストを増す刷りしないといけない。今回はテキストを選んでくれた平田がやってくれたが、次回からの当番というか分担を最後に決めた。

 

 今日買った本 

 北杜夫「どくとるマンボウ航海記」「幽霊」「夜ときりの隅で」

 学研・人と文学シリーズ「太宰治」

 

 

12月9日(日)

 ここんとこ眠い。学校から帰るとほぼ寝てる。一度寝たら、なかなか起きられない。それで欠席した講義多数。こんな事ではいかん、と思うのだが、眠いものは眠い。

 

 自主ゼミサークルで一緒になった奴らと最近、よく話すようになった。大阪から通ってきてる鶴光こと田ノ上(話してる雰囲気が鶴光そっくりなのだ)に吉川、そして佐賀出身の川尻。

 昨日もみんなで昼飯食いながら、この前の学大の話をしていたんだ。女子寮じゃ仕送り無しが3割って話だぜ、学費値上げなんか絶対駄目だよなって俺が言ったら、俺だって仕送り無しだぜって川尻が言い、こいつは絵に描いたような苦学生やねんで、と吉川が補足した。予備校の採点のバイトで稼いでるらしい。なんでも予備校のテスト採点は1枚1律50円。だからボンクラ学校の答案は奪い合いになる。有名進学校の答案は解答びっしり。時間ばっかりかかって稼ぎが少ない。その点、ボンクラ学校の答案は限りなく白紙に近いから採点が早いのだ。そんな裏事情も話してくれた。

 川尻って親父が国鉄、保線区の職員らしい。親近感を感じる。

 

 

 12月13日(木)

 昼過ぎ、「ええお天気どすなあ」という道行くおばさんの声が窓越しに聞こえて目が覚める。午後、概説Ⅲと英語の授業に出席。夕方は自主ゼミ。今日はみんな言いたい事言いまくってなんだか盛り上がった。

 今日は谷口頼子が来ていた。根尾女史が誘ったらしい。今度から正式に会員として加わるとの事だった。

 自主ゼミの後、みんなで学食に行ったのだが、その時、「二十歳の原点」の話になった。あれって日本史の学生、例外なく全員読んでるよね、って谷口が言うから、でも大学に来てから読んだって人もいたよ、って言うと、ああ、それ島津さんでしょって言うから、あの子、高野悦子が怖いって言ってた、って話したんだ。へえ、なんで?って聴くから、なんでも「旅にでよう」って詩の内容が怖いって言うんだ、なんでか俺には良くわかんないけど、って言ったら、なんだか納得したような感じで言った。

 

 へえ、あの子そんなこと言ったの?あの詩が怖いって?へえ、わかっ

 てるねえ

 

 え?わかってるって何が?って大河原が聞いたら、まあいろいろね、女は見かけによらずって事よ、って鼻で笑った。

 谷口頼子って初めて話したけど、なんだか話しやすい。前からなんとなく色気があって大人っぽい子だなって思ってたけど。話してみると大人ぽいと言うよりは、おばさんっぽいかな?。

 

 昨日の夜、実家から電話。大家さんにお歳暮として広島の牡蠣を送った。あんた宛てにも少し送ったから、友達と食べろって。牡蠣なんか食いたい奴いねえよだろってみんなに聞いてみたら大騒ぎになった。食べたい食べたいって。豊島なんか今まで1回も食った事ねえべ、そんなの、って?。

 子どもの頃住んでた広島、江波地区は牡蠣の養殖、加工が唯一の地場産業で、もう冬場は牡蠣一色。うちの母親も牡蠣打ち場にパートで行ってたから冬場は毎日牡蠣フライで、どこでもそうなんだと思い込んでた。

 じゃ牡蠣が届いたら牡蠣鍋パーティーでもやるかって事になった。場所は豊島の高級アパート。谷口のおばちゃんも行きたいって言うし、なんだか楽しみになってきた。

 

 

12月14日(金)

 ああ、私の未来はあなたと同じ

 ああ、あなたの未来は私と同じ

 

 今、岩崎宏美のテープを聴きながらコレを書いている。岩崎宏美、久しぶりだ。高校2年の頃、友達にレコード借りてよく聞いたよなあ。懐かしい。あいつ今どうしてるかなあ。

 

 牡蠣が届いた(らしい)。

 夕方下宿に帰ったら、大家の奥さんが半斗缶持って飛んできた。

 

 山下はん、こんなことされたら困るわあ、あんなええもん、ほんまに もろてもええの?もうどないしょ

 

 大家の大将も顔だしてきて、山下くん、すまんな、おおきに、親御さんにようお礼言うといてや、って。そんなに珍しいものなのか?って驚いた。

 

 

12月15日(土)

 みんな12月20日には帰省するらしい。じゃ、その前って事で18日の火曜日に豊島のアパートで牡蠣鍋パーティーをやることになった。

 で?牡蠣鍋なんてやったことないけど平気なの?って谷口のおばちゃんが言うから、馬鹿野郎、俺は広島は牡蠣養殖で有名な江波の生まれだぜ、牡蠣なんか食い飽きるほど喰ってきたんだ、なめんじゃねえぞって啖呵切ってやった。おお、ただのデブじゃないんだ、頼りになるわねって笑ってた。

 

 昼、トロの連中が学費値上げ反対の学内デモをやってた。この夏、バイトで平和記念式典の椅子並べをやったが、あの時、平和公園でデモってたセクトのシュプレヒコールとよく似てた。

 そしたら民青の連中が飛んできて、トロの高橋なんかと小競り合いになった。お互い顔と顔をくっつけるようにして大声で怒鳴り合ってた。文自の学大でも学費値上げ反対の議案を可決したし、民青だって反対だって言ってんだから一緒にデモしろよって思った。なんでこうなるのかねえ。

 

 

12月18日(火)

 夕方、牡蠣パーティー決行。

 みんなが喜んでくれたから悪くは無かったのだろうが、なんだか大変な事をしでかしたような気もする。

 

 とりあえず時系列で書いておこう。

 俺と豊島と久保は午後、買い出しに行って食材はオッケー。俺は牡蠣の半斗缶を持参。豊島が同じアパートの人から土鍋を借り受け、こっちも準備万端整ったところに、みんなが集まる。午後4時。

 根尾、平田、そして谷口は心配そうに見てくる。あんた達、ちゃんと調理できるの?なんて言うから、鍋なんて料理のうちに入らねえよ、って言ってやる。今日は俺が美味いのを作ってやっから、おしゃべりでもして待ってろよ、なんて余裕をかます。

 

 白菜、ネギ、豆腐、椎茸を適当な大きさに切って。

 下に昆布を1枚おいて、水を張り、火をつける。

 煮立ったら食材を入れる。

 

 俺が久保と豊島に次々指示を出す。炬燵では女史3人と川尻、田ノ上、吉川、大河原が雑談しながらこっちを見てる。

 白菜、ネギ、豆腐と煮えた鍋に食材を入れながら久保が聞く。

 

 牡蠣は洗った方が良いのか?

 

 ん?って思った。牡蠣鍋はしょっちゅう食べてたが、正直なところ実際自分が作るのは初めてだ。いつも用意された食材を鍋に放り込むのが俺の仕事だった。見れば半斗缶の牡蠣はいくつかのビニール袋に小分けにされている。

 

 ビニール袋から出してそのままでいいよ

 そのままでいいの?直接入れちゃう?

 そうそう、適当だよ適当、こういうもんはどうやったって美味いんだ

 

 久保は言われた通りビニール袋を開けて牡蠣を鍋に放り込む。

 やがて鍋が煮えたった。そうら、炬燵の上、片付けて、なんて言いながら俺が鍋を抱えて運ぶ。

 

 うわー美味しそう。ねね、これポン酢で食べるの?

 そーだな、ポン酢が良いね

 

 谷口がみんなによそう。みんなしっかり食べようねえ、なんて笑顔が弾ける。吉川が牡蠣をほうばって、おお、うめえ、なんて言うと、田ノ上も川尻も先を争うように食べ始め、ほんまや、こら美味いわ、なんてはしゃぎ出す。ほら、お前らも喰えよ、って女達を促すと、恐る恐る口に入れるが、次の瞬間

 

 ほんとやわ、めちゃ美味いやん、牡蠣ってこんな美味しいんやねえ

 

 なんて言う。どらどら、俺にも喰わせろってパクついて、あれ?って思った。なんか生臭くないか?たしかに牡蠣は美味いが、ちょっと泥臭い感じがする。湯気の元を良く見ると、鍋のつゆが茶色い。なんだ?俺が普段食べてた鍋って無色透明だったぜ?って思った。つゆを啜ってみてわかった。

 

 しもた、牡蠣はよう洗わな、こんなドブ臭いもん食えたもんやないわ

 

 しかし、もう遅い。みんなバクバク食ってる。今更、牡蠣洗ってないから、泥臭いやろ?喰わん方がええで、なんて言えない。なんか、つゆがどす黒いね、こんなもんなん?なんて平田が不審がり、どないしょ、ばれてもうた、って目をつぶったら、こういうの土手鍋って言うんとちゃう?なんて根尾がナイスカバー。さっすが根尾さん、よう知ってるなあ、って褒めちぎったら、まあね、ってでかいブイサインを作って笑った。

 そんなこんなで、初めて牡蠣を食べたというみんなは、ドブ臭い牡蠣をこれでもかってくらい食べ続け、久保に至っては、最後に、茶色のつゆを茶碗一杯飲み干して

 

 んーーーんめえ

 

 って喉を鳴らした。俺は一口喰っただけで、それ以上どう頑張っても食べられなかった。食べずにビールばっかり飲んでる俺を見て、山下くんも食べれば?なんて谷口が聞いてくれたが、あはは、俺は、あれだ、ほら、こんなの食べ慣れてるしな、お前らでどんどん喰ってくれよ、って誤魔化した。

 結局、牡蠣鍋パーティーは大成功。こんな美味いもんタダで喰わせてもらってラッキーだったわ、って喜んでくれた。来年は自主ゼミ、がんばろーねって士気も上がった。

 

 いやいや、大失敗だった。冷や汗もん。偉そうに言った手前、ごめんって言えなかった。みんな、おなか痛くならなければ良いのだが。ごめんな、許して。

 

 

            

 

 

 

 

1980年3月24日(月)

 下宿の部屋を変わった。年末に大家さんから打診されていたのだ。枝折さんの部屋(2階建てアパートの2階角部屋、階段を上がってすぐの部屋だ)が空くけどどうする?母屋の方は、隣の柴崎くんの部屋は夏に奴が出ていって以来空いたままだし、太田くんは京大の大学院生が入ってる別棟に移ることになってるし、もう3部屋とも無しにしようと思ってるんやけど、と。

 今の屋根裏部屋は気に入ってるが、大家さんちの2階ってのはいろいろ気を遣う。友達が来ても騒げないし、そもそも部屋の隣は大家さんの娘さんの部屋だ。女子高校生が隣の部屋にいるというのも、なんとも居心地が悪い。それは娘さんの方も同じだろう。

 てなわけで部屋を移る事にした。正月に帰省した時に親に相談してみたが、親も了解ってこと(多少家賃があがるのだ)でその旨大家さんに伝えてあったのだ。

 それが17日、枝折さんが21日に出て行くので、それ以後移動をしてくれと電話があった。それじゃってんでこの週末に単身京都に行き、1人でえっちらおっちら引っ越しをやった。

 バイトで日通に通ってる俺。バイトで引っ越し、プライベートでも引っ越し。なんだか夢に出そうだ。

 

 こんどの部屋は板張りの6畳。角部屋だからドアを開けて右側の壁と、奥に窓がある。ただ押し入れはない。部屋の奥にベッドが、入って左側の壁には本棚がすえてあるだけ。布団と炬燵、テレビ、ラジカセ、プレーヤー。そして押し入れに入れていた押し入れ箪笥。大きな物はそれくらい。屋根裏部屋には学習机が最初から据えてあったけど、全然使わなかったから置いてきた。だから1人でもなんとかなった。学校があるときならみんなが手伝ってくれて、あっという間だったろうが、1人だと結構時間がかかった。昼前に下宿について、終わった時はもう薄暗かった。王将に夕飯食いにいって、そのまま疲れて寝ちゃった。

 翌日は昼前に起きて、歩いて学校に行ってみたが、さすが春休み、新入生と思われる学生や同伴の親?みたいな人間がチラホラいるだけ。誰の下宿に行っても知り合いはおらず、生協の食堂で昼飯食って、衣笠からバスに乗って京都駅まで出た。

 ほんとに部屋を変わるだけの週末でした。