朝、学校に行こうとして家を出たら自転車のタイヤがパンクしていて坊太郎は慌てた。春の県総体で負けてサッカー部を引退してから、それまでの汽車通学を自転車に変えたからのんびりしていた。父親が国鉄職員だから、坊太郎の住む官舎は駅の構内にあり、めざすホームはすぐそこに見えるが、さすがに今からでは間に合わない。自転車も汽車も駄目となればバスしかないが、路線バスの停留所は跨線橋を越えた国道沿いにしかない。

 坊太郎は走った。早朝から走るなんて久しぶりだ。昨日まで降り続いた雨は上がって珍しく空は晴れている。もう梅雨も明けるのかも知れない。蒸し暑い空気を頬に受けながら小中学校が向かいあった十字路を右に曲がり、跨線橋を駆け上がった。少し身体が重い。学生鞄を持っていない右手を思い切り振って腿をあげた。ついこの前まで走るのが当たり前だったというのに、もう何年も走ってないような気がした。息が上がって少し胸が苦しかったが、全力で走るってなんて気持ちいいんだろう、と坊太郎は思った。

 跨線橋を駆け下りて国道に出たら、目指すバス停にバスが滑り込んでくるところだった。待ってくれえと叫びながら、ラストスパートをかけたら間一髪で間に合った。バスは通勤通学客でほぼ満員。上がった息がなかなかおさまらず、おさまってきたと思ったら代わりに汗が噴き出してきた。下着を着ていないから、汗まみれの素肌に半袖開襟シャツがひっついて気持ち悪い。大粒の汗が額を伝って目にしみた。

 市役所のところでだだっと乗客が降りたので、空いた一人がけの席に座って窓を開けたら、勢いよく風が入ってきて、ああ生き返ったぁと叫んだのだが、風になびく髪の毛をかき上げながらふと前を見てギョッとした。坊太郎の右斜め前の席に加奈子が座っていた。まさか自転車通学の加奈子がバスにいるはずないが?と思って何度も見返してみたがやはり加奈子だ。津田加奈子に間違いない。男の子みたいなショートカットからはみ出た大きめの白い耳。ふっくらとした頬のライン。ちょっとしゃくれ気味の顎。

 

 部活を引退してからというもの、行く先々で加奈子と出くわすようになった。ちょっと見ないうちに随分女らしくなったなあ、と坊太郎は目を見張ったが、移動教室の時には廊下で、昼休みには中庭で図書室で、自分のゆくところ決まって加奈子がいた。最初はただの偶然だと思っていたが、それが何週間も続くとイヤでも意識してしまう。今更坊太郎なんかを好きになる訳がないし、いくらなんでもそれはないだろ?、と自嘲気味に笑ってみたのだが、ある時はじっと見つめる熱い眼差し、ある時は拗ねたような冷ややかな視線、そしてある時は含み笑いを隠した小悪魔的な瞳、とそのたびに意味ありげな視線を送ってくるのだ。最近では坊太郎の教室前廊下を頻繁にうろつくようになった。

 これは思い過ごしなんかじゃないぞ、と鈍い坊太郎でも思い始めていたが、今日の事で間違いないと確信した。

 

 

 加奈子は坊太郎を尾行している。もちろん、坊太郎が好きだからだ。

 

 

 加奈子は坊太郎の方を振り向くと、山下くん(坊太郎の姓は山下というのだ)どうして今日だけバスなの?もしかして自転車がパンクした?なんて声をかけてくる。え?なんでそんなこと知ってんの?と自転車がパンクした事情を話すと、

 

 嘘でしょ?

 

 って大きな声を出して立ち上がるもんだから、乗客が全員二人の方を振り向いたりする。坊太郎の前の席に移ってくると、息がかかるくらいに顔を寄せてきて、実は山下くんの自転車がパンクして慌ててバス通学に変えるって夢を見たのよ、と加奈子は声を潜めるんだ。

 

 嘘だろ?

 

 と今度は坊太郎が大声を出して立ち上がったりする。だから私も自転車をやめてバスに変えてみたんだけど、山下くんが駆け込んでくるのを見た時には心臓が止まりそうだったわ。加奈子は驚く坊太郎を無視してそう語るんだ。

 

 バスとともに妄想が暴走するが、リアルな加奈子は昔と違っておしとやかになったから、時々、後ろを気にする素振りは見せるものの、何も言わずに前を向いている。加奈子と坊太郎を乗せたバスはアッという間に高校下のバス停に着いた。バスを降りたら同じクラスの坂本も乗っていたようで、オッスと声をかけられた。

 坂本は180を越える長身の、いかにもなスポーツマン。男子バレー部顧問でもある井村頼信は将来全日本バレーを背負って立つ若きエースなんで、といつも授業で坂本をいじる。明るくて気さくなヤツだから、今朝のパンクの一件を問わず語りに話しながら歩いたら、そりゃ大変だったなあ、とにこやかに答えた。バスを降りた加奈子は坊太郎の方を気にしてか、二度ほど後を振り向いたが、あとは早足で学校への坂を上っていった。

 

 

 

 翌日の土曜日、テスト発表があった。今日からテスト週間だからなと担任教師の井村頼信は念を押した。わざわざ土曜日にテスト発表をするってことは、二週続けて週末に勉強しろってことらしいが、部活を引退した三年生は毎日がテスト週間だから、今更なあという気分だ。

 五月、春の県総体で負けてサッカー部を引退した。去年の秋、二年だけの新チームで臨んだ選手権予選では強豪を次々と敗りベスト8まで進んだ。ロングボールの蹴りあいばかりだった県高校サッカー界にあって、巧みにショートパスを繋いで攻め上がるスタイルは画期的で、インターハイ出場も夢じゃないと絶賛されたが、春の県総体では前回完勝した相手に競り負け、坊太郎達の部活は終わった。

 部活が終わってから、すべてが変わった。かつて六時間目終了のチャイムは、退屈で難解で、だからといって逃げ出すわけにいかない苦渋の時間から自分を解放してくれる合図。夢と希望と喜びに満ちた世界へ誘う天使のアリアだったというのに、今はどうだ?。チャイムと同時に教室を出る。そして学校の坂を下って家路を急ぐ。グランドからしか見た事がなかった夕焼けを今は自宅の庭や、寄り道した商業施設の屋上や、河口の堤防から見てる。夜は長い。受験勉強したけりゃ一日六時間はできる。小説は読み放題。ギターだって弾き放題。時間は無限にある。だけど坊太郎は何もしない。ただただ寝てばかりいる。そして気が付けば加奈子の事を考えている。津田加奈子の事ばかりを考えている。

 

 加奈子とは小学校の高学年で同じクラスだった。小柄で元気いっぱい校庭を駆け回っていた加奈子はたしかに可愛かったが、毛糸のパンツ丸出しでも平気で教室の雑巾がけをしていた彼女をそういう目で見たことはなかった。加奈子を好きだという男子は多かったのに、中学生になってもバスケットボールばかりやってて、誰かと付き合ってるという噂は聞いた事がなかったから、加奈子の方は、あまり異性には興味がなかったのかもしれない。

 それが変わったのはこの学校のせいだ。男女共学を謳うくせに実質別学で、進学指導の都合で三年生だけは男女混合にするが、一、二年生までは校舎まで別だったから、加奈子は高校入学とともに目の前から消えた。そして、二年間のブランクの後、再び目の前に現れた加奈子はすっかり別人になっていた。中学生の頃のようにキャッキャと笑いながら走り回るような事はなく、歩き方もゆったりとして随分落ち着いた感じだったが、好奇心旺盛なところは変わってないようで、目はくるくると良く回り、時々口を押さえてクスクスと笑った。その加奈子が廊下や売店や昼休みの中庭で、出会うたびに思わせぶりな視線を送ってくる。

 どうして俺なんかを今更って思うけど、俺だって加奈子を見る目が変わったんだから、加奈子だって俺を見る目が変わったっておかしくはない。ぜんぶこの学校のせいなのだ。

 そんなに好きならつきあってやってもいいんだけどなあ、と思う。部活がなくなってポッカリ空いた心の穴を、今の加奈子なら充分埋められる。加奈子がいてくれれば部活がなくても寂しくなんかない。受験勉強だってがんばれそうな気がするのだが。

 

 

 日曜日、パンク修理で自転車屋に行ったら、店先で出会った哲夫に、ちょっと家に寄っていけよと誘われた。哲夫は中学からの同級生だが、高校でも同じサッカー部で一緒に練習してきた仲だ。実家はパーマ屋。冷房のきいた哲夫の部屋で出してくれたコーラをラッパ飲みしながらラジカセから流れる岩崎宏美を聴いていたら

 

 ほいじゃが加奈子はもてるのお

 

 と哲夫が言い出した。中学の時バスケ部主将だった加奈子は高校でもバスケを続けていたが、同じ体育館で練習するバレー、バスケの男子部員からは隠れた人気だったらしい。それが引退してからヒートアップしているという。体育館の遙か彼方、グランドの隅で練習していた坊太郎にしてみれば、そんな体育館内の恋愛事情など初耳で、へえーと驚いたが、その一方で自分の彼女を誉められたような気になって少し嬉しかった。そりゃ確かにあの可愛い顔であんだけスポーツができれば誰だって気になる。いつも狭い体育館で練習してた連中なら尚更だ。部活があるうちは毎日顔を見れたから、それで充分だったんだろうが、引退して会えなくなると気持ちが高ぶるもんだ。その気持ちはよくわかるが、横恋慕したところで切ない思いをするだけなのになと思った。だって加奈子は坊太郎の事が好きなのだ。尾行するくらい好きなのだ。

 その日の晩、ラジオで予備校提供の受験番組を聞いていたら、直接高校に出向いたスタッフが生徒にインタビューしていた。身の程を知らない壮大な夢を語るヤツもいたが、自分と似たようなシケタ悩みをぼやく奴もいて刺激になった。訪問希望の学校募集中と言っていたから試しにと応募の葉書を送っておいた。

 

 

 

 翌、月曜日の三時間目、体育の授業でハンドボールの試合をした。学期末のクラスマッチに向け、グランドのコート二面を使っての練習試合だった。坊太郎はGKをやったが、隣りのコートでは加奈子の七組女子が試合をしていていた。引退したとはいえさすがは元バスケ部、身のこなしが軽い。淀みなくパスを回し、ここぞと言うときには思い切りジャンプをしてシュートを放つ。小柄な身体からは信じられないくらいのジャンプ力。弓のように腕がしなる。投げたシュートがゴールのクロスバーに当たって坊太郎の目の前に転がってきたので、拾って投げ返したら、加奈子は恥ずかしそうにそれを受け取った。

 ところが加奈子を見ているのは坊太郎だけではないようだった。坊太郎のチームにはバレー部の坂本がいるが、その他にもバスケ部のエース、ジャンボ北島や野球部の人気者黒木なんかがいる。みな試合をしながら隣りのコートを見ているようで、加奈子の一挙手一投足に歓声が起こる。加奈子がモテモテという哲夫の話はあながち与太話ではなかったんだと思ったが、気になったのはこういう会話である。

 

 加奈子がシュートを決めると歓声が起こり、

ナイシュー、さすがですねえサカモトさん、 そりゃそうよ。

 加奈子がミスをすると歓声が起こり、

おいおい、ミスってますよサカモトさん、まあええじゃないか、暖かく見守ってくれよ。

 

 加奈子に横恋慕しているのは坂本なのかもしれない。あの日、坂本がバスに乗っていたのも偶然ではなかったのかもしれないが、これは困った事になったなあと思った。ジャンボ北島にしても、黒木、坂本にしてもみんな気のいい奴らだ。できることならいつまでも仲の良い友人でいたい。異性問題でぎくしゃくするのだけは勘弁だから軽々しく加奈子との事は言い出せないが、だからといって、いつまでも秘密にしておく訳にもいかない。黙っていても色に出りけり我が恋は、物や思うと人の問うまでで、いずれはばれてしまうものだ。

 どうしたもんかと考えていたら、いきなり相手チームが速攻をしかけてきた。ノーマークの相手選手がジャンプして宙で身体を反らせる。坊太郎も角度を狭めようと前に出たが、相手選手の放ったシュートが、飛び上がって手足を大の字に広げた坊太郎の股間に当たり、坊太郎は着地するなり前を押さえて倒れ込んだ。加奈子の前でみっともない姿だけは見せられないと思うのだが気を失うくらいの腹痛と冷や汗で立ち上がる事もできない。シュートを放った奴はゴメン、ほんまゴメン、と真面目に謝っているのに、集まってきた加奈子ファンクラブの奴らはおいおい、ダイジョウブかよ?とは口ばかりで、四つん這いになった坊太郎には目もくれず、インポになったらどうしてくれるんじゃ、とぶつけた相手をどやしつけたりしては面白がっている。隣りの女子達も試合を中断し、遠巻きににやけているので、恐る恐るチラ見したら野次馬の中に加奈子も混じっていてショックだった。

 

 昼休みには腹痛もなんとか回復した。持参した弁当は二時間目までに食べてしまっていたので、売店にパンを買いにいったら珍しく黄粉パンが二つ残っていた。油で揚げたコッペパンに黄粉がたっぷりまぶしてあるアレだ。ひとつ手にとって、そういえば是枝さんも大好きだって言ってたっけ、と思った。いつも笑顔の是枝さんだが、ここんとこちょっと元気がないのも気になっていたから、思い切って二つとも買った。教室に戻って、コレやるわ、珍しゅう残っちょったけえ、と隣りの席の是枝さんに投げたら、あ、黄粉パンだ、サンキュウって久々に白い歯を見せた。是枝さんは県大会常連の剣道部員。スラリと身長も高く胴着姿の凛々しい女性剣士だ。短い髪が男みたいで、見た目が坊太郎に似てるとかで、女坊太郎なんて言うやつもいるが、男の坊太郎よりも断然格好いい。席は隣りだし、サッパリとした性格なので、なんでも気安く話せる。

 三時間目、大変だったんだってね、と是枝さんが含み笑いをするので、もうバレてんのかよ、と思った。八組のGKは三本目の足を駆使してシュートを防ぐセクシーGKだわ、って七組の子が言ってたよと笑う。七組の子ってまさか加奈子じゃないだろうな、って気になったけど、この手のからかいに本気で怒るのはさらにみっともないと思われ、そうそう、俺のは人より長うて太い、超高校生級なのっちゃ、なんてへらへら笑っておいた。

 

 部活が終わった虚しさからなかなか抜けられず、試験週間だというのに悶々と過ごしていた日々が少し変わった。テストは嫌だが、それが終わればクラスマッチだと思うと、なんだか気持ちに張りが出てきた。高校生活最後だし、ぜひ今年は優勝したい。全校にセクシーGKの凄さを見せつけてやりたい。もし、クラスマッチで優勝できたら、その勢いで加奈子との事を公表したっていい、と思った。クラスマッチ優勝の興奮の中なら、加奈子ファンクラブの連中も仕方ねえなあと見過ごしてくれるだろう。

 

 

 

 試験が始まった。週末の土曜日は政経と生物。興味もないし試験勉強もしてないから全然できなかったが、二時間で帰れたのが嬉しかった。昼飯に母親が作った焼きそばを掻き込んでいたら、あんた少しは勉強しよるんかいね?なんて母親が言い出した。そりゃやっちょるいね、うるさいよねえ、と答えたのに、母親は全然聞いてなくて、あんたはもともと勉強に向いちょらんのよ、人には向き不向きっちゅうもんがあるけえねえ、なんて勝手な事を言いだし、しまいには、大学が駄目なら国鉄がある、お父ちゃんが口を利いてくれるけえ心配しんさんな、テッチンも悪うないよ、なんて欠伸しながら抜かしやがるので、むかっ腹が立った。なにがテッチンじゃ、人の将来、勝手に決めんなや、と舌打ちをすると席を立って冷蔵庫を明け、これ見よがしに缶ビールをプシュっとやってやった。あっこら、それはお父ちゃんの、とか、未成年のくせに何しよるんかいね、とグズグズ言うから、缶ビールぐらいでガタガタ言うなや、と目の前でグビっとやって自室に引っ込んだが、一気に酔いがまわって寝てしまった。

 夕方起きて勉強する積もりだったのだが目が覚めたのは夕食前だった。しかも夕食後にテレビでやっていた映画は古いイタリア映画で、貧しいが仕事に誇りを持った中年機関士がスト破りをしてまで汽車を走らせ、仲間から村八分になるというストーリーで、畳に寝っ転がって見ていた坊太郎は、その映画の世界に思わず引き込まれた。一緒に見ていた父親を見ると、クライマックスのところでポロポロ大粒の涙を流しており、坊太郎は複雑な気分になった。国は違えど、みんなこうやって命をかけて生きている。必死で生きてるってのに、大学が駄目なら仕方なく国鉄だと?そんなんで良いのかよ。完全に人生舐めてるだろ。いくら自分がボンクラだといえ、そこまで腐っちゃいない。見損なうのもいい加減にしろよ、と坊太郎は熱くなった。

 

 ボンクラな自分だって自分なりにいろいろ考えてるんだ、とムキになった坊太郎だったが、翌日の日曜日、ギターを弾いて鼻歌を歌っていたら、なんだかどうでも良くなった。

 黄粉パン好きの是枝さんは、地元にある看護大学に行くと決めてるのだそうだ。重病の兄さんか弟だかがいて、そういう事情もあって医療従事者を目指すんだと本人から聞いた。彼女は坊太郎と違って成績も優秀で、国立大学目指そうと思えば充分合格可能な成績なのに、敢えてそうするところが偉いなと思う。この前、坊太郎は高校の歴史の先生になるんでしょ?なんて是枝さんに言われて驚いた。すっかり忘れていたけど、確かに三年生になって間もない頃、そんな事を口走った覚えがある。毎日三人ずつクラスの前で将来の夢を語れと担任に言われたのだ。若い人と接する高校教師なら、一生歳を取らないですむからだと言ったら、担任の井村頼信がえらく喜んでくれたのを思い出した。彼女はそれを覚えていたのだが、さすがの坊太郎でも、今の成績で高校教師になれるとは思っていない。本当にそれを目指すなら、それなりに受験勉強しなきゃって思うのだが、放っておけば低きに流れる水の如く、ま、定期テストなんて赤点でなければいいのさ、という部活時代の意識に戻ってしまう。勉強が嫌ならとっとと見切りをつけてドロップアウトし、世界放浪の旅に出るくらいの気概があれば、逆に高校教師どころか歴史学者だって夢じゃないような気もするが、そんな根性もない。今日だって夕方少し勉強した後、夕食後寝て、夜中の三時に起きるつもりだったが、起きたら朝だった。

 

 

 

 テストが終わるとクラスマッチが始まった。坊太郎は元サッカー部GKのプライドをかけてハンドボールに出場する。これから3日間の闘いだ。

 坊太郎の三年八組は、一回戦、二回戦、と順調に勝ち進み、二日目も三年四組を9対4で下した。坂本、北島のジャンボタワー二枚のポストプレーに野球部黒木の弾丸ミドルシュート、そして我がサッカー部ウィング森田の速攻と、この攻撃陣はどこからでも点が取れる。もしかしてこのままのメンバーで高体連の試合に出ても勝てるんじゃないかと思われた。

 午後からは加奈子のいる三年七組の男子ハンドボールの試合を見た。対戦相手は理科系の男子クラスだから応援も男子がちらほらいるだけ。それに対し男女混合の七組には大勢の女子がつめかけていてこれは悲惨だと思った。三組はどんないいいプレーをしようが、いや、いいプレーをすればするほど相手女子生徒から野次られ罵られ、さげすまれるのに、七組のメンバーはダラダラ、テレテレやっていても励まされ、応援され、少しでも良いプレーをすれば拍手喝采。一躍スター扱いなのだ。最初はけなげに頑張り僅差でリードしていた三組の男達も、派手な女生徒の黄色い応援と容赦なく浴びせられる心ない野次に次第に力を失い途中で逆転。もうそれからは見ている誰の目にも戦意喪失甚だしいとわかるほど投げやりで、とてもじゃないが見てはいられなかった。とりわけ、その黄色い応援の中に加奈子がいた事は看過できないと思った。流石に野次ったり罵ったりはしないものの、シュートが決まる度に両手を突き上げ、ぴょんぴょん飛び上がる仕草は頂けないと思った。それは坂本らの加奈子ファンクラブの面々も同感だったようで、おいおいどうかいのお、騒ぎすぎじゃろ、と不満そうだった。

 

 クラスマッチ最終日。三年十二組を7対1と下し準決勝の相手は三年七組。あの黄色い声援の加奈子のクラスだ。北島が手加減すんなよ、と坂本に言うと、あたりまえっちゃ、女の前で吠え面かかせちゃる、と返したが、それを聞いていた黒木が、女の前じゃのうて津田加奈子さんの前で吠え面かかせる、の間違いじゃろ?と茶化し、坊太郎に同意を求めてくるので、ファンクラブと同じ気持ちだった坊太郎も、やっちゃろうでと即答し拳を握った。みんな、セクシーGK坊太郎が、七組の女どもをぐちゃぐちゃにしちゃる言いよるで、黒木が叫ぶと雰囲気が一気に盛り上がって、みんなで雄叫びをあげた。

 予想通り相手チームは女子全員が応援にかけつけている。坊太郎の八組は女子のバレーがブロック決勝とかで、みんなそっちの応援に行っているから誰もいない。しかし逆境になればなるほど闘志は燃えるもの。八組は得意のポストプレーを交えながらパスをまわし、あれよあれよと言う間に三点先制。だが、点を入れる度に相手女子の応援ボルテージは上がっていく。七組がんばってーと叫んでいた奴らは、川村くんがんばってぇ、とか村田くんファイトーとか個人名を連呼し、時には調子にのって、村重くん愛してるぅ、なんて言い出す始末。坊太郎の右サイドに陣取るやつらの中、加奈子が相手エースの名前を叫び、がんばってーと叫ぶ声を聞いて坊太郎はカッときた。

 七組は速攻のチームだった。相手が放ったシュートをGKが止め、その隙に走り出している俊足のウィングにロングパスを放る。相手は走り出したウィングに気付いていないし、GKはゴールに貼り付いたまま出てこないから、そのロングパスが悉く決まる。得点の三分の二は速攻。つまりはそのロングパスを止めれば、遅攻では点が取れないのだ。だから自分達がシュートを放った瞬間、すでに走り出しているウィングを見逃さず、ロングパスをカット、またはキャッチしてマイボールにすればいいのだ。そうチャンスを狙っていたら案の定、ロングパスが来た。よし今だとゴール前から飛び出した坊太郎は、全速力で迫ってくる相手ウィングと入れ替わりにロングパスを頭上でキャッチ。ゴール前に残っていたジャンボ北島にライナーのパスを通し、逆速攻を決めた。地団駄を踏んで悔しがる七組女子軍団。痛快だった。このセクシーGKが、とか、アソコねらっちゃれ、とか野次も聞こえてきたが、ほざけ馬鹿めが、と思った。相手GKは坊太郎がロングパス速攻を読み切っていることに気が付かないのか、シュートをセーブすると躊躇なく長いパスを放ってきたが、そのたびに坊太郎は出足鋭く飛び出し、ある時はインターセプトし、間に合わなければコートの外に叩き出した。気が付いた女子の誰かが、もうロングパスは読まれとるけえ、投げちゃだめよ、と叫ぶまでロングパスは続いたが、速攻が出なくなると、予想した通り攻め手がなくなり、ただ闇雲にパスを回すだけで、やけくそで放って来たへなちょこシュートは難なくセーブできた。完勝だった。途中ペナルティーで二点取られたが、流れの中でのシュートは一本も許さず8対2で勝った。

 

 決勝は来週月曜日ということになった。ついでにこの勢いで最後までやりたかったが、そのことよりも加奈子の前でこれ以上はないというプレーをみせつける事ができた爽快感の方が勝って、気分よく教室に引き上げた。

 着替えている間、坂本はずっと苛ついた感じで、それは坊太郎もよくわかったから、あれはねえよな?と声をかけると、それっちゃ、そりゃ自分のクラスじゃけえ応援するなあしょうがねえけど、あねえに派手に応援するこたねえっちゃ、と不満をぶちまける。○○くん愛してるぅとか最悪ちゃね、と黒木が同意すると、北島が、彼氏の前で黙っちょったら、あんた自分のクラスより、彼氏応援するんかね、言われるけえ、わざっと大きい声出したんじゃなあか?とフォローするから、驚いた坊太郎が目を白黒させていると、そおかのお、やっぱそうかのおと思うちゃあおったが、と坂本が反応するから、おいおいお前じゃないだろ?加奈子ファンクラブさんよ、と余裕をかまし内心笑っていたら、今日電話して、ありゃあなんか?ええ加減にせえ、あさっての決勝はワシらの応援に来いよ、言うとけや、と北島が坂本に言い、みんなもそうせえそうせえ、とはやし立て、坂本は、

 

 よっしゃガツンと言うちょくわ、

 

と笑って応じた。

 晴れた夏空が突然かき曇り黒い雲が広がった。賑やかに歌っていたテレビの画面が停電でプツンと切れた。パンパンにふくれてふわふわしていた赤い風船が、パチンと弾けてどこかへ消えた。

 

 

 学校帰り、錦帯橋そばの露天に、中学からの友人、荒井と一緒にかき氷を食べに寄ったのだが、坂本の態度を話して、おまえ何か知っちょるか?と聞いてみたら、おお、あいつらつきおうとるらしいで、と頷いた。いつじゃったか自転車置き場のとこで楽しげに喋りよったわい、だの、おお、この前一緒にバスで学校行こういうて誘い合わせたら、お前が乗ってきた言いよったで、だのと調子よく喋り、そりゃあ坂本は背が高いし勉強はできる、顔もええし、将来は全日本のエースじゃけえ、告白されたらさすがの加奈子もイチコロじゃろ、と笑った挙げ句、氷を口いっぱいにほおばり、ひゃーつめたーと無邪気に顔を歪ませた。

 坊太郎の手から、かき氷の器が滑り落ち、地面の石に当たって割れた。おいおい、気をつけにゃあ、と片づけてくれた荒井だったが、ぼうっとして何もしない坊太郎を見て、何か気が付いたのか、え?まさかお前、嘘じゃろ?と慌て出し、それでも無言で固まったままの坊太郎を見て全部悟った様子で、いやーほんまのところはよう知らんで、全部噂、うん人から聞いただけじゃし、そうあの手の噂じゃいうのはほんま無責任っちゃね、と気を遣ってくれたが、

 

 あがなブスどうでもええわ、

 

と強がるのが精一杯だった。

 

 

 気が付いたら坊太郎は今津川の河口、帝人工場沿いの堤防に腰掛けて海を見ていた。川向こうには米軍の基地がある。漁から戻ってきた一隻の漁船が上流を目指し、川面に波が立つ。水鳥が慌てて飛び立ち、夕暮れの空を舞う。

 滑走路を飛び立った戦闘機は爆音を置き去りにして、遙か瀬戸内海上を旋回し、そして鼓膜が破れるほどの爆音を連れて坊太郎の頭上に舞い戻る。ジュラルミンの機体が夕陽に鈍く光る。滑走路に降り立った戦闘機は、着陸することなく再び飛び立ち、そして同じ空を旋回し、そして爆音とともに舞い戻る。同じルートを何度も何度も着陸しては飛び立ち、旋回しては舞い戻り。いつまでもいつまでも訓練は終わらない。

 自分の心が操縦できない。かき氷の器がパリンと割れた時、飛び出していった甘酸っぱい心がいつまでたっても帰ってこない。鈍い自分でもさすがにわかった。あのモテモテの加奈子がこんなちんけな自分を好きなあまり尾行してるだなんて、どうかしてた。本当の事を知るまでは、そんなに好きならつきあってやってもいいけどな、と見下していたのに、本当の事がわかった途端、自分の方が加奈子に依存してたんだとわかった。 

 気が付いたら周りは真っ暗になっていた。家に帰ると真夜中で、心配した母親と姉が寝ないで待っていた。父親は夜勤で留守だった。  

 翌日は昼まで寝ていた。母親と姉はあんなに遅くまで何しよったん?としつこかったが、クラスマッチの打ち上げで友人宅にいたと嘘をついた。午後、是枝さんが電話をくれた。全日本対FCケルンとの試合中継は民放じゃなくてNHKだった、ごめんと言う。何のこと?って思ったが、そういえばこんどの日曜にサッカーの試合がテレビであるよって是枝さんが言ってたような気がした。てっきり民放だと思っていたけど、放送局がちがっていたというお詫びの電話だった。ああ、そんなこと気にしなくていいのに、と思ってお礼を言ったら、坊太郎、あんたえらい元気なかったけど、大丈夫?明日の決勝応援に行くけえ、しっかり頑張ってよ、と励まされた。

 夕食後、居間でぼうっとしていたら、テレビを見ていた姉が、普通の女の子に戻りたい言いよるよ、と騒いでいた。戻りたいなら戻らせてやれよ、と坊太郎は思った。

 

 

 

 週が明けた月曜日の朝、教室にいたら、坂本のところにみんなが集まって楽しそうにはしゃいでいた。黒木が、おまえ、ちゃんと電話したんか?と聞くと、今日はワシらの応援に来いよ、いうてビシッと言うちゃったよ、と満面の笑顔で応え、この前はごめんね、気を悪くせんでね、言いよったっちゃ、と胸を張った。ジャンボ北島が、優勝したらキスのご褒美くらいあろうのお、と煽ったら、ヒューヒューとみんなも囃し立てた。

 坊太郎が自分の席で寝たふりをしていたら、キャンディーズ、普通の女の子に戻りたいんだって、スーちゃんも、ああ見えていろいろ大変だったんだね、と隣りの席の是枝さんに話しかけられた。昨日、姉が言ってたのはキャンディーズの事だったのかと坊太郎は思った。そうだねっ、て頑張って笑顔で答えた坊太郎だったが、こうやって見たら、是枝さんってスーちゃんに似てるなあと坊太郎は思った。

 午後からの決勝戦には、選手以外クラスの全員が応援に来た。クラスの女子に誘われて加わった加奈子も八組と一緒になって応援していた。試合開始の時、坂本が応援団の方を向いてピースサインを送ると加奈子は嬉しそうに両手を挙げて、坂本くん、がんばって、八組がんばって、とエールを送り、周囲の生徒がそれを冷やかした。

 相手は三年二組。理科系の男子クラスだ。女子の応援に対抗心を燃やしたのか、屈強な柔道部員がジャンボツインタワーを羽交い締めにしてポストプレーを阻止し、森田へのロングパスも相手GKのインターセプトで防がれた。だが、八組もねばり強く守って前半はお互い得点が入らないまま終えた。試合は膠着していたが、坂本にパスが回るたびに加奈子とその友人達から黄色い声援が飛んだ。

 後半もお互いに決め手がないまま無得点で迎えた最終盤、ポストとのパス交換から野球部の人気者黒木が意表を突いて豪快なミドルシュートをゴール右隅に突き刺し、これで勝負あったかと思われたが、試合終了直前になって相手にペナルティーを取られた。七メートルの間合いをとって、相手シューターとGK坊太郎とが向き合った。

 これが入れば延長、入らなければ八組の優勝です、と審判が全体に伝えた。相手は同じサッカー部の吉本。相手と一対一になった時、わざと片方を空けてそこに蹴らせて止める駆け引きが坊太郎の得意技だった。ゴールに相対した相手が、あれ?右より左の方が空いてるぞ、と思うように、意図的に片方にずれてポジションを取るのだが、吉本はよくそれに引っかかった。見れば吉本は緊張の余りガチガチで視線も定まらない。これなら間違いなく引っかかる、と坊太郎はほくそ笑んだ。右側を少し空けてポジションを取り両手を広げたら応援団の声援が消えて静寂がコートを包んだ。坊太郎とめて、と是枝さんのつぶやきが聞こえた。吉本は思ったとおり振りかぶると右側めがけて腕を振り、よっしゃ、見事に罠にかかりやがったぜ、と思った瞬間、すごい衝撃と同時に視界が闇に消え、背中に激痛が走った。

 気が付いたら、飛び上がって喜ぶ選手達が、一斉になだれ込んできた応援団と一緒になって大騒ぎしている様子が、井戸の底から空を見上げるような視野に映っていたから、シュートは止めたんだとわかった。どうやら右手じゃなく、まともに顔面に当ったようだった。誰かが、持っていたティッシュで流れる鼻血を拭ってくれたが、セクシーGKが鼻血で八組を救ったぜ、胴上げじゃあ、と黒木が言うと、みんなで坊太郎を胴上げし始めた。セクシー、鼻血、セクシー、鼻血、と馬鹿笑いしながら、みな坊太郎の身体を空に向かって放りあげた。すぐそこまで来ていた真夏の青い空が、坊太郎の目にぼやけて見えた。

 

 

 

 翌々日、終業式。高校三年の一学期が終わった。

 一時間目の終業式に続いて二時間目はHR。別室で順次、面接をして通知票を渡すから、それが済んだら下校していいということになった。坊太郎は出席番号が最後だから教室でぼうっとして待っていたのだが、もう通知票を貰ったらしい加奈子が廊下から教室の中を覗いていたから、ああ坂本のところに来たんだな、と思った。予想通り加奈子は教室に入ってきたが、教室に残っていた坂本には目もくれず同じ中学からの同級生、長谷田淳子のそばに駆け寄ってなにやらコソコソ喋っている。坂本も、おい成績どおだった?ぐらい話しかければ良いものを、なんだか不機嫌そうに黙って本を読んでいたが、パチンと大きな音を立てて本を閉じるとツカツカと音を立てて教室を出ていった。周囲に知られたら知られたでどう接したらいいのかわからなくなるもんだよなあ、と男女交際のベテランみたいな事を考えた坊太郎だったが、それにしても素っ気ない坂本の態度が気になった。

 最後に通知票をもらいに面接の教室に行ったら、担任の井村頼信氏が渋い顔で待っていた。坊太郎、お前勉強してないだろ?と切り出すから、はあ?ちゃんとしてますけど?と大嘘をついたら、嘘はいかんなあと言いながら通知票を差し出すので、家に帰ってからみます、と鞄に入れようとしたら、今すぐ見てみろと冷たく言い放つ。今ですか?と上目遣いに顔を見ると、今だ、と念を押すので、渋々通知票を開いてみた。パッと見、たくさんの赤点が目に飛び込んできて、うわあ最悪だ、と思ったが、井村頼信なんて歴代将軍みたいな名前の担任教師は、おまえねえ、現実をちゃんと見ろよ、ハッキリ言うけど、クラスでビリだよ、ビリ、お前の後ろには誰もいないんだよ、と言いにくい事をズバリと言い、そんなに酷いのか?と衝撃を受けた。いくらボンクラでも、さすがにビリになった事はない。二年の時も酷かったが、四〇人のクラスで二十二、三番。クラスのちょうど真ん中あたりだったはずだ。いつのまにそんなに差がついてしまったんだろう?と通知票を睨み付けていたら、お前、高校教師が将来の夢だって言ってたけど、それは変わってないのか?と言うので、ええまあ、歴史が好きなので、というと、あのねえ学校の先生ってのは生徒よりもたっくさん、いろんな事を知っておかなくちゃいけないんだよ、わかるかい?なんて子どもに言うように話しはじめるので、嫌だなあ先生、わかってますよそれくらい、と笑って誤魔化そうとすると、わかってない、と怒鳴られた。勉強してるなんて大嘘ついたりして、もし本当に勉強しててこの成績ならもう大学進学は諦めた方が良い。でもお前はやればできるはずだ。それを証拠に入学当時はむしろ成績は良かった。今よりずっと良かった。という事はやるべき事をやらずに怠けているって事だ。そうだろ?。井村頼信の説教は容赦ない。

 

 もういちど聞くぞ、坊太郎、おまえ勉強してるか?。

 すいません、してません、さっきのは大嘘でした。

 

 坊太郎は下唇を剥いてみせた。じゃあ、勉強しなさい。ハッキリ言っておくけど、今の成績で入れる大学はこの日本に、いや世界中見回しても一つもない。またあ、入れる大学がないだなんて大袈裟な、と坊太郎が茶々を入れると、また大声で怒鳴られた。

 

 バカタレ、もっと真面目にやれ。

 

 さすがにビリは堪えた。人生初だ。これはどうしようもないところまで来ちゃったなあ、と思った。高校生活のすべてだった部活も終わった。心の支えだった加奈子も取られた。そして勉強も最悪だ。もう自分にはなんも残ってない。すっからかんだ。これから自分はどうなっちゃうんだろうなあ、なんて考えながら教室に戻ったら、もう誰も居なかった。長谷田淳子のところに来ていた加奈子の姿も、不機嫌そうな坂本の姿もなかった。帰る準備を始めたら、机の中に黄粉パンが入っていた。手紙も一緒に入ってる。

 

 いつかのお返し、これでも食べて元気だして。

 

 是枝さんだった。手紙をズボンのポケットに突っ込んで、黄粉パンを思いっきりほおばったら口の端が黄粉だらけになった。砂糖を混ぜた黄粉が程良く甘かった。ベロを伸ばして口の端の黄粉を拭い取った。黄粉パンってこんなに美味しかったっけ?と思ったとたん、ありがとうの涙とごめんねの涙が坊太郎の頬をこぼれ落ちた。

 

 

 岩国の町には錦帯橋という五連の太鼓橋があるが、その橋を渡りきった先の山頂に江戸時代に築かれた城が残っている。坊太郎はそこに登ろうと思った。今はロープウェイで楽に登れるが、そのロープウェイの真下に最短距離で歩いてあがれる登山道があるらしい。やる気が出ないのなら、帰りに城山にでも登ってこれからの事をじっくり考えてみろ、と井村に言われたのだ。もうひとつの登山道は傾斜は緩いが距離の長い九十九折りで、せっかちな坊太郎には性に合わなかった。どうせ登るなら傾斜はきつくても短い方が良い。あれくらいの坂、一気に駆け上ってやるぜと、ロープウェイの駐車場に自転車を停めて走り出した。

 しかし、知るとやるとではえらい違い。傾斜は思った以上に急で、崩れやすい土質もあって何度も足を取られ、一気に駆け上るどころか、枝木につかまりながら、やっとのことで上まであがることができた。この糞暑い真夏に自殺行為だぜ。井村頼信の野郎、人ごとだと思いやがって、と吹き出す汗を拭き拭き後悔した坊太郎だったが、その疲れも後悔も天守閣に登って吹き飛んだ。

 天守閣からは岩国の街全体が見渡せる。我が母校が右手に見え、山裾を流れる錦川は真夏の太陽を映しながら左に右に蛇行し瀬戸内海に流れ込んでいる。川下には広い三角州も、そしてそこに居座る米軍基地もくっきりと見える。開け放たれた天守閣の窓から心地よい風が吹き抜けた。

 街を見下ろす山頂のロープウェイ駅のところから是枝さんに電話した。是枝さんはもう家に帰っていた。山下ですがって坊太郎が言うと、ああ坊太郎?ってまるでかかってくると解ってたみたいな対応で驚くこともなく、坊太郎が黄粉パンのお礼を言おうとしたら、別にお礼なんか良いんだよ、って先回りして言われてしまった。一学期の成績がクラスでビリだった事を坊太郎は白状した。秘密にしておくつもりだったのに、是枝さんには聞いてほしいと思った。教室には誰も残っていなくて、この世の終わりってくらいに凹んでいた時に黄粉パンが入っててほんとうに嬉しかった、と感謝の気持ちを伝えたうえで、でもさ、なんでビリで凹むってわかったの?って聞いた。加奈子を取られた事も言いそうになったけど、言わずにおいた。さすがに成績の件はわかんないけど、ここんとこ元気ないなあって思ってたからねっ、て、ちょっと照れた感じだったが、それに、私だって坊太郎から黄粉パンもらった時、最悪な気分でさ、あの黄粉パンに随分救われたんだよって内緒の話を聞かせてくれた。病気で入院中だった兄の三回目の手術が決まって、もしかしたらこれが最期かもって空気で、家の中がもうピリピリしててね、どうでも良いことで親は喧嘩するしさ、家に帰りたくないなあって気分だった、ちょうどそのタイミングだったからね。幸い、手術は成功して、今は随分良くなったんだよ、と是枝さんは笑った。

 

 

 

 夏休みが始まったが、毎日憂鬱だった。今頃、坂本は加奈子と一緒に勉強したりしてるんだろうなあとか、もしかしたら海水浴にでも行ったかな?なんて思うと、胸が苦しかった。補習授業が組まれていたが到底行く気にはなれず、毎日昼過ぎまで寝て、メシを食うと昼寝をし、夜は親に隠れてビールを飲み、毎日ラジオでまともな受験生達の輝く将来への希望を聞いて過ごした。

 十日ほどたって電話があり、後輩達の合宿に激励に行こうぜ、と誘われたので、久しぶりに学校まで大汗かいて自転車を漕いだ。例年、二部練の最後はOBとの試合、三十分を4セットって事になっていた。その得失点差のマイナス分だけランニングか筋トレのペナルティーか科せられる事になっていたから、現役生は必死なのだ。おまえら、覇気がねえぞ覇気が、遠慮せずにガンガン来いよ、なんてハッパかけたせいなのか、下級生達は運動不足気味の三年チームを押し込み、危うく負けるところだったが、速攻からの二点が効いて四対三の一点差で逃げ切った。日差しがきつくて最後はフラフラになったけど、心の底から楽しいと思った。ほんの数ヶ月前まで毎日こうだったんだけどなあ、と不思議な気持ちだった。退屈な授業が終われば、後はもうパラダイスで、笑顔で部室まで全力疾走した。着替えるのももどかしい気分で制服を脱ぎ散らかしグランドに飛び出していったもんだ。雨に濡れようが雪で滑ろうがお構いなしにグランドいっぱいに駆け回った。部活も加奈子も、かけがえのない宝物は、今はもうない。

 

 お盆前に登校日があった。登校日といったってこれといって何かするわけでもない。九月最初にある校内模擬試験の試験範囲や全国模擬試験の申込書が配られ、担任から二三説明があっただけだ。こんなんなら休めば良かったな、と思っていたら荒井が寄ってきて、坂本、ふられたらしいでと声を潜めるので驚いた。一学期の終わり頃にはもう破局寸前だったらしい。終業式の日の坂本の不機嫌そうな顔や、不可思議な加奈子の態度が、次々とショートして火花を散らし、目が開けていられなくなった。荒井はいろいろ喋ったが、一言で言えば、坂本の方が振られた、加奈子が振ったという事で、何が原因で、どういういきさつでそうなったのかは、荒井もよく知らないようだった。

 帰りに例の堤防のところに寄った。加奈子は自分に夢中だから、クラスマッチが終わったら二人の関係を公表してもいいな、なんて生ゴミみたいな夢をみていた頃、あいつらは交際中で、坊太郎がそれを知って打ちのめされた時には、破局寸前だったとは皮肉なもんだが、愛は死んじゃいないと思うと、これまでの憂鬱さが嘘のようにウキウキしてきた。

掌に乗るようなちっちゃな幸せを、つぶれるくらいぎゅっと抱きしめた。堤防の上に上がり、身振り手振りをつけてお気に入りのラブソングを熱唱した。子どもが戦闘機の真似をするように両手を広げたまま、堤防沿いの舗装道路を端から端まで笑いながら駆け抜けた。あの時、坊太郎の胸から飛び出したままだった甘酸っぱい心が戻ってきた。うれしい気持ちが全身に溢れて泣き出しそうだった。迷い込んだ深くて暗い森からやっと抜け出せた気がした。もがけばもがくほど深く沈んでいく灰色の砂漠が突然カラフルでさわやかな日中のプールに変わった。

 加奈子、おまえは太陽。永遠に俺の憧れ。今度こそ虹みたいに消えないでくれよ。思いつきの愛の言葉が動脈を巡る血液のように体中をかけ巡って、そして翼になり、坊太郎はその翼で宙を舞う。そうだ自分と加奈子は繋がってる。絶対に惹きあってる。

 対岸のジェット戦闘機を追い越す勢いで、坊太郎は瀬戸内の海の上を旋回した。

 

 

 

 盆明け、市の図書館に通うことにした。盆の間、自室の整理をしていたら、入学したての四月に行われた校内模擬試験の記録が出てきたのだが、五百を越える生徒数のうち席次が一〇〇をほんの少し越えた辺りだった。坊太郎の高校では、やる気を喚起する目的なのか(それで本当にやる気が喚起されるかどうかは不明)、試験ごとに個人成績が開示される。一〇〇を越えると性別だけになるが、一〇〇位以内は堂々と名前が全校に開示されるのだ。そう、この調子でいけば100番以内に入るのは時間の問題だな、とあの時思ったっけ。今でこそクラスの最下位に沈んでいる坊太郎だが、そういう時もあったのだ。加奈子を失って呆然自失の頃だったら、最下位に沈む今の自分に目が向いて後ろ向きになっただろうが、復活を果たした今は違う。俺だってやればできるのだ。今は本気だしてないだけ。入学したてのピュアな自分が本当の姿なのだ。今から半年、死に物狂いでやれば国立はおろか、東大京大一橋だって夢じゃない。過ぎ去った昔を根拠に図書館行きを決めた。午前午後と学習計画を立てて、図書館の開館から夕方五時までみっちり勉強することにした。とりあえず目標は二学期しょっぱなにある校内模擬試験。とりわけ不得意科目の英語、国語、数学を攻略だ。二学期初っぱなの校内模試で弾みをつけて二学期を乗り切れば、先が見えてくる。そう踏んだ。

 

 九月になり新学期が始まった。始業式はあっさり終わり、初日の1時間目から校内模擬試験。九月とはいってもまだ気温は三十度を超え、セミの勢いも真夏のまま。ハンカチで額の汗を拭き拭き試験に取り組んだ。試験は二日に及んだが、かなり手応えがあった。とくに図書館で力を入れた英語、国語、数学の出来はこれまでにないものだった。生物、化学と日本史、世界史は苦戦したが、とりあえずは三教科集中で行こうと決めたわけだから、予定通りと言える。答案が返ってくるのが楽しみだ。

 翌週の月曜日から授業が始まった。日本史の時間、倉重先生が男女交際について話し始めた。この先生、話術が巧みで歴史のこぼれ話なんかを面白可笑しく話してくれて、坊太郎も大いに影響を受けたのだが(加奈子の担任でもある)こと男女交際については禁欲的だった。そもそも三年になったからといって男女混合の編成にする必要はないと言うのが持論で、ことある毎にそれを持ち出してきたが、今日は、この期に及んで男女交際なんか馬鹿げているからやめろと言い出した。部活が終わって、ふわふわ浮かれた気分になっている生徒が多いのを感じているのか、どうせこんな時期に仲良くなったって、大学に入学してみればすぐに別れるようになるんだと言う。高校生の頃、この世のすべてくらいに思えたものが、急に色あせて見える。それが大学ってところだ。それくらい高校生の住む世界は狭いし、大学は無限で広い。新しい価値観や文化に触れて君たちの視野は格段に広がる。だから今は、まず大学に入る努力をした方が良い。そう力説した。数少ない好きな先生の一人だったが、とうてい納得できる話じゃなかった。たとえ余命幾ばくもない老人になったって、朽ちることのないピュアな気持ちっってのが心のどこかにあるものだ。あの先生はそんなピュアな体験ができなかったのか、大人になって捨ててしまったかのどちらかだ、と坊太郎は思った。

 

 教科の時間に校内模擬試験の答案が返ってき始めた。夢のトップ100には遙かに届かなかったものの、英語と国語は平均を上回り上々の滑り出し。やっぱ努力は裏切らないよなあ、とますますやる気になった坊太郎だったが、帰りのHRで期待の数学を返してもらってショックを受けた。担任の井村頼信は数学担当から依頼された答案を名前を呼びながら返していったが、他の生徒の時は名前を呼ぶだけで無言で渡すくせに、坊太郎の時だけは、配る手を休め答案を舐めるように二度見した後、うーん、努力の跡は伺えるんだがなあ、と眉間にしわを寄せる。おかしい。今回はかなり手応えがあったのだ。出された四問ともびっしりと書いた。微分積分の問いは正解だと確信しているし、万が一誤解答だとしても部分点は確実にあるはずなのだが。ま、努力は続けるように、と井村頼信は坊太郎の目を見ながら言い答案を渡した。後で待っていた奴が覗き込もうとしたから思わず答案を懐に隠したのだが、教室の後で確認してみたら「0」以外の数字を見つける事ができない。いったいこれはどういうことだ?と首を傾げていたら、のぞいてきた長谷田淳子が、うわ零点、正真正銘の0点、初めてみたわ、こんなん、と大声で言い大騒ぎになった。

 人は不幸になると「青ざめる」「血の気が引く」「呆然とする」なんて言うが、それを通り越すと「笑える」のだと初めて知った。もう、受験生の常識も成層圏も突き抜けて、銀河系まで飛び出している。これはすごい。我ながら快挙だと思った。投げやりな態度でふてくされ、白紙で出した挙げ句の0点ならいざ知らず、本腰入れて図書館に通い、必死で取り組んで、こりゃ手応え充分だぜと思いながら書いた答案で「0」点なんて、これは一つの才能だわ、と誇らしくさえあった。

 翌日、坊太郎が「0」点を取ったという噂はアッという間に学年中に広まった。その証拠に、理科系男子クラスで、引退後はほとんど交流がなくなっていた元サッカー部、名桑や森まで、聞いたで聞いたで、と教室に顔を見せたのだ。森に至っては、ええか坊太郎、一〇に一〇を掛けたら一〇〇、一でも一〇を掛ければ一〇にはなる。でもなゼロには何を掛けてもゼロ。かわいそうじゃが大学は無理じゃ坊太郎、あきらめろ、なんてからかって帰る始末。廊下を歩くたびに、坊太郎、元気だせよ、とか、零点とか嘘なんじゃろ?いくら何でも零点はねえよなあ、とか声をかけられ、ちょっとしたスター扱いだった。

 学校帰り、市内一のレコード店兼家電量販店に寄り全財産をはたいて「TAKANAKA」というアルバムを買った。氏素姓も知らない初見のギタリストだったが、音楽雑誌に絶賛してあったのを思い出して衝動的に購入した。普通なら反省してメシを抜くとか、滝に打たれに山に入るとかだろうが、そんなネガティブなやり方ではダメだと思った。なにせ常識では考えられないような突き抜けかたなのだ。散財でもしてパアっと気持ちを切り替えるしかないと思った。果たして自宅で聞いてみたら、本当に雷に打たれて全身感電した。アルバム冒頭部分で梅雨明けを告げる落雷の轟音が電子音を伴って鳴り響くと、それに続いてラテンのリズムが弾けだし、羞恥心も絶望感も、なにもかも吹き飛ばして突き進む疾走感に坊太郎は恍惚となった。

 

 

 校内模擬試験が終わると、体育祭に向けて取り組みが始まった。一二年に続いて坊太郎は応援団員になり、早朝から放課後まで毎日、練習に励んだ。数学零点のショックは続いていたが、応援練習をしている間だけは忘れられた。

 色別対抗の組優勝は逃したが、応援合戦だけは優勝した。とりわけユニークなプログラムを組んだ訳じゃなかったが、演舞の完成度が抜きんでて高かったと評価された。フィナーレの行進では団旗を持った坊太郎を騎馬を組んだ二年団員が担ぎ上げてくれて、歓喜の中トラックを一周した。クラスマッチほど期待も興味もなかった体育祭だが、やはり高校生活最後だと思うと胸にこみ上げるものがあった。心地よい疲労感と、その高揚感の中で、坊太郎は加奈子に告白することを決めた。

 

 

 翌日、代休の午後、駅そばの公衆電話から加奈子んとこに電話した。もしもし山下ですが、と切り出せば喜んでくれると思ってた。最悪でも、ああ坊太郎?どしたの急に?くらいの反応はあると思っていたのに、山下ですがと切り出した坊太郎に、山下さんってどちらの山下さんでしょうか?なんて問い返すから、出だしから凹んだけど、まあ結論から言えば悪くないと思った。

 俺と友達になってくれん?って切り出したんだ。顔見知りの加奈子に今さら友達はないだろとも思ったが、いくら幼なじみでも、最近は学校で口をきくこともないし挨拶すらしない訳だから、やっぱそれしかないだろって思った。そりゃ別に構わないけど、何でまた唐突に?なんて返ってきたら、それがさあ最近お前の事が気になってしょうがないんだよな、好きになったみたい、なんて言おうと思ってたのに、友達?ってどのくらいの友達?なんて言うので絶句してしまった。多分、恋人みたいな特別な友達は無理だよって言いたいんだろうなって思ったから、いや、昔から知ってるのに挨拶も話もしなくなってるし、そういうのって寂しいなって思ってね、って伝えたら、そう言われてみれば、同じ中学の人と疎遠になってるよねえ、って同意してくれ、最終的には、学校で会ったら挨拶して、時々電話で喋るくらいならいいんじゃない?って言ってくれたし、おまえさあ、俺の事どう思ってる?嫌いか?って聞いたら、嫌いなわけないじゃん、相変わらず面白い人じゃなあって思っとるけどね、なんてクスクス笑ってくれたから、つい調子に乗って、俺、おまえの事好きなんで、もちろん異性としてじゃけどの、なんて口走ったりした。

 翌日、さっそく廊下で加奈子に出会ったから片手を挙げてウッスって笑いかけたら、一応、頷いてくれたがびっくりしたようだった。坊太郎としては挨拶のあと、おまえってどんな音楽聴いちょるん?と「TAKANAKA」のカセットを渡すつもりだったのに、加奈子は元バスケ部キャプテンの中森さんとかと一緒で、事情のわかってない他の子達は、はあ?なに?セクシーGK、ちょっと加奈子あんたどうなってんの?みたいな感じで、結局渡せずじまいだった。昼休みも、誰かを訪ねて教室まできてたから、廊下に出る時に、よお、って笑いかけたら、ジャンボ北島が、え?セクシーGK、津田さんとつきあってんの?なんて言い出すから、なわけないじゃん、ただの友達だよ、って誤魔化したが、なんだかワクワクする感じまでは隠せなかった。こうやって挨拶を交わして、隙あれば立ち話に持ち込み、たまに電話してノリが良かったら映画なんかに誘えば、いつか俺の気持ち、わかってくれるんじゃない?って思った。

 次の日も朝いち、坊太郎の教室の前、誰もいない廊下に加奈子が一人で立っていたから、おお、おはよ、って挨拶して、今日は自転車じゃないん?って聞いたら、うんまあ、汽車できたけえ、と言ったが、なんだか浮かない感じなので、どしたん?って言ったら、あのね、友達ならええ言うたけど、やっぱ無理かも、なんて言い出すので青くなった。まだ一回電話して、あと「ウッス」と「よお」だけなのに、まだ全然友達じゃないじゃん、って笑ったら、加奈子は全然笑ってなくて、でも、やっぱ無理じゃけえ、ごめん、わたしね、ってまだ何か言いかけたけど、運悪くバスケ部の子が来たから、そこで会話が途切れてしまった。

 夜、電話をしてみた。昨日から電話しようとは考えていたが、予定してた電話とは随分違う電話になってしまった。この前は、途中から終わり頃にかけて、クスクスわらったりしてウェルカムな雰囲気で、もう少し話せばよかったなあって感じだったのに、今日はずっと頑なな感じで、たった一日でなんでこうまで変わるのかな?と不思議だった。

 友達ならええよ言うたけど、やっぱ無理かも、と加奈子は繰り返した。理由を聞いたら、坊太郎が異性として好きじゃとか言うんじゃもん、と答えた。異性として好きじゃっていう相手と付き合うたらもう友達じゃのうて恋人になるじゃん、って言う。いやいや、いくら好きでもいきなり恋人にはなれんじゃろ?最初は友達からじゃろ、いろいろ喋ってもっと好きになるかもしれんし、その逆もあるじゃん?って頑張ったけど、でもやっぱそういうの意識するし、坊太郎の気持ちには応えられんもん、と言い張った。

 友達になるって言ったって、毎日、一緒に登下校したいって訳じゃないし、毎日、喋ったり電話したいって訳でもないし、お互いこれまでのペースを崩す必要はないと思うんじゃけどなあ、と言ったら、それじゃ友達じゃないじゃん、って言うから、え?そうじゃないでしょ?って思った。それは見た目だけの話で、一緒にいないし話もしないけど俺達友達だよなってのと、友達じゃないから一緒にいないし話もしないってのは生きるか死ぬかくらい別物なんだと坊太郎は思った。

 歳を取ってお爺さんになって思いだした時に、そういやそんな奴もいたなあ、って思うのと、もう一回あの友達に会いたいなって思うのとが全然違うようにね。だから、そこをなんとか、わかって欲しかったけど、加奈子はゴメンネしか言わなくなったんで、こりゃ駄目だわって思って電話を切った。

 加奈子との電話を切ったら、ラジオ局から電話がかかってきた。なんでラジオ局から?って思ったけど良く聞いてみたら、以前に応募した受験番組インタビューの件だった。坊太郎の高校から他にも応募があったから、明日、坊太郎も含めた三人にインタビューに行きたいとの事だった。正直ラジオ出演なんて気分じゃなかったけど、自分で応募したものを拒否するのもおかしいかなと思い、渋々承諾した。

 

 

 インタビューは放課後、校長室横の会議室で行われた。

 坊太郎以外は、理数科の男子と国立文化系の女子、どっちも知らない子だった。進路決定の山場を迎えているこの二学期、将来の夢と現実との狭間で気持ちが揺れ動く不安定な時期だよね、それはラジオを聴いてる受験生もみんな一緒なんだ、だから君たちの素直な夢と悩みを、正直に語ってくれれば良い。聞いてくれている受験生もきっと共感してくれると思うから。ラジオ局から来たという中年のおじさんは、そんなふうに説明をして理科系の男子にマイクを向けた。誰からでもいいよ、と水を向けたら、理科系の男子が手を挙げたのだ。

 

  自分はとにかく東京に行きたいっす。こんなド田舎に燻っているのは御免なんで、とにかく一日でも早く

  東京に行きたいっすね。花の都大東京。で、中古でいいんで派手なアメ車、キャデラックがいいっすね

  、それ買って、それに彼女乗っけてディスコに行くんすよ。え?彼女?今、いません。っていうか田舎

  の女の子には興味ないんで。もち、東京に行ってから彼女は作るんすよ。で、今は毎日6時間、家に帰

  って猛勉強してるんすけど、その夢があるからがんばれるんっすよ。将来どんな仕事に就きたいかです

  か?、全然考えてないですね。とりあえず一部上場企業であれば、どこでもいいかなってくらいですか

  ね。そこはこだわりはないですけど、東京と外車とディスコと女の子にはこだわります。悩み?ないっ

  すね。全然ないっす。一応、志望校も合格圏にいますから、この調子であと半年、がんばりますよ。

 

 ディスコ野郎の次は、国立文系の女の子だった。

 

  私も東京に行くつもりです。私には今、つきあってる彼がいるんですけど、私も彼も映画が大好きなん

  です。同じクラブ、文芸部で、そこで知り合って仲良くなったんですけど、きっかけは映画でした。一

  年の終わりにつきあい始めて、地元や広島の映画館に行くようになって、もう今までで100本以上観

  たと思います。で、彼も私も将来は映画に関わる仕事をしたいねって話しあってます。私は英語が大好

  きなので、映画の字幕を書く人っていうか、あの翻訳をする人になりたいんです。だから東京の外国語

  大学が希望です。彼はシナリオライター、っていうか脚本家志望ですね。文芸部では小説しか発表して

  ないんですけど、これまで書き貯めた未発表の脚本が何本もあるんです。良いのを書くんですよ。彼、

  才能あるんです。悩みですか?悩みは、ないですね。とにかく今は二人で夢に向かって進んでいくだけ

  です。もしダメだったらなんて考えてる暇あったら映画観にいきます。

 

 ディスコ野郎みたいにど派手な外車に加奈子を乗っけて踊りに行きたいなんて、考えた事もなかったけど、じゃ映画カップルみたいな感じで、加奈子と同じ未来を目指したかったのかって聞かれたら、それも違うよなって思った。

 たしかに映画カップルが愛し合ってる感じはうらやましいけど、そんな大それた事を求めてたわけじゃない。そう、自分が加奈子に求めていたのはもっともっとささやかな幸せだ。野坂昭如の小説に出てきた清太、節子のドロップ缶みたいな。と、そんな事を考えていたら坊太郎の番になった。

 

  生き甲斐だった部活も引退、さぼってばかりいたお陰で成績はクラスでビリ、夏休み中取り組んだ数学が

  なんと零点。これといった夢も希望もなく、受験勉強もせずにビールかっくらって寝てばかりいるボンク

  ラ野郎、セクシー鼻血GKの山下坊太郎でーす。敬愛する担任の先生には、今の成績では日本中、いや世

  界中を探してもお前の入れる大学はみつからんぞなんて脅されてます。今、まさに崖っぷちのバカヤロウ

  ですが、そんなクズ野郎でも大好きな人がいます。

 

 なんて思いっきり自虐ネタで切り出した坊太郎だったが、あとは思いつくまま、口任せで喋った。どうせ、夢も希望もないボンクラ受験生の戯言なのだ、編集でカットされるに決まってる。電波に乗るはずもないと思えば気が楽だった。 

 

  俺はただ彼女と友達になりたいだけなんだよね。恋人なんかじゃなくてもいいんだよなあ。自分の気持ち

  がちゃんと伝わってて、彼女も俺の事を気にかけてくれてるっていう手応えがあれば、それで満足なんだ

  よ。一緒に登下校しなくても、学校で話したり電話したりしなくても、その手応えがあるかないかで、日

  常って全然違ってくるでしょ?。彼女みたいな素敵な友達がいるっていう実感があれば、それだけでがん

  ばれるよね。彼女の笑顔を見るだけで勇気が出るんだよ。ずっとずっと私の大切な友達だよって、彼女が

  言ってくれれば、俺は空だって飛べる。だから彼女とは、そういう友達になりたかったんだよなあ。挨拶

  からでもいい、いつかそんな友達になれたらって願ってた。卒業したらもう会えなくなるね。離ればなれ

  になっても、大人になっても、たとえお爺さんとおばあさんになっても、多分、俺は彼女のことを忘れな

  い。俺には高校の時、大切な友達がいたんだよって思い出すはず。あいつ今どこで何やってんろうなあ?

  会いたいなあ、ってね。いいよね?それくらい。

 

 

 

 衣替えがあり、半袖白の開襟シャツが消えて、黒い詰め襟学生服に変わると校舎内の雰囲気ががらりと変わった。中間テストも終わった。さすがに零点はなくなったものの、坊太郎の出来は相変わらず低調なままだ。

 そんなある日のLHR。唐突にパネルディスカッションをやるぞ、と井村頼信が言い出した。タイトルは「高校三年生二学期の男女交際」ジャンケンで選ばれた坊太郎と是枝さんが賛成積極派と反対消極派に別れ討論することになった。私、賛成積極派が良い、と是枝さんが言うので譲った。

 

 もう三年の二学期と言やあ、いっちゃん大事な時じゃない?そんな時に好きだ嫌いだで相手を惑わせちゃ駄目でしょう、と坊太郎が心にもない事を言うと、是枝さんは、高校三年の二学期が大切な時って言うけど、二学期ならもう進路は決まってるでしょ?この期に及んでまだグズグズしてる人はいないはずだし、目標が決まってるんなら、お互い励まし合って頑張ればいいじゃん、と賛成の理由というよりは、もう討論が始まってる感じで、ほぼ反論みたいな意見を言った。

 

 坊 でも、まだ進路に迷ってるとしたら?

 是 じゃあ、相談にのってあげればいいよ。一人で悩むよりは二人。三人寄れば文殊の

   知恵って言葉もあるくらいだし

 坊 でも、気になってる相手に相談にのって貰うってなかなか

 是 男友達にはなんだかんだ言ってない?お前どうしたらええ思う?とか

 坊 いや、それは男友達とは違うでしょ

 是 そこがおかしいんだと思うな、なんで女だとダメなの?男女の友情ってあると思う

   よ、一目惚れってのもあるけど、まずは友情からでしょ

    坊 そうかなあ、でも好きって意識しない?言う方も言われる方も

 是 だって友達だよ、好きに決まってんじゃん、嫌いな子と友達にはなれないよ

    坊 その好きじゃないような気もするけどなあ

 是 どの好きよ

 坊 だって男同士の好きって、あいつ良い奴だよなって思っても、すぐ忘れるけど、異

   性の場合、ずっと引きずるっていうか

    是 夜中に電話したり?

 坊 あそう、そういう系の

 是 日曜日、映画行かない?みたいな?

 坊 うん、ずっと一緒にいたいなあとか思うじゃない

 是 じゃあ男友達には夜中電話しない?日曜日に映画いかないの?

 坊 いや、まあないことはないけど

 是 じゃ一緒じゃん

    坊 だから特定のつき合いがダメなんじゃない?普通の友達みたいな感じならいいけど

    是 でもたとえ同性の友達でもつき合いに濃淡があるよね。気があうあわないがあるし。 

    坊 まあね

 是 いいなと思ってる相手でも、仲良くなって一緒に話してみれば、やっぱあわない部

   分は見えてくるけど、それ以上に良いなとか凄いなって尊敬できるとこも解ってき

   て、嫌なとこもあるけど、でもやっぱ好きだなって思えるようになる。そういう感

   じで特定のつきあいになって行くわけで、最初から特定のつき合いなんかできるわ

   けないし、反対にもしかしたら良いところたくさんあるかも知れないのに、見よう

   ともせずに最初から無理だよって拒否するのもおかしいよね

     坊 そう、最初から拒否するのはおかしい

 是 で、大切なのはあの人が自分の事わかってくれてるっていう実感っていうか、自分

    の気持ちをちゃんと感じてくれてて、相手も自分の事を大事に思って、いつも気に

   掛けてくれてるなっていう手応えなんじゃない?

 坊 一緒に過ごす時間じゃなくって?

 是 そう、お互い忙しいから日曜も会えないし、電話もできないけど、自分には気に掛

   けてくれている人がいるからダイジョウブっていう安心感なんだよね、それがあれ

   ば、いくらでもがんばれる

 坊 安心感かあ

 是 そう、例えば黄粉パンみたいなね

 坊 黄粉パン?

 是 そう私はあれでがんばれたよ、坊太郎のお陰だね

 坊 そお?

 是 だって私が黄粉パン好きだって知ってたの坊太郎だけだよ、ああ、坊太郎ってこう

   いうのわかってくれてるんだって思えて嬉しかったし 

 坊 いやいや、俺だって感謝してるよ、一番凹んでた時に黄粉パンもらって、あんとき

   の黄粉パン、すげえ美味かったなあ

    是 まあそれはそれとしてさ、好きって気持ちが伝わってたら、それだけで強くなれる

   んじゃないの?みんな

    坊 一人で歩いてても、いつもそばに居てくれるような?

 是 そう、上手いこと言うね坊太郎

 

 おいおい、お前ら、なに二人の世界に入ってんだよ、って井村は苦笑いし、聞いていたクラスの連中も呆れてたけど、なんとなく話がまとまってしまった。是枝さんの意見はいわゆる正論で、そのとおりだと納得するんだけど、その一方で、理屈ではわかっていてもどうしようもない感性もあるんだよなって気もしていて、なぜ加奈子が坊太郎を受け入れなかったのかわかったような気もした。加奈子の言ってた事は全然納得できなかったけど、それは加奈子にだってどうしようもできないことだったんだろうなって。

 

 

 

 冬服にも違和感がなくなり、そろそろ二学期末に行われるビッグイベント、合唱コンクールの話が出始めていた頃、暫定的に受験先を決める一回目の親子進路相談が行われた。最終決定は二学期末の期末懇談会になる。

    坊太郎は一期校も二期校も国立は受けない事にし、井村の薦めに従って史学科のある私立大学を三つ受ける事にした。

 その夜、勉強していた坊太郎はラジオから流れてくるアナウンスにドキッとした。例の予備校提供の番組で、今日は山口県の高校で受験生にインタビューです、なんて言い出したのだ。すっかり忘れていたインタビュー取材の一件を思い出した。まさか自分のインタビューが流れるんじゃないだろうな?と青くなったが、そうか、あのディスコ野郎と映画女子で決まりだよな、と二人のインタビューを思い出し、少し安心した。坊太郎のクズみたいな戯れ言に比べれば、成績優秀で夢も目標もはっきりした二人りの話は充分放送する価値があると坊太郎も思った。耳を澄ましていたら、予想通り冒頭、映画女子の声が流れたが、次に、生き甲斐だった部活も引退、さぼってばかりいたお陰で成績はクラスでビリ、夏休み中取り組んだ数学がなんと零点。これといった夢も希望もなく、受験勉強もせずにビールかっくらって寝てばかりいるボンクラ野郎、なんてセリフが聞こえてきて、はて?ディスコ野郎ってこんな事いってたっけ?と首を傾げてたら

 

 セクシー鼻血GKの山下坊太郎でーす

 

 という声が聞こえてきて、坊太郎は腰を抜かしそうになった。