ラジオのせいで是枝さんと気まずくなった。

 パネルディスカッションのやりとりを聞いた後の放送だったせいで、クラスのみんなは坊太郎の好きな人ってのが、是枝さんだと思いこんでおり、是枝さん自身もそれを意識してか以前みたいに話しかけてくれなくなった。それがラジオを意識しての事だと思ったのは、放課後の教室で二人だけになった時に、坊太郎の好きなのは津田さんだとばかり思ってた、って是枝さんが言ったからだ。

 どうやら加奈子は誰にも坊太郎の告白をばらしていないようだった。もし、坊太郎から告白されちゃった、なんて言いふらしていたら、誰が聞いたってあのラジオが加奈子向けだったとわかるし、結果、坊太郎が加奈子に冷たくあしらわれた事もみんなの知るところとなる。

 ラジオを聴いた時は、もう学校にいけねえわ、って青ざめた坊太郎だったが、自分の純粋な恋心が誰にも知られる事なく闇に葬られた上に、是枝さんとの事にすり替えられ、挙げ句、是枝さんとも疎遠になってしまって、ひどく複雑な気分だった。

 

 

 そんな十一月も中旬のある朝、酷く冷え込んで霜が降りた坂道を、白い息を吐いてあがったら、教室後ろの掲示板のところに人だかりが出来ていた。二学期早々に実施された件の校内模試の結果が張り出されていたのだ。名前は伏せられているものの、合計得点だけでなくご丁寧に各教科の得点まで書かれているから、数学零点の馬鹿を捜せば坊太郎が全体の最底辺に沈んでいる事がばれてしまう。思わず天を仰いだ坊太郎だったが、恐る恐る覗いてみると、なんと驚いた事に数学零点の生徒は坊太郎だけじゃなかった。それどころか、軽く十人はいる。坊太郎は正直にというか、馬鹿丸出しで自白してしまったけど、それさえできずにコッソリ答案を鞄にしまった生徒がこんなにたくさんいると思うと不憫だった。こいつらって一体だれなんだろうと気になったが、百番以内の成績上位者に加奈子と是枝さんの名前を見つけて、それどころじゃなくなった。完全に打ちのめされた。坊太郎が独り相撲を取っている間に、彼女たちは自分の目標に向かって着実に力をつけているのだ。彼女たちへの敬意と嫉妬、羨望と自己嫌悪と恋愛感情がこんがらがって思考停止に陥った。

 一時間目の生物はさぼることにした。生物の授業は二学期から入試問題集をみんなで解いていくという変てこな授業に変わっていた。国立をあきらめ私立文系に切り替えてしまった生徒には無用の長物だ。一番ベランダ側にある自分の席にかじりついていたら大橋が声をかけてきた。

 

 もうチャイムが鳴るぜ。

 あっそう。

 あっそうって?。

 俺いかねえ。

 さぼるのかよ。

 そういうこと。

 エスケープか?。

 エスケープか中華スープか知らないけど行かねえ。

 

 日本史の入試問題集を大橋に見せたら、まあそれは俺もそうだからわかるけど、エスケープはまずいぞ、と大橋と一緒にいた森田が言った。トイレから教科書を取りに帰った様子の女子が、異変に気付いて遠巻きに様子を見ていた。

 

 ねえねえ行かないの?もうチャイム鳴るよ。

 坊太郎、エスケープするんだってよ。

 え?それはまずいよ、呼び出されるよ親も。

 そうだよ、やめとけよ、そういう幼稚な事。

 

 声をかけてきたのは中原さんと谷口さん。大橋や森田とはわりと仲が良いらしいが、同じクラスなのに坊太郎はほとんど口をきいた事がなかった。

 俺にかまわずに行けよ、と坊太郎が言うと、まあ実は俺も生物はもう受験科目にないからなあ、と森田が言い、あれ?森田くんも?実は私も国立は受けない事にしたんだ、と谷口さんが会話に入ってきて、ああいう授業って受験科目にある人は良いけど、ない人にはね、と坊太郎の隣りの椅子に腰をかける。おいおい、お前もさぼるのか?と大橋が半笑いで言うと、ちょうどチャイムが鳴ったが、大橋は、あーあ、チャイムが鳴っちゃった、と言いつつ谷口さんが座った席の前の席に腰を下ろした。じゃあ俺もと森田が続く。

 中原さんは信じられないような顔でその様子を見ていたが、ねえ谷口、あんた本気なの?私行くよ、と谷口の方を見ながら教室後ろの出入り口まで行ったが、片手をひらひらさせて笑ってる谷口を見ると、ちょっとぉ本気で本気なの?さすがにこれはまずいって、と戻ってくる。谷口さんが黙っているので、坊太郎が、そうだよ、中原さんは全然関係ないんだから、こんなとこに居ちゃ駄目だよって言った。そう言えば、私、行くわ、って行っちゃう子だと思っていたのに、中原さんは、関係ないとか言わないでよ、とつぶやくと坊太郎達から少し離れた自分の席に座った。

 はじめの十分ほどは誰も口をきかなかった。みんな黙って問題集みたいなのを開いて見ていた。窓際の坊太郎の席には太陽の光が良く当たった。冷え込んだ早朝の寒さでかじかんでいた身体と心がゆるんでいくのがわかった。腕組みをして目をつぶっていると眠ってしまいそうだった。俺みたいな最低最悪のクズなんか死んだ方がましだよな、って自己嫌悪が雪みたいに溶けだして、まあボンクラでも死ぬわけじゃないし、なんとかなるさ、って気分になった。

 

 想えばこの中原さんは坊太郎と同じ小学校で、六年生の時はたしか隣りのクラスだった。おかっぱ頭ばかりの中、頭髪をオールバックに上げて項のところでポニーテールにまとめていたから、随分大人っぽい子だなあと思ってたのを覚えている。

 中学に進む時、地元製紙会社に勤める親の転勤で東京に転校したって聞いたはずなのに、高校三年のクラスに居たから驚いた。高校一年の時に再度転勤で帰ってきて編入試験を受けたのだと人から聞いた。ボンクラの坊太郎なんかと違って良家のお嬢さんって感じで、教師や親に叱られた経験はないのだろうと思われた。

 

 そういえば数学零点って坊太郎だけじゃなかったんだな?

 

 唐突に大橋が言い出した。そうだよ、みんなでよってたかって笑い者にしやがって、あんまりだよ、と坊太郎が返すと、わざわざ坊太郎の教室まで来て、零点とるようなやつは何をやっても駄目なんだ、とせせら笑った森が、じつは五点だったらしいと森田が暴露し、うわ、それは酷いねえ、とみんなで盛り上がった。

 その後は、受験にまつわるよもやまな話。たとえば、医者をやってる親戚を引き合いにだしてきてプレッシャーかけるから苛つく(中原)とか、東京大阪に出たいと言ったら、地元で充分だと反対された(谷口)とか、朝方の勉強に変えようと九時頃寝たら朝まで寝てしまった(いわずと知れた坊太郎)とか、夜食は何食べてる?俺、カップヌードルより、きんちゃんヌードルの方が好きなんだけど(森田)え?俺はただのヌードの方が良い(大橋)、とかを話して過ごした。もう口もきけないくらい打ちのめされた坊太郎だったが、そんな下らない話で笑っていると、まあがんばってみるかって気になった。中原さんは、がんばって会話に加わっていたけど、やっぱり生物の授業が気になるようで、時折思い出したように立ち上がって窓越しに理科棟の様子を伺ったりしていた。

 

 

 その日のうちに生物担当から担任に話がいって、放課後呼び出しだなと覚悟していたのに何のお咎めもなかった。そのかわり、エスケープ翌日の昼休みに図書室で一人うたた寝していたら、

 

 坊太郎、なんであんなふうに人を巻き込むの?

 

 って是枝さんに起こされた。いや、別に俺は、って言い訳しようとしたら、誘ってないって言いたいんだろうけど、あんたがああいう事しなきゃ、他の子もあんな事してないんだよ、って言うので、ごめん、俺が悪かったよ、って謝ったら、馬鹿ね、私に謝ってどうすんの?って肩をこづかれた。中原さんには丁寧に謝らないと駄目だよ、って念を押すから、わかってるわかってる、あいつは優等生だもんな、って頷いたら、ちょい待ち、あんた、なんで真面目なあの子があんな事したかわかんないの?って言うから、そこそこ、なんでなんだろ?何か知ってる?って坊太郎が返すと、是枝さんは呆れたような顔をして図書室から出ていった。

 

 

 帰りのHRで三学期の特編授業についての話があった。英数国語は成績別クラス編成、理科社会は選択教科別のクラス編成になるという。簡単に言えば、朝八組でHRをやると、そのあとの授業は各自バラバラで、教科ごとに別教室に移動して授業を受けるらしい。

 へえ、まるで映画で見たアメリカの高校みたいじゃん、って喜ぶ奴もいたけど、坊太郎は嫌だなあと思った。英数国語の授業を成績下位者クラスで受けるのも嫌だったが、友情より進学、思い出作りよりも大学優先って方針がむかついた。なんだかんだ言っても自分のクラスには愛着がある。三学期って言ったって実質一ヶ月くらいしか学校に来る事ないのに、最後の最後、貴重な一ヶ月でクラスをバラバラにするかなあと思った。

 教室から出ようとしたら、是枝さんが来て、中原さんが図書室で待ってるから謝りに行けって耳打ちするので、昼休みの事を思い出した。

 図書室はガランとしていて、奥の方に二三人勉強してる風の三年生がいたくらいだった。中原さんは窓際の席に珍しく一人で座っていた。いつも一緒にいる谷口さんはいなかった。坊太郎が近寄って、中原さん、この前はごめんな、って声をかけたら、席を立った中原さんは黙ってうんって頷いたけど、中原さんまで巻き込む積もりはなかったんだよ、と坊太郎が続けると、ほんとは是枝さんに怒られて来たんでしょ?って中原さんがつぶやいた。え?って聞き返したら、なんだか、是枝さんがお母さんで、お母さんに叱られた子どもが謝りに来たって感じだね、って中原さんはクスクス笑った。聞き取れなかった振りをして、でもお咎めなしでホッとしたよって坊太郎が続けたら、ほんとは坊太郎に感謝しているのだと中原さんは言い出した。

 

 あんな大それた事、これまでの人生で一回もしたことなかったから、心臓が止まりそうなくらいドキドキ

 したけど、私としてはもう大冒険って感じでなんだか楽しかった、山下くんのお陰ね。

 

 謝りに来て、感謝されるとは思わなかったから、それをそのまんま口にしたら、是枝さんとは友情だよね?ってまた別の事を聞かれた。どういう事?って聞き返したら、みんなは山下くんと是枝さんが両想いみたいに言ってるけど、是枝さんとは友情って感じがする、津田さんでしょ?津田さんだよね。山下くんが異性として意識してるのは七組の津田さんだよね、あのラジオ放送のインタビューも、津田さんに向けて喋ってたんでしょ?なんて言い出すので絶句した。返事ができずに黙っていたら、あれってすっごくよくわかった、別にいつも一緒にいなくたっていいんだよね、たった一言でいいのよ、たった一言大好きだよって言ってくれたらさあ、受験勉強だってなんだってがんばれるよね、そういう人がいるんだって思うだけで勇気がでるっていうか、と言って中原さんは坊太郎から視線を逸らすと窓の外を見た。

 その横顔を盗み見て、あれ?中原さんって「私の彼は左きき」を歌ってたなんとかっていう歌手に似てるなあ、と坊太郎は思った。

 

 

 その二日後の事だ。写真部の宇田がなんだか妙な紙を見せてきた。八組の美女ベスト6のブロマイド購入申し込み書だと言う。ベスト10でもベスト5でもないところが気になったけど、どうやら写真部の活動と称して活写した写真で一儲けしようという魂胆らしかった。剣道部の試合中、面を取った直後の是枝さんの表情は良く撮れてると思った。真剣勝負の余韻がまだ残ってる一方で少しホッとしている感じ。凛々しさと女性らしさが絶妙な案配で映り込んでいて、これは良い写真だなと思った。ベスト6のうちの第6位ってのはちょっと不満だったが購入することにした。一位は演劇部の小柄な女優志望の子、二位は山口百恵似のマンドリン部の子だったが、三位に中原さんが入っていて驚いた。おい、お前自分の好みで順位を決めてんだろ、と宇野に聞くと、中原さんは、三段カットの髪型が朝丘めぐみにそっくりだと評判で、このクラスにも告白して振られた男子が複数いるんだぜ、と宇田は声を潜めた。

 

 

 十二月に入ってすぐのLHRで学期末の合唱コンクールについて提案があった。この学校の合唱コンクールはクラスマッチや体育祭以上の価値があり、三年生にとって、合唱コンクール優勝は目指すべきステータスだった。全学年オープン参加だが、一、二年生は学年で予選会が行われ、三年生十二クラスと予選会を勝ち抜いた一、二年生クラスが期末試験終了後の木曜日に一堂に会して舞台発表となる。

 クラスマッチ優勝の勢いで合唱も優勝しようぜと文化委員から提案があって、盛り上がったのだが指揮者で揉めた。八組には三名の合唱部員と、東京芸大のピアノ科を目指すピアニストまでおり、彼らに任せておけば優勝も固いと思われたが、指揮者がいないと言う。そんなの合唱部員でやれば?って思ったが、パート練習の指導についていたら、とてもじゃないが手が回らないという。

 

 それならカラヤンが良いんじゃねえの?

 

 と誰かが推薦するので、おお、それがいいと坊太郎も思った。

 このカラヤンって男は本当は内村という名前で、ぬぼーっと背が高く目立つ割に無口で、かなりの変わり者だったが、指揮者には適任だと思われた。なにせ、自費で購入したらしい高名な交響曲のフルスコアを持っている。それを学校に持参して、休み時間のたびに机上に広げ、頭髪を振り乱して指揮を始めるのだ。はじめは、おいカラヤン、と呼んでみたりするやつも居たが、自分の世界に閉じ籠もって指揮を続けるばかりで、まったく反応しないので、いつのまにか誰も構わなくなってしまった。

 じゃあ、カラヤン内村くんにお願いすることでいいですか?と文化委員が問いかけると、クラス全員、大爆笑で、カラヤンカラヤンと拍手が起こったが、腕組みをし目を閉じて無言で聞いていた内村は、いきなり席を立つや教壇に駆け上り、

 

 おまえらの遊びにつきあってる暇はない、

 

 と図太い声で叫んだ。自分は心から音楽を愛しており、音楽は自分の命そのものである。その音楽で優劣を競うとは何事か。音楽は心で愛で慈しむものであって、スポーツのように勝ち負けを争う道具ではない。なにが合唱コンクールだ、なにがグランプリだ、下劣極まりない。覇権を争って歌うことさえ汚らわしいのに、指揮者などできるものか、と喚き散らし、教室中を睥睨するように見渡した。

 じゃあ、誰が指揮やるんだよ、と不機嫌になった文化委員が内村に問いただすと、そんな事知るか、お前らの大好きなクジでも引いて決めるか、お調子者の坊太郎にでもやらせるんだな、とせせら笑うからギョッとした。おい、お前言い過ぎだろ、と怒り出すやつもいれば、そうじゃ坊太郎、あんたがええわ、と無責任に同調する女子等々、教室は大騒動になったが、はじめは何がなんだかわからなかった坊太郎も、だんだん腹が立ってきた。自分のどこがお調子者なのだ。たしかにふざけた言動は多いが、内村に迷惑かけた覚えはないぞ。あんな野郎にお調子者と揶揄される筋合いはない。

 

 こんなエゴイストに頭下げて頼むくらいなら、坊太郎の方が断然ましだぜ、

 

 と誰かが言うと、そうだそうだと一気に坊太郎指揮者案に空気は傾いた。指揮者などやった事もないし、よりによって高校最後、思い出の合唱コンクールで指揮者はないだろう、この流れは最悪だぞ、と青ざめたが、あんな奴に名指しされて、俺、できねえよなんて尻込みするのも癪だった。じゃあ坊太郎そういう事でいいか?と文化委員に振られた坊太郎が、怒りにまかせて、

 

 おう上等じゃねえか、指揮ぐらいいつでもやってやるよ、バカヤロウ、

 

 ってカラヤンを睨み付け啖呵を切ったら、さっすがセクシーだとか、ハナジだとかで、またしても大騒ぎになった。

 そのまま教室に残っていたら内村に殴りかかりそうだったので、チャイムが鳴るや否や教室を飛び出したら、渡り廊下のところまで是枝さんが追いかけてきた。ちょっとぉ、なにカリカリしてんの、落ち着きなさいよ、なんて言うから、俺は全然苛ついてないよ、れーせーそのもの、って返したら、予想外の大声で自分でもびっくりした。冷静ならそんな大声出さないでしょうに、なんて呆れる是枝さんに、だってあの言い草はないだろ?なんで俺がお調子者なんだよ、ふざけんなよ、って訴えたら、ほうらやっぱり怒ってんじゃん、って笑うから、俺が何をしたって言うんだよ、あいつに迷惑かけた事あったか?とぼやいたら、たしかにあれは言い過ぎだよね、数学が零点取るくらい苦手だし生物の授業をさぼったりするけど、お調子者ではないよね、なんて言ってくれるので、なんだよそれ、慰めてんのかけなしてんのかわかんないよ、と舌打ちしたら、それはそうと坊太郎、あんた指揮者なんかできるの?あんな勢いで引き受けちゃって大丈夫なの?なんて心配そうな顔をするから、

 

 俺には河合育夫がいるから心配ねえよ、

 

 って余裕の笑顔を作ってみせた。

 河合育夫は合唱部員。二年の時、同じクラスだった友人だ。合唱部の活動にも熱心だが、物事の見方や捉え方が独特で面白い男だ。あいつならなんでも気安く教えてくれるはずだ。それに、合唱の指揮者なんて、三拍子だか四拍子だかで、決まり切った腕の動きを繰り返してりゃいいんだろ?って高を括っていたから、それをそのまま河合にぶつけてみたら、せっかく引き受けてくれたのにこんな事を言うのもアレだが、と断った上で河合は怒鳴った。

 

 合唱舐めちょんか、わりゃ。

 

 坊太郎が言うのは小学生の指揮者であって、うちの合唱コンクールレベルで優勝を目指すなら、それ相応の知識と技術が必要だ。とくに、今回自由曲に予定している曲は、無音の間が多いし、リズムも複雑で、合唱部でもかなり練習が必要なんだから、指揮者がそんないい加減な気持ちじゃ合唱にならない、と恐い顔をした。

 河合が自由曲のテープを貸してくれた。なんでも一昨年、合唱部が県のコンクールで銀賞を取った、その時の録音らしかった。とりあえず、そのテープに合わせてタクトを振ってみろと言うから、帰宅してラジカセに合わせてやってみたら、冒頭数十秒で血の気が引いた。なんじゃこりゃ?。これは音楽じゃない。

 

 すまん、俺やめるわ。

 

 翌日、河合にテープを投げて返したら本気で怒られた。今更そういう訳にいくか。激怒した河合は坊太郎にヘッドロックをかける。河合の気持ちはわかるけど、あれは無理だ、どうやったって無理だ、とヘッドロックをふりほどいてその場を立ち去ろうとしたら、カラヤンに笑われてもいいのか?と言われた。

 

 あのエゴイスト、それみた事かとせせら笑うぞ、あのお調子者に合唱の指揮ができるかよって言われるぞ、

 それでいいのか?

 

 と言われてムッとした。泣かず飛ばずの部活に成績はビリ。最愛の幼なじみに冷たくあしらわれた腹いせに授業エスケープ、そのうえ大見得切って引き受けた指揮を初っぱなから放り出したらもうクズ中のクズだ。それはわかる、それはわかるが、どう考えてもハードルが高すぎる。という内容の事を失恋関係のところだけは端折って語り、勘弁してくれと懇願したけど、河合は全然聞いてなくて、とにかく、無音の間があって拍子がややこしいのは冒頭と最後の部分だけだが、そこはテープをそのまんまコピーすればなんとかなる。テープを繰り返し聴いて、間というか拍子の揺らぎをそのまんま真似するんだ、いいな、と命令してどこかに消えた。

 

 

 二学期期末試験の時間割が発表になった日の放課後、河合に指揮の特訓を受けて、いつもより少し遅めに下校した。

 いつも一緒に帰る連中は先に帰っていて一人で汽車に乗ったら、同じ車両に中原さんが後から乗ってきた。中原さんは坊太郎に気付かない様子でずっと単語帳をめくっていた。岩国の駅で先に汽車を降り、東口へ続く陸橋を渡ったのだが、東口の改札まで来て唐突に駅員に呼び止められた。定期を見せろと言う。ついぼんやりしていたようだ。求められるままに定期を出そうと探ったがいつも入れている胸ポケットに定期が無い。右のポケットに生徒手帳らしきものを見つけて、え?いつの間にこんなところに?と思ったが、開いた手帳に河合の名前を発見して、あっと思った。間違えて河合の制服を着て帰ったようだ。坊太郎の背丈、体格は河合とほぼ同じ。特訓の時に熱が入って二人とも上着を脱いでいたのを取り違えたのだ。仕方なしに川西駅からの運賃を払おうとしたが、当然ながら制服のポケットに入れていた小銭入れもない。困った、一文無しだ。と思ったら、どうしたの?って通りがかった中原さんが聞くので、定期も小銭もなくってと説明したら、じゃこれで、と中原さんが駅員に小銭を渡した。え?なんで?って言うと、いいからいいからと言う。じゃ制服を取り違えたいきさつを説明しなきゃ、と生徒手帳を開いたら、そこに女の子の写真が挟んであって驚いた。なにこれ、って中原さんがのぞき込むから、坊太郎も一緒に見たら、それが中原さんの写真で、さらに驚いた。スラリと背の高い中原さんが、校舎の廊下でポツンと一人窓の外を見上げている。その三段カットの横顔が印象的な写真。宇田が売っていた超望遠隠し撮りだとすぐにわかった。中原さんはぐっと顔を写真に近づけて目を見開き、え?って声を漏らしたが、坊太郎の顔を見上げるとすぐに視線を逸らして、私、帰るね、とだけ言って小走りに東口を出ていった。彼女に告白して振られたのって河合の事だったのか、と坊太郎は思ったが、その一方で、中原さん、絶対勘違いしたよな、とも思った。

 

 

 翌日の朝一番、おまえ、人の制服着て帰るんじゃねえよ、と不機嫌丸出しの河合が、坊太郎の着てきた制服をはぎ取って行くので、まわりにいた奴らに、改札で定期が無くて呼び止められて大変だったんだよ、といきさつを話した。今、中原さんが居れば写真の誤解も解けるのになって思ったけど、その日中原さんは学校を休んだ。

 

 その日、帰りに中原さんの家に寄ってみた。借りていた運賃を返さなくちゃと思っていたのだ。明日学校で返しても良いのだけど、なんとなくみんなの前では返しにくいような気もしたし、それに昨日は元気そうだったのに、急に休んだ事も気になっていた。中原さんは地元にある大手製紙会社の社宅に住んでるはずだった。昼休み、同じ社宅に住むサッカー部の後輩を呼び止めて、さりげなく聞いてみたら、ああ、中原先輩なら俺んとこの隣りっすよ、と教えてくれた。

 玄関から出てきた中原さんは、最初こそ、え?なんで?なんで?って「なんで」を連発してたけど、元気だったのはそこだけで、あとはひどくしょんぼりしていて元気がなかった。風邪ひいたの?って聞いたら、うん、まあって頷くから、手短にお礼を言って運賃を手渡した。じゃあねって帰ろうとしたら、さっき谷口さんから聞いたんだ、と中原さんは坊太郎を呼び止めた。欠席を心配した谷口さんから電話があったから、昨日の写真の件を話しちゃった、お喋りだよね私って、と自嘲気味に笑う。山下くんが自分の写真持っててくれた事が嬉しくて、どんな顔で山下くんに会えばいいのか考えてたら、恥ずかしいのと嬉しいので舞い上がっちゃって、それで学校休んじゃったんだ。で、おおはしゃぎでその事を喋ったら、あんたそれって誤解だよ、制服取り違えてただけみたいだよ、って谷口さんに言われて、もう天国から地獄。パニックになっちゃった、って舌を出して苦笑いしたが、ね?私って馬鹿みたいでしょ?って言うや否や、堰が切れたように、おいおい声を上げて子どものように泣き出した。

 ちょうどその時、中原さんちの隣りに住む後輩が帰ってきた。門扉を開けて入る時に、隣家の玄関先に立つ坊太郎に気が付いたようで、笑顔を見せ大きな声で挨拶したが、坊太郎が中原さんと話しており、その相手の中原さんがしゃくり上げているのに気が付くと、いけないものを見てしまったように笑顔を消し、慌てて家に引っ込んでしまった。

 人目もはばからず幼女のように泣きじゃくる中原さんを見ていたら、なんだか、坊太郎も泣けてきた。なんで俺まで泣いてんだ?と自問してみても答えは見つからなかったが、次から次へと涙があふれて止まらなかった。なんで山下くんまで泣くの?って泣き笑いしながら中原さんが聞くから、そんなのわかんないよって坊太郎が答えたら、その声が地震みたいに揺れていて恥ずかしかった。

 

 ねえ、たしか、中原さんって、小学校の時、紺色の、ワンピースに、ポニーテールで、学校来てたよね?、

 なんだか、すごく大人っぽく、見えてさあ、こんなふうに、泣いちゃう人だとは、思わなかったよ、

 

 ってしゃくり上げながら坊太郎が言ったら、泣きやんでた中原さんが、また泣き出した。

 

 

 

 テスト週間は全校的に合唱コンクールに向けての取り組み期間になった。

 放課後一時間まではクラスで練習しても良いのだ。ピアノがあるのは第一第二の音楽室と体育館だけだったから、毎日ピアノ伴奏で練習するのは不可能だった。坊太郎たちの八組もずっと伴奏を録音したテープで練習していたのだが、テスト週間三日目にやっと体育館で練習ができた。冒頭部分、ピアノとの間合いが悪く何度か駄目出しをされたが、練習時間の最後には一曲通してタクトを振り切れた。

 結構サマになってきたよな?って河合に行ったら、そういうとこがお調子者だってんだよ、全然サマになんかなってねえよ、って舌打ちされた。自信なさげな感じが伝わってきて、歌いながらみんなが不安になってるのがわからないのか?と容赦ない。とにかく胸を張って、指揮者である自分がみんなを歌の世界に連れていくんだ、くらいの気概を持ってタクトを振ってくれなきゃグランプリなんて到底無理。お前にかかってんだぞ坊太郎。しっかりしろよ、とまたしてもヘッドロックをくらった。

 

 

 合唱部員が選んだ自由曲「川」の歌詞は難解で哲学的だったが不思議に惹かれるものがあった。なぜ、さかのぼらないか?と歌詞は問うのである。なぜ、低いほうへ、と。水はさかのぼらない。低きに流れる。そんなの当たりまえじゃねえか、と最初は思ったが、なんだかこのフレーズが耳について離れない。ふと気が付いたら、歌っている。

 水は空にあこがれ、切り立つ峰にあこがれながら、それでも低い方へ流れていってしまう。もともとはあの空にいたのにね。最初に降り注いだのはあの切り立つ峰だったのにね。がんばってもがんばっても、もと居たところにはさかのぼれない。低い方へ低い方へと流れ、離れていってしまうんだけど、それは堕落なんかじゃない。流れる水はやがて海にでて、南方の太陽に照らされて気体へと昇華し、雲となり雨となり、もと居た高みに戻っていくのだ。

 そうさ、低きに流れ落ちていくのは堕落なんかじゃない。いつかあの大空に飛び立つために、あのそそり立つ峰に降り立つために必要な営みなのだ。

 

 

 

 コンクール一週間前。期末テストを終えた土曜日。体育館でのリハーサルがありみんなでゾロゾロ体育館に移動した。ステージには本番同様、雛壇が設置されていた。雛壇に上がると、みんなの顔がよく見えるし、一人一人の感情まで表情を通して伝わってくる。顔面に突き刺さる視線が痛いくらいに感じた。河合に言われたとおり、意識して胸を張った。とにかく自分が振るタクトのまま音が出るのだ。自分は歌わないけどタクトが、自分のもつタクトが八組の歌を創るのだ、と自分に言い聞かせて奥歯を噛みしめた。

 ものすごく緊張したけど、これまでなかったくらい集中もできた。冒頭の入り、ピアノの和音一打撃を指示したところまでは覚えているのだが、そのあとは夢中で意識はなく、気が付いたら終わっていた。この前は坊太郎のタクトとみんなの心が微妙にずれて、終わりまでがやけに長く感じたのだが、今回は鞭を振るう騎手と駿馬が一体になって、一気に馬場を駆け抜けた感じだった。まあ、いいんじゃない?と河合はそれだけしか言わなかったけど、駄目出しはなかったから、やっぱり悪くなかったんだと思った。自信満々な感じに乗せられちゃった、すごく気持ちよく歌えたよ、と中原さんは耳打ちしてくれた。

 帰りのHR、今日の歌ならグランプリ間違いなしだぜ、と文化委員が総括すると、みんなも同感だって感じで笑顔で頷いてくれた。ただ、例のカラヤン内村は練習の時も、最初から最後まで目をつぶったままで、仏像のように突っ立っており、宣言どおり一度も口を開かなかった。

 HRが終わって中原さんに声をかけようとしたら、隣りの席の是枝さんに呼び止められた。最近やけに仲良しなんだね、と言われ、すぐに中原さんの事だとわかった。ひょんな事からお互い高中正義ってギタリストのファンだってわかって、その話で盛り上がってるんだよ、と説明したのに、是枝さんは全然聞いてなくて、あの子の家の前で泣いてる彼女を抱きしめてたんだって?なんて無表情で言うから腰を抜かしそうになった。誰がそんなデマ飛ばしてんだよ、ってムッとしたら、あんたの後輩が全部ばらしてるってよ?と言い残して是枝さんは帰って行った。

 

 

 

 コンクールでのグランプリを確信した翌週の事だった。休憩時間、坊太郎がトイレに行くと珍しく混雑しており、それならと一階の一年生男子トイレまで降り、用を済ませたのだが、トイレから出ると、三年の悪友五、六人が廊下で坊太郎を待っていて、ひと目みて「ヤクザごっこ」だとわかった。

 二年生の頃、仲間うちで流行った遊びだった。他学年のトイレのところに行って、不良グループが真面目な一般生徒を締め上げる。とはいっても、それははじめから不良グループ役と一般生徒役を決めての芝居だったのだが、そんな事情を知らない他学年生徒(主として下級生)が真に受け、怯える様子を見て喜ぶのだ。坊太郎は絡まれる一般生徒役が多かったが、卒業まで幾ばくもないこの期に及んで、こんな幼稚な事につきあってられるかと坊太郎は思った。こっちゃ合唱の指揮で頭がいっぱいなのだ。坊太郎は素知らぬ顔で奴らのそばを通りすぎたが、へいへいへい、そこのお兄さん、挨拶もなしかよ、と上岡が坊太郎を呼び止め、よせばいいのに反応してしまった。

 

  あ、ども。

  何だいその、あ、どもってのは。挨拶になってないよお兄さん。

  ああ、じゃあ、ちわっす。

 

 他の生徒も近づいてきて、坊太郎を取り囲む。じゃあって何よ、じゃあって、こいつ舐めてますぜ兄貴。上岡は親分格の哲夫を仰ぎ見る。勘弁してくださいよ。旦那。こちとら合唱コンクールの指揮者なんかやらされて参ってんすから。兄貴と呼ばれた哲夫が坊太郎の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

 

  んなこと知ったことか。舐めた真似してたらぶっ殺すぞ、こらあ。

  ゆ、許して下さい、ど、どうかご勘弁を。

 

 廊下を通る一年生どもはその怒声と哀願する怯えきった声に異変を察知した様子で、遠巻きにして事の成り行きを見守っている。哲夫の背後で、上岡が何かを手渡し他の生徒にも配っているのが見えた。こらこのガキ、この学校はなあ、この俺様がしきってんだ。あんまり舐めた真似してるとよお、ほらこの冷たいやつで、ブスっと行くぜブスっとなあ、と哲夫は、その渡された物の先を坊太郎の頬にぴたりぴたりと何度も当てては離し当てては離しを繰り返している。おい、彫刻刀じゃねえか。危ないって、どっから持ってきたんだよ、と坊太郎が哲夫にだけ聞こえるようにささやいたが、何だと、彫刻刀だ?てめえ俺様のドスを彫刻刀呼ばわりしやがったな、ざけたこと抜かすんじゃねえ、なんて芝居がかった声を出すから、面倒くさくなった坊太郎が、もうええっちゃ、はいはいお遊びはここまで、といつものように芝居の終わりを告げたのに、それでも、べらぼうめ、やっちまえ、なんか叫んで、時代劇の殺陣よろしく手にした彫刻刀で斬りつけてくる。舌打ちしながら斬りつけてくる彫刻刀を身体をよじってはよけ、よじってはよけ、を繰り返し、おい、危ねえだろがっ、と言おうとしたら、思わずバランスを崩して立っていた哲夫に背中からぶつかった。と思いきや、ぶつかった背中に、真っ赤に熱せられた焼き鏝を押しつけられたかのような激痛が。

 気が付いたら坊太郎は廊下の床に転倒していて、激痛の余りのたうち回る始末。制服に

手を入れ背中を押さえるが痛みは増すばかり。

 

 へへへ、なかなか真に迫った演技じゃねえか。

 

 上岡か誰かの声がしたかと思ったら、腰の辺りに足蹴が入り、せせら笑う声がした。これ以上の芝居は中止だと、中腰になって両手を身体の前に広げて見せたら、広げた坊太郎の右腕は掌から上腕あたりまで鮮血に染まっていた。

 

 

 

 学校近くの病院に担ぎ込まれ七針縫合。なんとか午後からの授業には遅れずに戻った坊太郎だったが、すでに噂は広まっていて、放課後、坊太郎は生徒指導室に呼び出された。部屋に入ると石頭で有名な生徒指導担当の上川って中年男性教員が腕組みして待っていた。

 

  被害者の君からも事情は聞いておかないといけないんでね。

  被害者って、そんな大袈裟な。

  あの子達とは知り合いなのか?。

  はい、知り合いも何も、友達ですから、ええ、ですから、そもそもあれはお芝居なんですよ。

  ほぉ、お芝居ねえ。

  ええ、まあ、ほんの悪ふざけっていうか。

  ふうん、悪ふざけねえ。

 

 上川は机の上に開いた手帳に、お芝居、悪ふざけとメモしている。時々あんなことして騒いでみせたら、お芝居だと知らずに驚く生徒もいて、そういうのを見て楽しんでいたっていうか、と坊太郎が苦笑いをして見せたら、手帳から視線を上げた上川が睨んで言った。

 

     かばうことはないんだよ

 

 一瞬上川の言う意味がわからなかったのだが、そういう事だとわかって、慌てて否定してみせた。そもそもあいつらみんな二年の時同じクラスだったやつで、上岡も哲夫も部活が一緒だし、もともと中学からの同級生なんですよ。

 

  脅されてるのか?

 

 この上川って教師、石頭だけじゃなくて頑固者でも有名だった。この件についても、周囲で見ていた一年生から聞き取った事を信じて疑わない様子。正直まずいと思った。いや、だから違いますって。しかしねえ君、目撃者はたくさんいるんだよ。上川はさっきメモしていた手帳をめくると、それを読み上げるようにして言った。君がトイレから出て、彼らのそばを通り抜けようとしたら、挨拶がないっていちゃもんつけられた。そうだろ?。はあ、まあそうですが。君は嫌々挨拶を返したが、彼らはそれだけで許そうとはせずに、胸ぐらを掴んで恫喝した、と。違うのか?。いやまあ、それはそうなんですが。挙げ句の果てに、手にした刃物で君を斬りつけた。君は、こんなつまらないこともうやめようと説得したが、彼らは一切聞く耳もたず、君を取り囲んで、次々と君に斬りかかり、そのうちの一人が背中から君を刺した、と。彼らの一人は、君が刺されて苦痛の声を上げながら廊下をのたうちまわっているというのに、そんなことおかまいなしに苦しんでいる君を足蹴にしたと言うじゃないか。悪質だな。みんな見てるんだ、わかってるんだ、本当の事を言っていいんだよ、学校が君を守ってやるから、仕返しなんて絶対に許さない。   

 結局小一時間かかってやっと上川は坊太郎の言うことを理解し納得してくれた。ただ、そうした事情は事情としてあるとしても、今回の事件は不問に付すわけにはいかないと、処分については譲る気はないようだった。

 

 

 自宅に帰った坊太郎が炬燵で寝ていると、中原さんから電話があった。大丈夫なの?と心配そうな声を出すから、ぜんぜん大した事ないからって笑い飛ばしておいた。受話器を置いた、とほぼ同じタイミングで官舎の玄関がガラガラと開いた。あの上川がなんと校長を連れて玄関先に立っている。

 坊太郎の慌てた声を聞いて顔を出した母親は、坊太郎から大まかに事の成り行きを聞いていたものの、まさかこれほどの大事とは思っておらず、差し出された名刺にある校長という肩書きを見て、すっかり恐縮してしまった。校長が型どおりの謝罪の口上をうやうやしく述べる間も、謝られている母親の方が土下座しそうな勢いで頭を下げ続け可笑しいやら背中の痛いやらで複雑な気分だったが、ふと見ると上川の後ろに哲夫とその父らしい姿が見えたのにはドキっとした。おちゃらけた顔しか見たことのない哲夫は別人のような神妙な顔つきだったが、上川に促され玄関に入るやいなや号泣した。

 

 

 

 是枝さんとは冷戦状態に陥った。クラスのみんなが、背中大丈夫なのか?と気遣ってくれてる時も、ほんとバッカじゃないの?子どもみたいな事ばっかりして、と冷たい言葉を投げかけすぐそばを通り過ぎたりしたし、黄粉パンを買ってきてあげても、いらね、って投げ返された。無論、河合も同様で、指揮の最終チェックをしてくれよって頼んでも、お前なあ、いつまでも俺に依存すんじゃねえよ、と拒否された。中原さんもそういう雰囲気を察したのか、それとも谷口さんに何か言われたのか、自分から話しかけてくる事はなくなった。一応、合唱コンクールが終わったら、中原さんの家にレコード(高中がかつて所属したバンドのレコードを持っているという)を聴きにいくことにはなっているのだが、それもこれもコンクール次第だと思った。

 生き甲斐だった部活も取り上げられ、最愛の加奈子にはすげなくされ、成績は最悪、おまけにちょっとしたおふざけが哲夫を巻き込んで大事件になってしまい、自分も痛い目にあった。良好と思われていた友人関係も、誠実に接してきた気持ちとは裏腹にギクシャクしてきている。なんだかやることなすこと全部上手くいかない最悪の高校生活。ぜんぶが悪い方へ悪い方へと流れ出していく。

 でも、それもこれも「川」と一緒なんだと坊太郎は考えるようにした。低い方へ下る事は決して堕落じゃないし、不幸でもない。低きに流れ海まで流されるが、流された先で気体に昇華し、そして大空に戻っていく川と同じように、坊太郎に起きているあれもこれも全部、いつか訪れるであろう「輝く、その日」のためのものなのだ。

 凛々しい是枝さんには憧れるし、高中好きの中原さんとはもっともっと話したいと思うけど、加奈子への思いとは少し違う。卒業しても、大人になっても、ずっと笑顔で会える友達でいたいだけなのだ。それがわかれば河合だってわかってくれるはず。

 とりあえずは今度の合唱コンクールだ。クラスのみんなと身も心も一つになってタクトを振れば、あれもこれも良い方にむかう。そうに決まってる、と拳を握った。

 

 

 

 「ヤクザごっこ事件」から二日後、合唱コンクールは本番を迎えた。

 冒頭部分。ここが自由曲の肝である。振り上げた腕を中空で止め、静止したままその姿勢を保ち、目配せ、しかるのちに勢いよくタクトを振り下ろすという動作が続く。何度も練習を繰り返し人馬一体にまで息を高めてきた自慢のその動作だが、その動作に暗雲が立ちこめてきた。二日経っているというのに腕を動かすたびにピリリと背中に電気が走るのである。安静にしておれば痛みもないが、手を動かすと痛む。とりわけ静止の状態からの急な動きはダメージが大きい。しかし、そんな事情は誰も知らない。事件翌日ならともかく、もう二日も経った訳で、痛み止め飲んでるらしいから問題ないんじゃない?、ぐらいにしか思っていない。痛みはかえって酷くなっているくらいなのに、みんなは、本番に間に合って良かったな、なんて笑い飛ばす。みんなが動揺してはいけないと思い、笑顔で同意しているものの内心は穏やかではなかった。とはいえ、今更指揮者を代われる人間はいないし、指揮のやり方を変えるわけにもいかない。

 ピアノ、声、タクトが一心同体となって、聴衆をのけぞらせるくらの魂のうねりを呼び起こす。その高みを目指すのに、ピアノのタイミング、歌の入り、中間部分のリズムのキープ、冒頭、終末部分の絶妙な間など、技術的なミスがあってはならない。どんな小さなミスさえ許されない。とにかくどんなに痛かろうが、痒かろうが、万難を排してタクトを振り切らねばならないのだ。

 

 いざステージに上がり一礼を終えてみんなの顔を見る。緊張したみんなの視線が突き刺さる。よしやるぞ、と目に力を込めてみんなを見たら、無音の気合いが痛いくらいに返ってきた。

 いざ。勢いよく右腕を上げたら、途端背中に高圧電流が走った。予想以上の衝撃にアウッと顔が歪みそうになったが、顔に出しては駄目だと歯を食いしばり勢いよくタクトを振り下ろすが、なぜさかのぼらないか、と腕を上げ下げするたびに電気が走り、さらに表情が歪みかける。脂汗が浮いてくる。鼻の穴をふくらませ、奥歯を噛みしめ堪えるが、その顔が怒っているような、それでいて笑っているような泣いているようなおかしな表情に見えるのか、真剣そのものだったみんなにかすかな動揺が起こる。最初は、坊太郎、本番で何ふざけてんだよ、という腹立たしい感じだったそれは、やがて訝るような感じに代わり、やがて背中の痛みのせいだと察知したのか、傷を気遣うような、哀憐の情を帯びるようになった。人の不幸、人の窮地は甘い蜜を舐めるくらいの快楽と言われるが、耐えて毅然としなければならない合唱コンクール本番の、しかも上演中のステージの上という、究極の場面だからこそか、かえってそれは誇張され増幅されみんなの心をかき乱す。

 もともとはあの空にいたのだ。最初に降り注いだのはあの切り立つ峰だったのだ。なのに、がんばってもがんばっても、もと居たところにはさかのぼれない。低い方へ低い方へと俺は落ちていく。でも、俺よ、それは決して堕落なんかじゃない。流れる俺はやがて海にでて、気体へと昇華し、もと居た高みに戻っていく。そうさ、低きに流れ落ちるのは堕落なんかじゃない。いつかあの大空に飛び立つために、あのそそり立つ峰に降り立つために必要な営みなのだ。

 みなが歌う川の営みに自らの思いを重ねてタクトを振る。ここで失敗は許されない。がんばれ俺、と叫ぶのに、緩んでバラバラになりかけた空気はなかなか元に戻らない。こんなことじゃグランプリが駄目になってしまう、と焦ったが、拍子が固定されている中間部に入ると背中が大人しくなった。ずっと手を動かしていれば電流は流れないようだ。俺の表情にも精気がよみがえった。よし、これならいけるぞ、と勇気が出た。バラバラになりかけた空気がギュッと締まる感じが伝わってくる。みんなの身体も、みんなの心も、タクトと共に躍動する。重厚な和音が川の流れのようにうねる。急流を下り、岩に逆巻き、滝壺に飛び込んだ水はやがて穏やかな緑の平原に出る。豊かな大地を踏みしめて歩くように滔々と流れる水。これだ、これこそ、俺達の音だ。タクトを握る右手に力が入る。いいぞ、みんな。これなら大丈夫だ。そうさ、こんな事でグランプリを逃す訳にはいかないのだ。

 平野を流れた水が大海原にたどり着き、音が消えた。同じリズムで動いていた坊太郎の腕も振り上げたまま静止した。突然の静寂がステージに舞い降りる。

 終末部では冒頭と同じ自問自答を繰り返す。何故、遡らないか?何故、低い方へ?と。長い道のりを振り返り、大海で気体へと昇華し空に上っていくこれからを思い自答自問するのだ。終わりまであと少し。もうグランプリは決まったようなものだ。そう思ったのがいけなかったのか、静止状態から再度右手を動かそうとした時、まるで稲妻のような高圧電流が背中を直撃。静寂を破るように、アウッと大きな呻き声が無音のステージ上に響き、先が見えたみんなの脇の下をくすぐった。野球部の黒木が吹き出すと一気に空気が緩んだ。

声は出ているものの、紐のほどけかけたスパイクで走っているようなもどかしさがある。和音に緊張感がない。リズムにメリハリがない。遅れる声がある。しっかりしろよ、最後の最後じゃないか。集中だよ、集中しろって、と怒りの視線に力を込めようとすると、またいきなりの稲妻でウグッと声が出て、一人また一人と堪えきれずに下を向く。

 もう駄目だ、と坊太郎は思った。全部、自分のせいだ。自分のせいでせっかくの合唱が台無しだ。あきれたような加奈子の顔が浮かぶ。また悪ふざけして、と怒っている是枝さんの顔も浮かぶ。もうお前とは友達でもなんでもないからな、という河合育夫の声が聞こえる。いいか坊太郎、今の成績じゃ日本中、否、世界中探したってお前の入れる大学はないんだぞ、という井村頼信の声もする。

 もう駄目だ、と思うと泣けてきた。いつかの中原さんみたいに涙があふれてきて、みんなの顔がぼやけるが、坊太郎の泣き顔が笑っているように見えるのか、一人また一人と歌いながらも笑いをかみ殺している様子が伝わってくる。中原さんも俯いて必死で笑いをかみ殺している。

 体育館のフロアにいる聴衆も初めは事情が掴めず戸惑った様子だったが、ああ、あの指揮者ってさあ、例のほら、背中刺されちゃったあの人じゃない?なんて事情がわかると、ステージの笑いが伝染し、敢えてかみ殺す必要のないステージ下では馬鹿笑いの津波となってフロア全体に広がっていった。

 もうなにもかも終わりだ、と坊太郎が天を仰いだ、その時、雛壇右端下から二段目でいつもは無表情でむすっと目を閉じていたカラヤンが、口を両手で覆い一人爆笑しているのを坊太郎は見た。