はるのうた 後編 その⑥ 

 

 夕方、ひさしぶりに小学校のグランドでトレーニングをして帰宅すると、仕事から帰って

いた父親と母親が茶の間で何か広げて二人で話し込んでおり、何かと尋ねると

 

 お前、広島と山口とどっちが受かりそうか

 

 と、脈絡もなく言う。こっちはそののぞき込んでいる書類が何かと聞いているのであって、

自分の就職の話なんか今したくないしと思って、さあねと適当な返事をし、のぞきこんでい

る書類を見ると、なにやら分譲地の広告のようだ。分譲地の広告とは思いもしなかったので、

何でそんなもの見ているのかと聞けば、土地を買うと言う。我が家にそんな金があったのか

と感動し、結構貯めとったんじゃねと母に向かって言うと、退職金で買うんよねと不機嫌そ

うな顔をする。で?山口と広島とどっちが受かりそうなんかとまた同じ事を聞くので、そん

なん関係ないだろうがと言うと、それが大ありで、この広告に出ている広島県の土地か、父

親の上司が紹介してくれた柳井という山口県の町の土地かどっちかにしようと思っている。

山口に就職するのに広島の土地じゃぐつが悪かろうがと言う。なるほど、そういう事かと父

親の質問の意図はわかったが、どっちが受かりそうかなんて聞かれても、わかるのは山口は

ほぼ可能性なしって事だけで、広島にしてもどうなるかはさっぱりわからない。できりゃあ

山口の方がええのはええんじゃがのおと父親が何度も繰り返すので、山口が可能性ゼロだな

んて言い出せず、

 

 まあ五分五分かのお

 

 と誤魔化しておいた。

 そもそもこの岩国という町は曖昧すぎる。広島と山口の県境にあり、地理的な意味でも岩

国って広島県だっけ、それとも山口県なんだっけなんて言われ、至極曖昧なのだが、文化的、

経済的な結びつきにおいても同様だ。岩国と隣県の大竹市には二つの市に跨る石油化学コン

ビナートがあり、経済的にはほぼ同じ町と言って良いくらい深く結びついているが、その一

方、長州征伐の時には川を挟んで長州軍と幕府軍が対峙し、地元民も巻き込んで戦った歴史

がある。あがあなバカタレらあと一緒にすなと町の古老は未だにその時の事を恨みがましく

語り伝えているらしいから、そんな事を勘案すればおおよそ同じ町となどとは言い辛い。

 そんなこんなで、萩出身の友人なんかは同県人のくせに、岩国っちゃあ長州から見りゃあ

広島みたいなもんじゃといい、広島の予備校の知り合いに、まあ岩国は広島みたいなもんっ

ちゃと言うと、ちゃっちゃちゃっちゃ言うお前のしゃべり方からして広島とは言えんわいや

とあしらわれる。

 米軍岩国基地に核兵器が持ち込まれているらしいというニュースが流れると、治外法権が

どうの、植民地岩国がどうのと学生仲間から揶揄され、山口県なのか広島県なのかだけでな

く、日本なのかアメリカなのかさえ判然としなくなった。住んでいる町が山口県ももっと西

の徳山や防府あたりなら迷わず山口県教員を目指すのだろうし、もともと住んでいた広島市

内に居続けてたのならば山口県など受験しなかったはずだと思う。 

 駅長は遠回しではあるが事あるごとに、官舎を出る話を持ち出すらしい。どうせ三年後に

は退職で、どっちみちその時は官舎を出ないといけないわけだから、そろそろそういうこと

も真剣に考えとかんとのお、と父親は広告を見ているのかいないのかわからないくらいの感

じで見ながら言った。

 

 はあ夕飯の準備をせにゃあいけんけえ、あんた一人で一時間ほど草取りんさいと母親がい

うもので、仕方なく一人で庭に出る。いつもより時間が下がっているからか、どうもヤブ蚊

が多いような気がする。首筋に違和感を感じて軍手をはめた手で叩くと軍手に血液の滲みが

出来たりするので、一度家に上がり、蚊取り線香をつけ、それを腰からぶら下げて庭にもど

る。

 同じ町に住んでいるのに、どうして磯部さんと会えないんだろと思いながら草を抜くと、

抜くという言葉で今朝の自慰行為の事を思い出した。朝はきわめて爽快に感じたイメージだ

ったのだが、改めて考えてみると、どうもありきたりに過ぎたような気がした。イメージの

中で安紀子とマルチェロはセックスするのがさも当然のようで、初めてセックスする相手に

対する怯えとか警戒とか、そこまでいかなくても遠慮とか恥じらいとかそういうものが足り

なさすぎる。あれじゃあもう十年つれそった好き者夫婦って感じではないか。それに、磯部

さんが山口に誘ってくれた事を自分は抱いて欲しいからそう言ったのだと決めつけているが、

そもそも磯部さんはその事に関しては何も言及していない。それは自分とて同じ事で、山口

の下宿で一晩中やりまくろうぜなんて肩を叩き合って笑いをかみ殺したりしたわけでもなく

、やってもええんじゃろと詰め寄って、コクンと頷かせたわけでもない。磯部さんは岩国で

は親の目があるから会いにくいし、だからこそ自由に会っていくらでも話せる山口に行きま

せんかと誘ってくれた。文字通りそれだけの事なのかもしれない。しかし、しかしだ、いく

らそうだからとはいえ、自分の下宿に泊まれということは、あの部屋にあった風呂に入れと

いうことだし、夜も深夜になればあの部屋で一緒に寝るということだし、「寝る」というか

らには、ただ「寝る」のではなく「寝る」のだと誰だって思うだろう。そんなつもりじゃな

かったのなんて言われても、一旦振り上げた性器(正しくは拳だが)はそう簡単には下ろせ

やしない。

 そうなると、恥じらいや遠慮以前に、壮絶な拒絶反応を伴った葛藤が予想され、そこをど

うクリアするのかがポイントとなる。イヤン、ヤメテェぐらいならいいが、ちょっとお、ど

ういう積もり?私は、そんな女じゃないのよ。馬鹿にしないでよなんて安っぽい科白で凄ま

れた日には、いきり立った股間のそれも萎えるというものだ。

 

 そりゃ女の子も触って欲しかったのっちゃ。

 

 いつだったか所が言った科白が蘇る。男がやりたいように女もやりたいのっちゃ。ちゅう

ても女だてらにやりたいっちゃあ言えんわけじゃし、その辺は男が察してやって、ちいと強

引なくらいでやっちゃありゃあええのっちゃ。

 

 強引にか。

 

 やはりそれしかないかと思った。強引に強引にとつぶやきながら土ごと強引に抜いた草を

集め、磯部さんは今日何をしていたのと空に向かって問いかけ、俺は一日中「寝て」ました

と自分で答え、へへっと笑い声を上げると、かき集めた草を庭に掘った穴に投げ込んだ。

 

 

 夜、伊藤の『大正期革新派の成立』の続きと『東条英機と天皇の時代』を読む。どちらも

卒論指導の中で岩井教授に薦められたものだが、どうも解せない。なぜ先生が伊藤隆を読め

と言われたのか。俺の卒論のテーマとはあまり関わりがないような気もするのだが。後者は

研究書というよりは通俗的な読み物で、読むには面白く、その意味では岩波新書の『近衛文

麿』に似ていた。人物のイメージ化には有益かもしれないが、まあそれだけの事だ。

 

 マルチェロの先に立って下宿のドアの奥へと入っていく安紀子の手をマルチェロは握ると、

 ぐいと自分の方へ引き寄せ、後ろ手にドアをしめながら襲いかかるように安紀子の体を抱

 きしめた。そして激しく唇を奪うと、安紀子のスカートをたくし上げ両手で尻の肉を揉み

 しだいた。ああ、だめ、だめぇと安紀子はマルチェロの手の中であえぐが、マルチェロは

 揉みしだいていた指を尻の割れ目にはわせ、股間へと忍ばせる。股間をすべらせると指先

 に湿り気を感じ、その事を口にだして含み笑いをすると、いや、ダメ、そんなつもりじゃ

 なかったのとか細い声でつぶやく。構わず安紀子の口を自分の口で塞ぐと、パンティーを

 腿まで引きずり下ろし、湿った秘部に指を差し入れ、中をかき回した。あっと背中をのけ

 ぞらせて反応した安紀子の胸に顔を埋め、余った片手でブラウスのボタンを引きちぎるよ

 うにして開かせると、ブラを上にずらし上げて堅くなった乳首を吸った。切なげなあえぎ

 声をあげる安紀子の右手をもってマルチェロの股間に導くと、ついさっき、そんなつもり

 ではなかったと言った安紀子は、夢中になって股間をまさぐり、銜えろと命令すると、小

 さく頷いた。

 

 昨日に続いて早朝自慰行為に耽った。淫夢の続きに昨日の草抜きの反省を混ぜ合わせた妄

想で演出を試みた。マルチェロならお手の物だろうが、はたして自分にこんなことができる

のかどうか疑問だったが、スクリーンの中のマルチェロは文字通り強引そのもので、こんな

失礼な態度許されるわけない、これはなんぼなんでもあかんやろとつぶやきながらも、こん

な感じで女性に接する事ができたら、どんなに爽快だろうと思った。ジェットコースターで

急斜面を一気に下り降りるくらいの絶頂感で、大量の精子を放出した。

 

 結局、昼前まで寝る。盆を過ぎたというのに真昼の蒸し暑さは、盆前に増して一層ひどく

なるような気がし、起きるといつも以上にひどい寝汗をかいていた。蒸し暑いからと朝まで

は切っていた扇風機を昼までかけて寝たのだが、そのせいなのか風の当たる上半身がだるく

て仕方なかった。

 六畳の部屋に置かれたコタツ机、その隣りに扇風機、窓のない西の壁際に置かれた品のい

 い木製の本棚、東側の押入の襖に貼られた印象派のポスター。

 起きた時、磯部さんの部屋にいるような気がした。

 

 午後、泉が来た。九月一日から中学校で教育実習が始まるという。経験者の話をきいとこ

う思うてのおと泉は言う。おれは高校だったからあんまり参考にならんのんじゃないかと前

置きしながらも、実習日誌の事だとか、二週目にあるはずの研究授業の事、その研究授業に

むけて作る指導案の書き方なんかの事を大まかに話したのだが、泉は逐一そねえか、そねえ

かと頷きながらメモを取り、その様子がまるで指導教官の話を拝聴する実習生って感じで、

おかしくなって、大学の友人達から聞いた話を聞かせてやった。

 

 指導教官によっちゃあのお、担当授業全部やらせて、自分は年休とるような奴もおるらし

 いで。生徒は言うこと聞かんし、喧嘩は始めるし、止めに入ったら入ったでこっちに凄ん

 でくるし、はあもうてんやわんやっちゃ。他の先生も他の先生で、無責任なのは担当教官

 のはずなのに、君も被害者やもんなと同情してくるどころか、君なあちゃんとやってくれ

 なあかんでとこっちのせいにしてくるし、もう踏んだり蹴ったり。実習が始まったら、ま

 ず指導案なんか作っとる暇はないと思うとったほうがええ。もし指導する単元がわかっと

 んなら、今から大まかにでも作っといた方がええんじゃないか。

 

 とすこし大袈裟に言ってみると、話を聞き終わった泉は、そねえかあ……としばらく眉間

に皺を寄せて天井を見ていたが、突然立ち上がると、こうしちゃおられん、今から帰って指

導案作るわと慌てた様子で部屋を出た。

 帰りがけに、そういやあ所と最近会ったかと泉が聞くので、いいや、十日頃会った切りで、

連絡もつかんがと答えると、やっぱりそうかと口をへの字にまげる。どうしたんだと聞くと、

あいつやばいっちゃと言い、やばいってどういうこと?と言うと、九州まで行ったり来たり

しちょるらしいでと、確認はしてないけどなと言う感じで答えた。なんで九州なんかと言う

と、これこれ、これっちゃと泉は右手の小指を立てて見せる。そういえば、姉の義父が亡く

なった話しをした時、九州という言葉に食いつき、あのミカという子も九州は博多の出身な

んだと言っていた事を思い出した。よりを戻したくて九州の実家まで会いにいっているとい

うことなんだろうかと一人で考えたが、泉に確かめようとするまえに泉はじゃあなと玄関を

出ていった。

 

 夕方またしても草抜きを指示され、扶養家族の切なさよと嘆きながらも、一人蚊取り線香

を腰からぶら下げて庭に出る。今日はイチジクと柳の木の植えてある庭の奥の方を取る。黙

々と作業をしているといつのまにか早朝自慰行為の事を考えてしまう。というよりは、ひが

なその事ばかりを考え、その合間合間に泉と会ってみたり、母親と話したりしていると言う

方が正しく、磯部さんと山口行きの事を電話で話した日以来、その事が頭から離れようとし

ない。そもそも、自慰行為にしても帰省して以後、まったくしないわけではなかったが、下

宿とは違い、親の目もあるからと控え目できたから、二日連続は帰省して以来だった。しか

も連日寝る前にも軽くしごいてから寝ているので、朝晩と一日二回を二日連続だから、二日

連続とはいえ実質四回連続であり、自慰行為憶えたての中学生の頃に戻ったような勢いだった。

 今朝の強引なパターンはたしかに快感だったし、あんな傲慢な態度がとれれば、拒絶反応

も葛藤もなんのそのだと思ったが、嫌がる様子の磯部さんに強制猥褻紛いの行為をし、ほら

銜えろと性器を目の前に突き出すのかなどと夢想すれば、またぞろ股間がむずがゆくなって

くる。

 尿意なら家に戻って便所ですればいいものを、久しぶりに立ち小便がしてみたいなどと思

いイチジクの木の方へ歩いていく。見れば操車場の線路には貨車が入っていて山陽本線のホ

ームからこっちは全く見えない。俺はズボンのチャックを下ろし性器を剥き出しにすると、

ことのほか大きくなっているそれを握り、軽く二三度しごいてみた。すると思いがけず爽快

で、そこで立ったまま自慰行為を始めそうな勢いだったのだが、そろそろ御飯ができるけえ、

終わりにしんさいと言う母親の声がしてハッと我に返り、とっさに、おお、今立ち小便しよ

るけえ、もう終わるわと言い返し、草を抜いたばかりのイチジクの木の根本に勢いよく放尿

した。

 

 薄暗い部屋。布団に安紀子が仰向けに寝ている。どうやら全裸のようだ。見ればその両足

 は大きく開かれ、しかも膝の裏は両手で抱え込まれ、あたかも性器を晒すかのような姿勢

 だ。その開かれた両足に挟まれるように膝立ちしている男の影が見える。当然自らの性器

 を安紀子の濡れた亀裂に挿入すると思いきや、いつまでもうつむき股間を凝視し、両手で

 性器をいじくるばかり。挿入直前に自慰行為も無かろうが、やたらと息が荒い。むろん興

 奮しているからでもあろうが、どこか焦っているような雰囲気も伝わってくる。男の影は

 急にその場に立ち上がると蛍光灯の紐を引っ張った。ちょっとぉ何電気つけてんのよ。す、

 すまん、うまくつけられないんだ。謝った男はいつものマルチェロではない。この男、コ

 ンドームがつけられないようだ。ねえまだなの?安紀子が、苛ついた声を上げる。男は装

 着作業に必死で答える事もしない。

 見ている自分は同情する。自分だって無理だ。生まれてこのかたコンドームなんて装着し

 たことなどない。確か先っちょの部分にぴょんと飛び出しているのがあって、そこへ精子

 が溜まるようになっているから、装着する際にはその飛び出しを指でつまんで空気抜きを

 しておかないといけないとかなんとか、セックス慣れした友人に聞いた事があるが、それ

 以外はこれと言った注意事項は聞いた事がないから、靴下を履くように簡単に装着できる

 ものと思っていた。男はまごまごしている間にすっかりモノがしぼんでしまったらしく、

 ひとしきりモノをしごいては装着作業に、またしごいてはと忙しい。うう、悲惨だ。こう

 いうふうにやればできるさと高をくくっていたものが、そういうふうにやっても全然そう

 いうふうにならなければ、誰だって焦るってもんだ。見ちゃいられない。

 もう、どうなってんのと呆れた声を出した安紀子が作業に加わりなんとか装着終了すると、

 安紀子のほうが立って蛍光灯の紐を引っ張った。

 それまで明るかった部屋が急に暗くなって、シルエットさえ定かでない。

 ほら、はやく。

 うん、わかってる。

   暗闇のバックに字幕だけが流れる。

 ちょっとぉ。

 あ、ごめん。

 ちがうって。痛い。そこじゃない。

 うん、わかってる。

 だからぁ、そこじゃないって。

 うん、わかってる。

 うんわかってるわかってるって全然わかってないじゃない。

 うん、ごめん。

 そう、そこそこ、そこよ。ああ、いい、いいわ、がんばって。

 あ、ああ、あああああああああ。

 え?ええ?

 あああああああああ。

 え?何なに?まさか。

 ご、ごめん。

 ごめんって何?

 だから、その、うん、ごめん。

 うそぉ。もう出しちゃったのぉ?。

 嫌な夢だった。

 

 二度寝をしたつもりが、やけに早く目が覚める。目を開けた瞬間、今日は電話の日だと思っ

た。何時にどこで待ち合わせ、何時の汽車に乗るかなど、明日の山口行きの具体的な相談をし

ようと約束をしたのだが、電話をしてほしいと言われたのは、夜七時で、目を覚ました時点で

いえば、まだ十二時間近くもある。今からそんなこと考えたところで、何がどうなるわけでも

なかろうと思うのだが、気持ちが落ち着かない。朝食後、明日に備えての簡単な荷造りや、卒

論のための文献整理などで過ごすが、電話の事が頭から離れない。

 昼飯を食べた後、夕方まで昼寝をして過ごそうと茶の間の畳に転がったのだが、頭は冴えわ

たり一向に眠くならないので、何度も寝返りばかりを打ち、もぞもぞする。やっぱ、薬局に走

りコンドームを仕入れ、装着の練習をしておくべきだろうか否かもぞもぞしながら悩んでいる

と、母親が、昼間っからそんなところに大の男が転がっていたのでは邪魔になってしようがな

い、する事がないのなら庭の草抜きでもしてくれとしつこく言ってくる。これまでなら、わか

ったわかったと渋々庭に出るところだが、さすがに今日はそんな気分になれず、トレーニング

してくるわと家を出た。

 

 午後の小学校には誰もおらず、そうかプールは終わったのかと思ったが、よく見るとプール

サイドに張られていたテントは片付けられており、いつもなら金網フェンスに立てかけられて

干してあるビート板なんかもすっかり無くなっている。確か自分達の時も小学校のプール開放

はお盆までであり、お盆を過ぎると開放自体が終わっていたことを思い出した。もうプールは

終わったのか、と同じ科白だけど、最初の時とは全然違う意味で同じ科白をもう一度繰り返し

た。もう午前中に来ても、誰もいないんだなと思った。

 誰もいない小学校の校庭を三周、四周と走り、いつも通りリフティングだのドリブルだのと

ボールを使ったメニューをこなし、最後にグランドを斜めに走るちょっと長目のダッシュを5本

やった。

 

 家に帰ると手紙が来ていた。

 封筒の差し出し人を見ると磯部さんだった。夜に電話するというその日に着くようにわざわざ

封書で手紙を送る必要があるのか不審に思い、部屋に入って開ければいいものを、玄関先にたっ

たまま、封を切るのももどかしく便箋を引っこ抜くと、勢い余って三枚の便箋が玄関先に散らば

った。舌打ちをしながら三枚の便箋を拾い集めたが、そのうちの一枚を拾い上げた時、ふいに

「ごめんなさい」という文字が飛び込んで来てドキっとし、それが何枚目なのかも不明だったが、

それから読み始めた。

 約束を破ってごめんなさいと書いてあった。約束って何の約束だ。この前の日曜日のデートを

キャンセルした件ならいいが、まさか明日の山口行きの件じゃないだろうなと焦った。はたして

どの約束なんだよと、必死で読み進めるが、実家に帰るとどうしても親の目が気になって、勝手

気ままに行動できない。あれこれつける限りの嘘をつき、ごまかせる限りの誤魔化しをして先輩

に会ってきたけれど、なんだかそういう事がひどく辛く感じられてしまったのだと言うような事

がくどくど続くばかりで、一体どの約束を破ったのかが書かれていないので、もう一枚の便箋を

見ると、一次合格、二次試験と採用試験はまだ続きますが、先輩ならきっと難関を突破して、素

敵な先生になれると信じていますみたいな当たり障りのない終末の文章があり、敬具で締めくく

られているので、ええいこれじゃないと、残った一枚を見ると、

 

 山口行きはやめます

 

 とあった。血の気が引いていくのがわかった。強引に先輩を山口に誘ってしまって、その後随

分後悔したこと。本当は最初に下宿に招いた時、そうなるといいなと思っていたのに、結局そう

ならなかったことで、要するに先輩にとって自分が女ではなく、ただの後輩にすぎなかったのだ

とわかった。なのに、いつまでも未練がましくつきまとって迷惑をかけました。でも、その気が

ないのに可愛い後輩だからという感じで、誘われるのは正直辛かった。この手紙が着く頃には、

恐らく自分は岩国にも山口にもいない。一人でどこか旅に行くつもりです。とあった。

 

 なんだか無性に草抜きがしたくなって、サッカーパンツにTシャツのまま、庭に出た。太陽が

脳天を容赦なく照りつけ、さすがに意識が朦朧とした。一昨日の朝方の夢、昨日の朝方の妄想、

そして今朝のを順番に思い出して、少し自嘲気味に笑った。汗が額から土の上に落ち、まるで

小便をしたような水溜まりができた。

 誰かが自分を呼んだ気がして振り向くと所が立っていた。幻覚だと思った。誰かに話しを聞

いてほしいなと思ったから、こんな幻覚が見えるんだと思った。きっとそうなんだと思った。

地獄に仏の例えじゃあるまいし、そんなに都合良く親友が姿を見せる事なんてないよな、など

とぶつぶついっていると、幻覚が、もう一度俺の名前を呼ぶ。しつこい幻覚だなと思って汗を

拭きふき立ち上がり、見ると、おおと言って幻覚が手を挙げた。

 この際だ、幻覚でも幽霊でもいいや、すべてをぶちまけようと思った。筆下ろしの話がすべ

てでっち上げであること、童貞のままであること、磯部さんとの出会いと別れ、すべて。そう

すれば幻覚も消える事だろうぜと思った。

 

 ほんまはのお、わし、やったことねえのっちゃ。

 

 そう潔く切り出そうとすると、幻覚の野郎、

 

 実はお別れにきたんちゃ

 

 と先に口を開きやがる。お別れ?なんじゃそれ。と問いただすと、幻覚の奴、言いにくい事

を聞かれた時に、必ず見せる、戸惑うような、どう返そうかと考え込むような顔をしてみせた。

幻覚のくせに仕草といい、顔の表情といい、本人さながらだななどと感じたが、それならそれ

で、お得意の「ちょっと」で誤魔化す積もりなんじゃろと、次の一言を待っていると、驚いた

事に、幻覚の吐いた言葉は「ちょっと」ではなかった。

 

 わし、大学やめるっちゃ。

 

 やめる?なんで急にと問いただそうとしたのだが、気がせいて、や、や、やと、どもるばか

りで言いよどんでいると、

 

 わし、ミカと結婚する

 

 と幻覚は言う。

 

 あいつも大学はやめる言うし、わしは九州で働くんじゃ。ミカの実家の近くに

就職口を見つけてきた。二人で暮らすんじゃ。親にそのことを言うたら、えらい剣幕で怒鳴られ

てのお。そりゃまあ、怒鳴るのが普通っちゃのお。わしも親不孝者じゃとは思うが、自分が幸せ

になるのにあなたが必要じゃっちゅうてミカが言うちょるのに知らん顔はできん。こればっかり

はどうしようもないのっちゃ。実は今から九州へ行くところなんじゃ。しばらくは会えんかもし

れんが、落ち着いたら、また連絡するわ。遊びにこいや。ミカもお前に会いたい言うちょったけ

え。

 

 幻覚の野郎、饒舌だった。これからの生活の見通しとか、子どもは何人欲しいとか、男だっ

たらどういう名前をつけ、女だったらどんな名前にしなんてどうでもいい事まで、あれこれ喋り

続け、最後には、人を愛するちゅうことは素晴らしい。わしゃぁミカの為なら、死ねるなんて、

少し前に流行った劇画の決まり文句を臆面もなく口にした。

 

 しゃべりすぎやボケ、そういう時は「ちょっと」でええんじゃ「ちょっと」で。このどアホが。

 

 そう関西弁で暴言を吐いた。

 そこまでは憶えているのだが、なんだかあわてふためいた様子の母親の声で気が付くと自分は、

いつも抜いた草を放り込んでいた穴の中に頭から突っ込んでおり、気を失っていた。顔面の左側

がひどく痛んだ。えらい帰ってこんけえどうしたんかねと思って庭に出てみたら、あんたが抜い

た草を胸に抱えて穴の前に膝立ちになっとったけえ、そろそろやめんさいよと声をかけたら、急

に頭から穴に突っ込んだんよと説明した。所はどこへ行ったのかと聞いたが、へえ、所くん来ち

ょったん?と逆に聞かれる。え?来ちょったろうがねと言うが、さあ私は見ちょらんかったけえ、

わからんかったけど、そういやあ車の音がしたようにも思うたが、どうじゃろうかと要領を得ない。

 

 

 

 翌日、庭で工事が始まった。何でもかつて官舎の廃屋が建っていた辺りに保線区の建物が建つ

のだそうだ。午前中四、五人の作業員が測量をし、縄張りをしてまわったが、午後には縄の内側

にあった柳とイチジクの木をバッサリと切り倒した。

 午後の伐採の作業を庭に出て母親と一緒に見守ったのだが、母親はここに越して来た時の荒れ

果てた庭の様子だとか、そこを整地して右と左とに分け、右が野菜、左が草花とし、庭の一番奥

にあのイチジクを植えた事など、今まで何度も聞かされてきた話をもう一度、始めから言って聞

かせた。せっかく実がなるようになったのに。イチジクの実はそのまま食べてもおいしいけど、

食べきらなければジャムにも出来る。こんなに実のつく木はなかなかないのに。いつまでも無念

そうにぼやき続けた。

 それにしてもなんでまた急に作業始めるんかのお、一言あってもえかろうにと批判がましく言

うと、何言うちょるん、この前話したでしょうがと呆れる。母親の言うこの前がいつだったのか、

母親の口振りから想像すると、恐らく山口行きを前に毎日自慰行為の事ばかりを考えていた頃の

事らしく、ああ、きっと耳に入らなかったんだろうなと思った。

 夕食の時、母親と父親が官舎を出るなら、いつがいいだろうかと真剣に話していた。