はるのうた 前編 その①

                                                 

 

 山口県の教員採用試験を受けるため一晩下宿に泊めてくれと友人の所(という名前)に電話をしたのはちょうど一月前。岩国にある出身高校で教育実習を終えて京都に戻ってきた次の日だった。まだ梅雨も明けきらずそぼ降る雨の夜、銭湯の帰りに雨傘を差しながら京都は右京区太秦馬塚町バス停そばの公衆電話から電話した。所は山口大学教育学部の学生だ。それまでも何度か山口の下宿は訪れ、夜中でも常に誰かが出入りしているような学生下宿の雰囲気もわかっていたし、名前は忘れたがあそこの住人の何人かとは大酒を飲んで随分親しくなっていたから、気兼ねをする必要などないと思っていたし、良くすれば採用試験がらみで山大生だけにほのめかされた極秘情報なんてのも聞けるのではないかと思っていた。そもそも承諾などいらず、突然押し掛けて一晩泊めろと言ったって支障はないはずで、ましてや一ヶ月も前に連絡するのだから当然所も快諾してくれるものと思っていたのだが、電話に出た所は即答せず一瞬唸った。は?あかんのか、嘘やろと質すといやと短く答え、再び絶句し、寝るだけやしな、かめへんやろがと言うと、おお、おおと二回繰り返し、おお、ええでと三回目にやっと了承した。公衆電話とはいえボックスではなく、一本足の四角い郵便ポストのようなやつで、雨よけはなく、傘を持つ手に石鹸箱やらひげ剃りやらを入れた洗面器を預けた格好でもう一方の手で受話器を持っていたから、雨は容赦なく垂れTシャツだの短パンだのを濡らし、その方が気になって仕方なかったので、その時は所のぎこちない対応もさして気にならなかったのだが、思い返してみればその時、ちょっと妙ではあったのだ。

 京都からまっすぐ山口まで行く予定だったのに、うっかり岩国の実家に電話したところ、どうして実家に寄らないのかと母親に小言を言われ、やむなく忙しい中一晩実家に寄った。こっちゃあ企業訪問など一切せず、教職一本にかけているわけで、しかも願書は山口と広島しか出してなかったから、実家の生ぬるい空気を吸って気合いが弛むのがなにより嫌だったので相当抵抗したのだが、お父ちゃんがどうしても話したい事があるんとなんて意味深な事を言うもので、まさか体調でも崩しているんじゃないだろうななんて気をもんで、やむなく一旦帰郷した。しかしいざ帰ってみると父親は元気で、母親もいつものようにつまらない地域ネタの話題を喋り、笑い飛ばしており、やっぱり直接山口に行くべきだったと後悔した。

 翌日の朝、父親は、まあそう火になってやるこたあなあわ、先生だけが人生じゃあるまあし、先生になれにゃあ国鉄に入りゃあええといつもの科白を言い残して出勤した。

 夕方、山口の駅に着いた。十五万で買ったと年賀状に書いてあったポンコツのカローラ1300ハイデラックスで所が迎えに来てくれた。昨晩、所はわざわざ岩国の実家まで電話をかけてくれたのだが、その時、多分夕方になるだろうと伝えておいたのだ。京都も大概やけど、山口も蒸し暑いんは負けてへんなという関西弁での挨拶に、エアコンついちょらんけえのと長州弁で答えたきり所は何も言わず車を走らせた。何度か山口は訪れた事があるとはいえ、毎回人の車に乗せてもらって来ていたわけで、山口の地理には疎かったが、そうはいっても所の下宿が山口の駅から南の方向にあった事くらいは覚えており、逆の北方向に進む車に疑問を感じ、どこ行きょうんやと山口弁で尋ねても所は無言で、なるほど、早速メシでも食おうちゅう事かと独り合点しても反応はない。なんじゃ、どうしたんじゃ、お前何かあったんかと聞くと、やっとこさ口を開き、ちょっとと口を濁し、愛想笑いに逃げた。ちょっと、と言って笑うのはこいつの得意技だ。こいつが、ちょっと、と言うのは、言い換えれば、あまりにもややこし過ぎてわかるように説明するのは無理なのだとか、いくら親友のおまえでもさすがにこれだけは秘密なのだとか、そんな意味だというのは、中学からのつきあいだから、わかっているわけだけど、ぶっきらぼうな言い方をせず、ちょっとという言葉で誤魔化して、そのうえお愛想笑いに逃げ込んだりするところが、所の所らしいところだ。こいつが、ちょっと、と言う以上、ちょっとって何やと問い質してもそれ以上を語る気はないのはわかっているのだから、聞きはしなかったが、なにかあるなとは思った。

 

 車が止まったのは、住宅の建て込んだ地域の、表通りから一本道を入ったところにある、背の高い建物の前だった。こいつの下宿はたしか田圃の中にある平屋の一軒家だったはずで、玄関が一つで、中庭を取り囲むような回廊形式の廊下に沿って部屋が七、八部屋あるという学生下宿だったから、夕焼け空に映るシルエットからして別の場所だとわかった。所は車から降りると躊躇なく一階に二つ見えている入り口の右側の方に歩いていきかけたが、車に乗ったまま降りようとしない自分を見て、引き返し、運転席側のドアを開けて、ここっちゃ、降りいやと顔をのぞかせた。ここっちゅうて?と所の顔をのぞき込むと、ああ、引っ越したのっちゃと目を逸らした。引っ越した??素っ頓狂な声を上げ、助手席から降りて見上げると、その建物は新築に近い、白塗りの壁も眩しい小綺麗なアパートだった。所がちょっと、と言い淀んだ訳がこれだったのかと思ったが、そんな事より、よりによってなぜ新築アパートなのか、まったく理解できなかった。中学からの友人なわけでこいつの実家が普通のサラリーマン世帯で、さして金持ちでない事は重々承知しており、仕送りの金額についても大まかには把握していたから、こいつの仕送りではあの学生下宿でさえぎりぎり、ましてやこんな小綺麗な新築アパートなど住めるはずもないと思った。所を呼び止めて、その疑問を口にしかけた時、ふいにアパートのドアが開いて中から、いらっしゃいと声がした。無人のはずのアパートに人がいたことにも驚いたが、その声が女のそれだったことには更に驚いたというか、仰天した。こいつには弟が一人いるが、妹も姉もいない。一瞬実家の母親でも来ているのかと思ったが、声は中年女性のそれではない。声に続いて出てきた明るい笑顔は同年代の、女性というよりは女の子との言い方の方が似つかわしい若い子のものだった。

 友達っちゃと所は言い、俺と目が合うと照れくさそうに視線をずらして、その子のほうを見、のっ?と相づちを求めたが、その子はへえ友達だったんだと拗ねたような笑いをしてみせる。所は慌てて、否、仲のええ、そ、そう特別な友達っちゃと付け加えた。

 

 アパートは入り口を入ったところが台所で奥にもう一部屋畳の六畳間があった。所に続いて奥の部屋に入ると真新しい畳の臭いが鼻をついた。引っ越したばかりなのか、家具類といえば小さめの座卓と扇風機それに畳に転がっているラジオくらいのもので、やけに殺風景ではあったが、畳の部屋から台所を見ると、隅にはトイレ一体型のユニットバスと思われる二つ折りのドアが見え、ひどく驚いた。所謂不動産用語でいえば1Kバストイレ付きというのだろうか。自分の京都の下宿はというと、風呂は銭湯、トイレも流しも共同のただの六畳間で、KもDKもLも、押入さえもない、ただの1だったから、バストイレ付きには恐れ入った、

 

 その子はミカと言った。姓名の姓のほうはわからなかったが、所がミカ、ミカと呼んでいたからミカというのだと思った。もちろんどんな字を書くのかもわからなかったが、勝手に美しく香る、美香と書くのだと思った。そんな子だった。とりわけ背が高くプロポーションが良いわけでもなく、整った顔をしているわけではないが、同じ教室にこの子がいれば、ついそわそわしてしまうような、大学の構内ですれ違えば、おや?っと振り返ってしまいそうな華やいだ空気を身にまとっていた。年格好から同年代であることはわかっていたが、果たして山大の学生か否か、違うのであればどこの学生なのか、はたまた働いている人なのかも見当がつかなかったが、二人のやりとりのなかに、時折ソツロンとかゼミとかいう単語が出てきたのを聞いて恐らくこの子も山大の学生なのだろうと思った。

 ミカって子は、所が駅に迎えに行っている間ずっと準備をしていたのか、手際よく台所でハンバーグを焼き、座卓にそれを運び、さあ食べましょうと標準語で喋り、食べ終わったら食べ終わったで、ゆっくりしていてねと席を立って風呂を入れ、台所で洗い物をし、風呂が入ると、暑かったでしょ、汗流せば?と一番風呂を勧めてくれた。

 手料理を作ってくれ、おまけに人妻さながらに家事をしてくれる女友達なんてのは、たしかにただの友達なんかではなく特別な友達と言うべきだとは思ったが、それはそれとして、洗い物が終わったらじゃまた来るねなんて言って自分の下宿かアパートか実家かに帰るのだと思っていたから、それまでの我慢と、京都の卒倒しそうな蒸し暑さだとか、琵琶湖で繁殖した藻が原因で臭くて飲めない水道水の事だとか、祇園祭の山鉾引きのバイトで転げて危うくひき殺されそうになった友人の話だとか、当たり障りのない話をしておいた。ミカって子はおまえの何なんじゃ?お前ら一体どういう関係なんじゃ?と、さっきからもやもや胸の内でくすぶっている気分をぶつけてやるのは、ミカって子が帰ってからにしようと思っていた。

 勧められるまま風呂に入り、全身に粘膜のようにへばりついていた汗だの垢だのを洗い流し、さっぱりして居間に戻ってくると、扇風機の前で雑誌かなんか読んでいたミカは、じゃ私もお風呂もらうねと立ち上がった。

 てっきり自分が風呂に入っている間に下宿だかアパートだかに帰っているものだとばかり思っていたので、風呂から上がった時にミカって子がまだいることに、少し驚いたのだが、じゃあ、私もお風呂をもらうねという一言には、腰を抜かしそうになった。驚きついでに言えば、ミカって子は六畳間と隣りの台所を仕切るガラス戸を閉めたかと思うと、その台所の隅で、キュロットのスカートとTシャツを脱ぎ、赤と青の細かいチェック柄のパンティーと同じ柄のブラもさらりと脱ぎ捨て(磨りガラス越しにその様子が手に取るようにわかった)風呂に入った。

 ミカがいなくなったのを幸いに、おい、こりゃ一体どういう事なんじゃと詰め寄ろうとすると、わしゃ明日の採用試験は受けんけえのと所が言った。ミカって子と所が一体どういう関係で、なにがどうなってこうなってるのかという問題も大問題で、すぐにでも問いただしたい気分だったのだが、明日の採用試験は受けないという、その一言は、そんなミカって子のことを、それどころじゃないぞと思わせたり、一瞬にして忘れさせたりして、そ、それってどういう事よとどぎまぎさせるだけのインパクトがあった。

 どうせ今年受けても無駄っちゃ、と所は笑い煙草に火をつける。こっちは企業訪問などまったくしておらず教員採用一本に絞っているわけで、言ってみれば背水の陣、天下分け目、雌雄を決する決戦の場ぐらいの覚悟で来ているというのに、なんだこいつのたるみきった態度は。ミカって(割と可愛い)女の子を同じ屋根の下に連れ込んでいる(かどうかは、まだ未確認で、単なる偶然みたいなものであってほしいと願っているが)この事実と相まって、他人事ながらむきになった。おい、冗談いうなっちゃ、教育学部の学生が採用試験を受けんでどうする積もりなんか、とまるで所の父親みたいに叱りとばすと、来年受けるけえ、ええっちゃと煙草の煙を鼻から抜く。もう留年を覚悟したと言うのだ。馬鹿言うな、受けるだけ受けえやとしつこく言うと、じつは願書を出しちょらんのんじゃ、へへっと舌を見せる。まあ、そうかりかりすなや、人の事はどうでもえかろうが、お前も一服せえ。所は自分の煙草を勧めてきたが、そねえなもんいらん、わしのがあるっちゃと声を荒げ、自分の煙草を掴んだものの箱はからっぽ。指を突っ込んで探ってみても何も手応えがなく、忌々しいが、やっぱり呉れと一本もらって火をつけた。

 ミカは暑い暑いと両掌で顔を仰ぐような仕草をしながら、パンティーとTシャツだけの姿で風呂から出てきた。赤と青のチェック柄だったはずのパンティーはピンク色でおへその下のところにスミレのような可愛い花の刺繍のしてあるものに代わっていた。ミカはさっき俺が使った黄色いひまわりの柄のバスタオルを頭に乗せて所のそばに来、体操座りをして所と俺の方に首を振っていた扇風機の首を止めたかと思うと、もらうねといって自分の方に固定し、肩まで伸ばしていた髪を乾かした。パンティーのおへそのところにスミレの刺繍がしてあるのは、もらうねと言った時、いいよと答えるついでに、体操座りしているその股間を盗み見たからわかったことなのだが、そうした行動が日常茶飯事でこれといって特異なものでないからなのか、下着姿で見知らぬ男の前に現れる事に、ミカって子も全く無頓着だったが(それはさっきの風呂へ入る前の脱衣行為の時のも感じた事なのだが)、驚いた事に所もそうで、おいっと声を出ししかめ面をして、俺以外の男の前でそんな淫らな姿をさらすんじゃないよと目配せでもしそうな場面なのに、まったくそんな気配はなく暢気に煙草を吸っていた。二人が日常的にセックスをしているのは確実だった。小柄なミカが扇風機に煽られる髪の毛を掻き上げるたびに、ブラをつけていない乳房が揺れるのがTシャツの上からでもわかった。

 所が風呂に入っている間、六畳間の押入の前に移動し採用試験の過去問を開いて復習する振りをした。ミカという子は相変わらずの格好で扇風機の風で髪を乾かしていたが、ごめん気がつかなくて、と途中扇風機の首を回してくれ、明日の試験は何時からと聞いてくる。九時からっちゃと過去問から顔を上げずに答えると、じゃあ六時に起きれば充分間に合うねと一人ごとのように言い、パンぐらいは焼いてあげるけど、お弁当は作れないから、ごめんねと片手を顔の前で垂直に立てて笑った。

 え?

 この子、泊まるつもりなんだ。と過去問の解答欄に書き込んだ。

 

  山口大学の同棲率が五〇パーセントを超えているという噂は聞いていた。そもそも山口という町、県庁所在地とはいえひどく田舎なのだが、大学がある地区は、その田舎でも、さらに田舎の地区であり、住宅街と呼べる地区はほんのわずかしかない。徒歩でも数分歩けば田園地帯に出るほどだったから、学生の娯楽と呼べるものは無いに等しいというか、ない。退屈した学生は精力だけは余っているわけで、水が低きに流るるが如く、そうなってしまうらしい。

 所は面白い男だ。中学の頃、音楽の話になった。俺がサイモンとガーファンクルの歌が好きだと言い、中でも三拍子が印象的なアメリカという曲が最高なんだとうっとりとし、口ずさんでみせると、なんでアメリカなんだ、と所は言った。なんでアメリカなんだとはどういうことだと言うと、なんでエジプトやインドやロシアやアルゼンチンじゃないのかと言う。いやいや、何を頓珍漢な事を言ってるんだ、それは曲の名前であって、それだけの事だし、そもそも俺はフォークソングが好きなだけで、日本の吉田琢郎も好きだと言うと、そんなのボブディランの猿真似であって、元を辿れば所詮アメリカじゃないかと言う。何が言いたいのか、俺がサイモンとガーファンクルやら吉田琢郎やらボブディランが好きだと、どうだと言いたいんだと喧嘩腰で言うと、誰の音楽が好きでも構わないが、なぜそれが好きになったのかは考えてみる必要があるんじゃないか、と所は言う。そりゃメロディーが良いし、歌詞も哲学的で深いからだと答えると、そんなことじゃなくて、たとえそこが楽園のような花園であったとしても、誰かに目隠しをされてその場所に連れて行かれたのに、まるで自分でそこを探し当てたような気分になって、喜んでいるんじゃないのかなんて言う。意味がさっぱりわからなかったので、そのことを言うと、だから、身の回りに氾濫している音楽の大半は占領国アメリカの音楽か、それの猿真似であって、それ以外の文化圏の音楽は耳にするチャンスがない。それはアメリカ音楽が素晴らしく価値があるから、世界中の音楽の中で淘汰され選ばれた結果そうなのだというのではなく、そういうふうに誰かがし向けているのだと感じた事はないのか、と言う。面倒くさかったので、お前頭おかしいんじゃないんかと腹立ち紛れに言い返し、その場はそれで済ましたのだが、その後、所が言った事はいつまでも頭の中に残った。あいいなと思った音楽があったときは、つい、これはどこの国の音楽だろうかと確認するようになったが、驚いた事に大半はアメリカの音楽だった。それだけじゃない、結婚した妻が魔女だったというテレビドラマにしても、猫と鼠が喧嘩ばかりするカートーンにしてもみなアメリカ製だった。テレビのアナウンサーは事あるごとに、今アメリカで大流行だとか、今ニューヨークで話題のとか、アメリカ発祥の優れものである事を強調した。その一方でアジアやラテンアメリカ、アフリカの情報は極端に少なく、イスラム圏の情報は皆無に等しかった。

 他にも、全くの暗闇にあるものは、たとえあったとしても、ないのと等しいから、ないと思いがちだが、それでも俺はあると思うが、お前はどう思うか、だとか、人間の成長はまっすぐな坂道を上るように直線的ではなくて、何度も異なった次元で原点に戻るような感じで、どこか螺旋階段的に上がって行くものだと思う、だから一八〇度人間が変わったという表現と同じように三六〇度人間が変わったんだという言い方もあると思うのだが、お前はどう思うかだとか、一見どうでもいいような事なのに、いつまでも頭に残って、気が付いたらずっとその事ばかりを考えているような事を、澄ました顔で次から次ぎに喋る。それは確かに魅力的で、それが故中学時代から今まで、京都、山口と大学が違ってもずっと付き合ってきているわけなのだが、魅力的だといっても、所が異性にもてるもてないの魅力とは別次元の魅力だと思っていた。女性にもてるもてないは、商店の店構えのようなものだ。店の中にきらめくような宝石があろうが、舌のとろけるような洋菓子があろうが、そんな事とは無関係に、入りにくい店は入りにくい。その一方で、大したものは置いてないのだろうなと薄々感づいていながらも、ついつい足を踏み入れてみたくなるようなそんな店構えもある。入りやすい、入りにくいは店の中身と相関関係はない。

 所はぶ男だ。目は細いし一重だし、鼻もさして高くなく横に広がっており、唇はかなりの肉厚だ。おまけにえらが張って見苦しい。そんなこんなの顔を形作るパーツがことごとく不細工な上に、それらの相互関係というか、配置の案配というのかが、個々の不細工さを越えて妙で、絶対的にぶ男だと言える。自分の事はさしおいてもそう言って良いと思う。だから、そういう店構えの話でいうと、いや問題は店構えではなく、要するに面構えの事なのだが、間違いなく所は入りにくいタイプの店構えであり、こいつの良さは一目みただけでは絶対にわからないし、否、見た目が良さをスポイルしているという点に置いては誰もこいつに叶うやつはいない。相当長期間同じ時間を同じ場所で過ごし、会話をせざるおえない状況にあるとか、そういう事がない限りこいつの魅力に気がつく女性など出てくるはずはないと思っていた。事実中高時代を通して所には女友達なぞ一人もおらず、これから先もよほどの事がない限りこの状況は続いていくだろうさと高をくくっていたのだ。あの大学で同棲できん奴は、相当変わっているか、どうしようもない不細工な奴なのっちゃと山大の同棲率を語る同級生たちは、みな同じ決まり文句を口にしたが、所はそのどうしようもない部類に入っていると信じて疑わなかった。

 だから、この状況は到底受け入れ難い。とりわけ中高時代、所と同等、いや、それ以上に全く浮いた話がなかった自分にとっては、まさに青天の霹靂、否、霹だの靂だのどころか大陸間弾道ミサイルとアポロ十一号が一緒に落っこちてきたぐらいの衝撃だった。

 

 勉強の邪魔をしちゃいけないから、夕涼みがてら散歩してくるわと、風呂から上がった所はミカって子と連れだってアパートを出ていったが、二人がいなくなっても動揺はおさまらない。もてないはずの所にあんな可愛い女がいた。しかも、所は、自分が未来を勝ち取るために必死になって取り組んできた採用試験を受けないという。ぴりぴりした緊張感の中、出題予想なんかを深夜まで話し合い、明日は頑張ろうぜなどと励まし合いながら床につき。翌朝も早朝から目を覚まし、よおしやるぞなんて気合いを入れたりしながら受験会場に向かう。そんなイメージで乗り込んで来たというのに、動揺するなと言う方が無理だろうと思うが、動揺の原因はそれだけではなかった。

 ミカという子はひまわりの花が大きく描かれたバスタオルで髪を拭いたのだが、そのひまわりのバスタオルはというと、ついその数分前まで俺が使っていたもので、とりわけひまわりの花の種がぎっしり詰まっているあの部分は、勃起した性器を入念に拭き上げた部分だった。それを知ってか知らずか(恐らく知らないであろうが)、ミカという子は、その種がぎっしり詰まったあの部分をわざわざ広げ、その部分に顔面を押し当て擦りつけるようにして、ああ、きもちぃとつぶやいたのだ。

 なんで風呂に入るくらいで勃起するんだよと叱られそうだが、いくら風呂に入るからという大義名分があるにせよ、同じ年頃の若い女の子がすぐそばにいる状況で自分一人だけが裸になるシチュエーションなどこれまでの人生で一度もなく、もしあの風呂場と台所を隔てている薄っぺらい壁がなければ自分のしていることはまさに変態そのものだよな、なんて考えていると、いつのまにかおかしな気分になり、股間は異常に肥大化してしまっていたのだ。肥大化したついでにと言ってはなんだが、どうせ変態もどきなわけだし、これくらいはいいだろうと、壁一枚隔てたその場所で、大相撲のように腰を割った格好で堅くなった性器を前後に揺すってみたり、立ち上がって気をつけをした姿勢で左右に振り回してみたりした挙げ句、バスタオルのひまわりの花の部分で勃起したそれを強く握りしめ、ああ、きもちぃとつぶやきながら、数回しごいてみたりしたのだ。

 二人が戻ってくる様子のないことを確認して風呂場に行ってみた。脱衣場の壁のハンガーに架けられ、見事な大輪を咲かせていたひまわりのバスタオルをもう一回見れば気持ちが落ち着くかなと思ったからなのだが(これほんと)、折り戸を開けると、ハンガーには何も掛かっておらず、ひどく気落ちした。見るだけでいいと思ってチラと覗いただけなのに、見えるはずのものが見えなかったりすると、チラと見えれば落ち着いたはずの気持ちは逆に乱れる。あのひまわりはどこに行ったのだろうと気になる。是が非でも発見せねばという気になる。よせばいいのに脱衣籠を覗いたりする。そうでなくても蒸し暑いのに、風呂はまとわりつくような湿気に満ちており、そのせいか(否、別の理由があると思う)一気に汗が噴き出し、額を伝って流れ落ちた。脱衣籠にもひまわりはおろかハンカチ一枚もなく、それじゃここかな?と洗濯機の蓋を開けると、底のあたりにひまわりの花を発見した。が、その脇には赤と青の細かいチェック柄の小さなパンティーと同じ柄のブラが添えられていた。

 流れからいえば、あの子が身につけていた下着を手に取り思わず臭いをかいでみたりし、欲情し、激しく股間をまさぐる場面だなと思った。京都でたまに立ち寄る三本立て三百円の成人映画で言えば間違いなくそう展開するわけで、さらにその後の展開はというと、散歩から一人先に帰ってきたミカって子が、まさぐっている場面を目の当たりにして、あらやだ、何やってんのなんてからかう調子の声を出す。からかわれた俺は、からかわれた事に逆上欲情して、ミカって子に襲いかかり……なんてのがいいななどと思ったのだが、自分が絶対に安全パイだと思いこんでいた所が、日常的にそういう野獣ごっこみたいな事をやってんだしと思ったとたん、入りにくい店構えの事だの、否、そうじゃなくて異性の気を引くことのない面構えの事だの、同棲できないどうしようもない不細工な奴らだのと所の事を語っていたのが実は自分の事だったような気がしてきて、急に盛り上がった気分が萎えてしまった。 

 六畳間に戻ると、過去問の別の解答欄に、同せい時代と殴り書きした。(同棲の棲の字が書けず、そこだけひらがなで書いた)

 

 22才になったというのに童貞である。そのことは誰にも話していない。

 地元の友人には京都で筆下ろししたということにしている。バイトで貯めた金(運送会社で引っ越しのバイトをしていたことは皆が知っている)を握って湖西線に乗り雄琴温泉のトルコでベテランのお姉さんにお世話になった。その半年後緒川よりこというゼミの女の子と仲良くなり、コンパの帰り京都ではアベックの名所で知られた加茂川沿いの堤防で定石通りいちゃつき、キス、ペッティングと済ませた後、植え込みの影でセックスした。そう話している。

 一方、京都の友人には広島の予備校に通っていた浪人時代に童貞を捨てたと話した。デパートのエレベーターガールだったお姉さんと仲良くなり、約束を取り付けた日曜のデートの時初キッス、二回目のデートの時ドライブに誘われ、ラブホにしけこんで筆おろしをしてもらったという夢のようなストーリーをでっち上げたのだ。その二つの作り話を京都、岩国の友人それぞれに話している。(ちなみに緒川よりこは実在の人物で、同じゼミ学生の中で一番キュートな子であり、憧れの子であったから、実名を使わせてもらうのは心が痛んだが、どうせ地元の友人が顔を合わせる事などないわけだからと借用させてもらった。デパートのエレベーターガールについては身内ネタで気色悪くもあるが、なにせそうした参考になる事例がなかったものでエレベーターガールだった姉と姉の旦那の出会いあたりを参考にさせてもらった)

 中学時代は生徒会長、高校ではサッカー部の部長。ギターは上手いし絵を描かせれば絵画コンクールで金賞を取り成績も優秀。普通こんだけ才能に恵まれとったら、女にもてんわけないがのお。こりゃ世界の七不思議にラインナップしてもえかろうと所は高校時代、ことあるごとにからかって来たものだ。確かに自分は、それなりに学年では目立った存在で同性にはかなりもてたのだが、異性からはさっぱりで、中高一環して女友達に恵まれなかった。浪人時代も二浪の不安のほうが大きく恋愛どころではなく、家と予備校の往復に終始し、友人達からは伝書鳩と揶揄されていたほどだった。大学に入学すれば全てが変わると信じてがんばったが、入学後も何等変化はなく、同じゼミの女子学生で憧れの子である緒川よりこにしても友人とは呼べるが、それは文字通り友人であり、セックスどころかキスの対象にさえならない。そんなこんなの救いようの無い童貞だった。 

 

 このでっち上げ話を所にしたのは大学二年の夏だった。他の友人と山口の所の下宿に遊びに行った夜、酒の入った席で、一緒に行った友人達が初体験を自慢たらたら披瀝してみせたのに負けじと見栄を張った。女に縁のなかった俺がトルコで筆下ろししたとたんに、女友達に恵まれ挙げ句野外セックスまでいたすというストーリーはあまりに荒唐無稽で、それまでの女性歴を勘案すればたちまち嘘が露見しそうなものだが、相当酒を飲んでいて酔っぱらっていたためか、安っぽいでっち上げ話しにも拘わらず、友人達はその話を真に受け、おお雄琴行ったんかとか、青姦かよと身もだえして興奮したのだが、所だけは、わしはまだしちょらんと童貞であることをあっさり認めた。なんやお前やりとうないんかと誰かが聞くと、そりゃやりたいっちゃと返し、ならトルコかなんかに行って筆下ろししてもらえやと言うと、ほうじゃの、わしも行ってみるわと極めて適当な返事をした。言葉とは裏腹に、絶対にそんな気がないのは聞いていてわかったし、あまりにもあっさり童貞であることを認めた事や、する気もないくせに、いい加減な返事をしれっと返すところが、まるで俺のでっち上げ話しのでっち上げであることを見抜いているような気がして妙に引っかかり、他の奴が寝静まった後、その話を蒸し返して聞くと、所はやった幸せとしたい幸せはどっちが大きいのかと聞いてきた。つまり、セックスをしてみたいと思い続けていたころの幸せと、実際にセックスしてみたときの幸せとどっちが大きかったのかと真顔で聞いてくる。そもそも、セックスしたなんてのは嘘なわけだから、そんなこと聞かれても、本当の事など答えられないわけで、答えに詰まったのだが、世間の常識から考えて、したあとの方が大きいにきまっちょるわと思い、その事を口にしてせせら笑うと、所はそんな俺のほうをじっと見ていたが、少しして、そういうもんかいのとつぶやいた。その仕草が、またしても俺のでっち上げ話しなんか、はなから気が付いているけどなと言っているようで癪に障ったから、お前何が言いたいんじゃと不機嫌な声を出すと、所は唐突にバンパクの話をし始めた。

 バンパクと所の口からその言葉が出てきた時、果たして何の事だかわからなかったけれど、人類の進歩と調和だの、月の石だのといった単語が出てきて、ああ大阪万博のバンパクかとわかったのだが、わかったらわかったで、なんでバンパクやねん、今はセックスの話しやろがと口を尖らせて言うが、所はそんなこと意に介さず、あのバンパクに行きたくて行きたくて仕方なかったんだと話を続けた。自分は全部のパビリオンの名前を覚えた。それに飽きたらず学習雑誌に付録でついていた写真入りのパビリオンカードで建築物の形まで憶え、写真を見ただけで、パビリオンの名前や見所、待ち時間のおおよその目安まで言えるようになった。クラスでも初めの頃は、金持ちで目立っていた数人が見物に行ったらしいと噂が立つ程度だったのが、夏休みが終わったころにはどっと増え、バンパク見物者はクラスの三分の二にまでなった。そうなると是が非でも行かねばと思うのだが、当時両親は友稼ぎで忙しく金もなかったようで、何度連れていってくれと頼んでもうんとは言わなかった。それでも諦めきれなかったから毎日三度三度インスタントラーメンを食べた。あんたなんでラーメンしか食べないのと、毎日三度三度ラーメンしか食べようとしない息子に向かって母親が言うもので、インスタントラーメンの袋に付いている応募券を何枚か貼って応募するとバンパクの入場券が当たるんだと、誰かから聞いた話をしてやると、それを聞いた母親は、そんな息子を不憫に思ったのか、それとも息子をバンパクに連れて行ってやれない身の上を嘆いてか、急にしくしく泣き出した。それからしばらくして親戚の叔父さんがやって来て、自分がバンパクに連れていってやろうと言った。その時の叔父さんの口調だとか顔つきだとかは今でも忘れられない。まるで叔父さんが神に見えたものだ。

 しかし、バンパクに行って、騙されたんだとわかった。自分は誰よりもバンパクに詳しい、誰よりもバンパクの素晴らしさをわかっていると自負していたのに、自分が見ていたのはマスコミが誇張して伝えたバンパクを、さらに脳内できらびやかに飾り立てた架空のバンパクだった。本物のバンパクで見たものは人と人と人で、やったことはといえば行列と早足と行列と早足と行列と早足、そして居眠り。それだけだった。行きたいなと思い続け、結局行かなければ、今も素晴らしい思い出として煌めいていたのだろうが、行ってしまったばっかりに、こんなことになってしまった。行った幸せと行きたい幸せを比べたら、何百倍も行きたい幸せの方が大きい。それはセックスも同じじゃなかろうか、そう思えてしょうがないんじゃと所は言った。

 本当なら、馬鹿言え、セックスとバンパクを一緒にすな、セックスしたいよりもした方が幸せに決まっちょろうがと自信満々に言い返すべき所なのに、口から出任せで大風呂敷広げた後悔のほうが先に立ち、しかも所の話が妙にリアルで説得力があり、そういうもんかも知れんのお、なんて小さな声で俺は答えたっけ。

 

 所、したい幸せとした幸せは、どっちがええんじゃ?。やっぱりしたい幸せの方がよかったと今でもお前は思うちょるんか?

 所のアパートの六畳間で一人、過去問の問題集を広げながら、あの時の事を思い出して、心でそうつぶやいた。

 

 さあ寝るか、と所は座卓を片付け六畳間に二つ布団を敷く。これっきり布団はないし、台所は板の間だからとてもじゃないが寝られないから、二つに三人じゃちょっと狭いが、まあえかろうと所は言うが、どうしてどうして、この六畳間に所とミカって子と一緒に寝るほうがよっぽど眠れないだろと思った。遠回しに固辞するが、駄目よちゃんと睡眠をとらないと、明日は大切な試験なんだからなんて、ミカという子も、意地悪なのか思いやりがあるのかわからないような事を言う。所が二つの布団の真ん中、左が俺、右がミカで電気を消した。俺は所に背を向けて横になった。網戸にした窓からはガマ蛙の鳴き声がうるさい。あっそうだ忘れてたとミカという子が電気をつけなおし、部屋が明るくなる。背中でマッチをこするような音がしたかと思うと、蚊取り線香の臭いがし、ミカって子は再び電気を消した。扇風機はミカの足許にあって首を振っていたから、凪の後腿から腰のあたりを風が撫で、そして再び凪となりの動作を繰り返し、窓からの蛙の鳴き声がそのリズムにシンクロした。

 所とミカは日常的にセックスしているのだろうと思ったが、さすがに今日はしないだろうと思った。この状況でさっきのあの会話の後で、いくらこっちが寝息を立て始め、実質悪影響はないと判断したとしても、それはないはずだと思った。ないはずだとは思ったが、あってほしいとも思った。成人映画でしょっちゅうセックスシーンを鑑賞していたとはいえ、映倫の親切な配慮で肝心要の部分はぼかしが入っており、実際に他人のセックスシーンを目撃した経験などない。もしや事が始まれば、またとないチャンスなわけで、こんなチャンスにうっかり背を向けていたばかりに寝返りも打てず、艶めかしい気配だけで悶々としながらも振り向けず見過ごすような事があってはいけないと考え、寝返りを打った。女性器など小学校の低学年の頃、水風呂で遊んだ時の姉やいとこのそれを垣間見たきりで、くっきりとした縦線以外の詳細は依然霧の中。電気が消えており、たとえいざ開始となったとしてもその詳細をじっくり観察とはいかないと思うが、そんなこんなが頭から離れない。しばらく息を潜めていたが、何も起こらず、所は微かないびきまでかき始める。少し拍子抜けするが、かといってすぐに寝付けるわけもない。今晩はないとしても、じゃあいつもはどういう感じでどういう流れでどういうふうに始まり、どう動きどうのけぞり、どう声をもらし、どう湿った音を立て?と想像すればするほど呼吸が乱れる。こう蒸し暑いとそもそも布団を敷いた時から全裸なのか、やはり電気は消すべきなのか、いや、電気を消すと肝心な部分が見えずせっかくの好事も台無しか、いやまて、女の子は暗いほうが大胆になるというし、燃えさかったあたりで懐中電灯かなんかでこっそり覗くほうが興奮度が高まるんじゃないか、でもそんなことして、何?あんた変態だったのねなんて言われ、嫌われたらどうする。うん、確かに変態だ。非常識極まりない。だが、しかし、やはり見てみたい。見たいものは見たい。じっくり落ち着いて、納得のいくまで。

 寝息をたてるどころか、股間はいきりたち、興奮で呼吸は乱れ息苦しい程で、目はらん

らんと冴えわたり。

 

 

 学生証を落とした。

 らしい。

 試験開始三十分前、試験会場の教室の壁に掛けられた古いスピーカーが学生証の落とし物がありましたと告げ、その学生証の主の名前を連呼するのを聞いて、落とし主が自分だと始めて気がついた。どこでいつ落としたのか全くわからなかった。落とし物を告げるアナウンスを聞いてせせら笑っていた自分と慌てふためいて事務室に受け取りにいった自分が別人であるような気がした。

 試験は始まりから終わりまで夢のようだった。できたともできなかったとも思わなかった。受験会場は冷房など一切ない地元の高校の教室で、目一杯開かれた窓からは衝撃波のような熊セミの大合唱が押し寄せてきた。風はおろか空気は淀んだまま動かなかった。ただひたすら蒸し暑く、頬を伝い顎から滴った汗が問題用紙にしみ込み、同心円状に広がるのを、植物の生育観察のような気分で見ていた。

 

 所とミカって子は結局セックスをしなかった。一晩中起きていたからわかる。お陰で意識は朦朧としたままだ。所には試験が終わったらアパートに戻ると伝えていたのだが、すぐに戻る気にはなれなかった。試験会場である高校を出ると街路樹の影を拾って、幹線道路をフラフラ歩いたが、しばらく歩いたところで、磯部さんの事を思い出した。

 磯部さんとは一ヶ月前、出身校である岩国の高校で一緒に教育実習をした女の子だ。山口大学の経済学部の四年生。同学年だが、一浪している自分からすれば一学年下の後輩ということになる。社会科の実習生は自分と磯部さんの二人だけで、必要に迫られてあれこれ話しているうちに俺の事を先輩先輩と呼び始め、自然うちとけた。実習終わりの日に、先輩絶対連絡してくださいねなんて住所とか電話番号を書いたメモを渡されたのをいいことに、実習後、手紙を出した。四月から取り組んできた採用試験の準備の進捗状況だの、夏を迎え溶けてしまいそうに蒸し暑い京都の様子なんかをとりとめもなく書き殴った手紙だったのだが、数日して返事が来た。返事にはいろいろ悩んだ末、民間企業を受ける事にしたので、自分は採用試験は受けない事、それでももし採用試験で山口に来るのなら、連絡してもらえれば山口市内の案内くらいはしますよなんてことが書かれていた。しかし、案内くらいはしますよというニュアンスは、どうしても会いたいから絶対に電話してねというものではなく、まあ世間話のついでに筆が走ったという感じで、もし真に受けて電話すれば、唐突感や違和感は免れないところだ。しかも試験の後は所や、名前は知らないが学生下宿で知り合った山大の学生達と酒でも飲んで憂さを晴らす積もりでいたので、ここに来るまで磯部さんに連絡するつもりはなかった。しかし、もしあのアパートに戻ればパアっと酒盛りなど望むべきもなく、またあのスミレだのひまわりだのに悩まされるわけで、あんな思いはもうご免だし、そんなことならいっそ岩国の実家にでも帰るかという気になっていたのだ。

 鞄の奥にしまっておいた手帳を探ると、あのとき磯部さんからもらったメモがはさんであったので、藁をもすがる思いで磯部さんの下宿に電話した。メモに書かれていた番号はどうやら下宿の大家さん宅のものらしく、年輩の女性が電話にでた。しばらく待たされて電話を代わった磯部さんは、センパアイと叫び、本当に電話くれたんですねとことのほか電話を喜んでくれ、すぐ行きますとはしゃいだ声を上げた。なんだか訳がわからないが、とにかく助かったと思った。

 

 京都にいるときは京都弁と大阪弁が混ざったところに兵庫弁みたいなんも溶かし込んだ妙な関西弁を喋っている。が、関東出身の友人もおり、そういう奴は関西に染まらずというか、関西に来た癖に関西を拒否し、関東を主張する傾向があり、言葉も標準語(本人は関東の一部の地方の言葉だと言っているが区別がつかない)を通しているから、そいつの口調も移り、でさあ、しちゃってさあ、まいっちゃうよぉなんていう言い方もいつのまにかマスターした。もちろん岩国に帰って来たときは山口弁になるが、それにしても高校までの山口弁と比べると少し違っており、予備校時代に口癖になった広島弁がミックスされている。意識して使い分けようと思えば、どんなふうにも使い分けることができるのたが、意識していないのに関西弁に山口弁が混ざったり、標準語に突如関西弁が挿入されたりすることもあって、しかもそこには規則性なんてものは一切なく、藪から棒にいろんな言語が飛び出すから不思議だった。

 そういう意味でいうと、磯部さんと話すときはきまって標準語であり、相手が後輩なのにもかかわらず敬語を織り交ぜたりするところは規則性があるなあと思われ、今の電話にしても、その規則性そのままに標準語だったなあと思った。

 

 教えられたバスにのり、教えられた通り大学付近のバス停で降り、指定された本屋の前まで行ったのだが磯部さんの姿は見えず、しばらく待った。ところが南中正中する太陽は殺人的であり、あまりの日差しの強さに音を上げ冷房の効いた店内に避難すると、入ったすぐの棚で『エスパーニャ82、スペインワールドカップ総集編』なんていう本が目にとまり手にとって読もうとしたとき、書店の窓越しに磯部さんの姿を見た。急いでその本を買い求め外に出ると、ちょうど磯部さんも店に入ろうとしたところで、入り口のところでぶつかるような感じになり、二人揃って、おお、なんて声を上げ、店の主人らしきおじさんと、立ち読みをしている学生風の男がそろってこっちを振り向いたりした。

 磯部さんは長い髪を黄色いリボンでポニーテールに結び、赤いTシャツに薄手で青と緑色の鮮やかなアロハシャツをはおり、ジーンズのホットパンツにサンダルという出で立ちで、教育実習中は少し長目の紺色のスカートに白のブラウスという清楚な感じで通していたし、それ以外の姿を見たことがなかったので驚いた。驚いたのは服装だけじゃなくて、磯部さんときたら、おおなんて声を上げた後、俺の手をとると、センパアイ、久しぶりですねえなんてはしゃいだ声を上げる。愛想笑いで、お久しぶりです、なんてノリで来るのだと思っていた事もあり、服装以上に驚いた。

 ちょっと行ったところにいい感じの喫茶店があるんですよと言うから、暑い中てくてく歩いた。喫茶店に着くまで、試験が難しくてさっぱりできなかったんですよとか、蒸し暑くて思考力ゼロだったんですよとか標準語で喋った。本当はあの悩ましい夜の一件を話したくて話したくて仕方がなかったのだけど、さすがに磯部さん相手にあの話はないだろうということで黙っておいた。店に着くと、窓から少し奥を覗いて、先輩やっぱり駄目です、他にしましょうと磯部さんは言う。顔見知りがとぐろを巻いているから駄目だという。じゃどこに行くのかということになってあれこれ磯部さんは考えていたけど、殺人的な日差しの影響もあってか、これといって良いアイデアも浮かばぬようだった、というよりは、暑すぎてどうでもよくなってしまったという感じで、じゃあ私の下宿にしますかなんて言い出す。え?男が入っても構わないの?と聞くと、それまで強い日差しを睨み付けるような険しい表情だった磯部さんは、一瞬表情を崩し、ばれなければ、なんて含み笑いをして俯いたのにはさすがにドキリとした。

 磯部さんの下宿は学生下宿とはいえ、入り口が全部別々のアパート形式のそれであり、北向きの入り口は狭い路地を入っていったところに面していたし、向かいは窓のない隣家の土壁だったから、なるほどこれならばれなければいくらでも入れるなと思った。

 

 その部屋は六畳間に小さな流しとトイレと風呂があるというこじんまりとしたもので、

間取りは似ているが所の新築アパートをそのまま狭小化老朽化させたような感じだった。六畳間には真ん中にコタツ机、その隣りに扇風機が、そして窓のない西の壁際には品のいい木製の本棚に、専門書が、女の子らしい女性雑誌だのコミック本と一緒に並べられ、東側の押入の襖には印象派展という黄色い文字とともに睡蓮だかなんだかの絵が印刷されたポスターが貼られていた。本棚の上にはレースがかけられていたり、本棚の二段目と三段目には可愛い木彫りの人形だとか、愛くるしいぬいぐるみなんかも見え、やっぱり女の子の部屋だななどと感心していると、磯部さんはちょっと冷たいものでもと言い残して部屋を出ていった。仕方なくあぐらをかいて買ってきた『エスパーニャ82』をぺらぺらとめくっていたのだが、ふいに教育実習の時の事を思い出して一人で笑った。

 実習中、昼食は実習生の控え室になっていた会議室か、準備室のある教科(社会科とか理科、芸術教科など)は準備室で取るように指示されていたのだが、初日から準備室で弁当を食べた俺に対して、磯部さんは同学年の知り合いのいる会議室に行った。男性と女性だし、学年も違うわけだから、それはそれで仕方ないかと思っていたのだが、初めの週の金曜日、どういうわけか今日から私も準備室で食べていいですかなんて聞くもんで、別にいいんじゃないですかなどと返した。たまたまその日、お茶を入れるのが面倒くさいからという理由だけでコップに汲んだ水で弁当を食べていたのだが、磯部さんはしっかりそれを見ており、この人は真水で弁当を食べる人なんだと思い込んだようで、次の週からは、先輩はお水がいいんですよねなんて親切にも生ぬるい水道水を汲んでくれ、お陰で残りの一週間は毎日コップ一杯の真水で弁当を食べるはめになった。

 もしかして冷たいものでもとかいって、氷の入った水でももって来るんじゃないかなんて期待していたのだけど、予想に反して磯部さんは赤い缶を二つぶら下げて戻ってきて、コーラでよかったですかねなんて言うので、水じゃないんだと苦笑いをした。とりあえず、その思い出話をしようかと思ったのに、磯部さんは、ちょうど広げていたグラビアを見てあっパウロ・ロッシだ、とエスパーニャの方に食いついて来た。教育実習の期間はこのワールドカップの開催期間と終わり頃がだぶっており、昔とちがって準決勝あたりからは日本のテレビでも中継されていたし、その事も実習の時に何度か話題にした事もあったから、しばらくサッカーの話をした。

 地を這うようなクロスに身体ごと飛び込んで行くパウロ・ロッシだとか、皇帝プラティニ、ブラジルの至宝ジーコなどこの大会は綺羅星のようなタレント揃いで、華やかではあったが、個人的に言えば、生まれて初めて見た七四年の西ドイツ大会には全然叶わないと思っていた。ワールドカップでわくわくどきどきしていたのは七八年のワルゼンチン大会までだ。マリオ・ケンペスがいくらがんばってパンパを疾走したところで、空飛ぶオランダ人ヨハン・クライフには叶わなかったのだから、プラティニやジーコにしても似たようなものだった。それはトータルフットボールだのなんだのという戦術的な話とか、タレント揃いだが人気先行で、そもそもサッカーのレベルが低いんだよとかそんな話ではない。あくまで個人的な感情の問題で、どこか恋に似ていた。どんな素敵な美女と恋に落ちたところで、それが二度目以降の恋ならば、初恋の輝きには勝てないのと同じだ。

 中三のある夜更け、何気なくチャンネルを回していて偶然目に飛び込んできた西ドイツ大会の決勝戦の生中継。緑の芝生を敷き詰めたピッチ、何万人もの観客であふれかえらんばかりの観客席、腕をつかってのそれよりも華麗なパス回し。当時、学校や家庭、そして地域のどこを探してもサッカーという概念はかけらもなく、テレビでサッカーというものを目にする事など希だったにも拘わらず、その九十分間で自分は身も心も奪われた。まさに一目惚れだった。

 そんな話を初恋とか一目惚れとかの言い回しは使わずに、熱く語った。しかし、昨夜は一睡もしておらず、それでも人生をかけた採用試験だというので気が張っておりなんとか昼まではもっていたが、試験も終わり緊張もほどけて昔話なぞ始めたせいか意識が朦朧としはじめた。考えてみればこの世で唯一の知り合いと言える女の子に会い、下宿にまで入れてもらったというのに、長々とサッカー談義でもないはずで、その話題の不自然さに気がつくべきところに気がつかなかったのが、そもそもの意識不明の証拠だったのだろうけど、朦朧とした意識はそんなことお構いなしに延々サッカー談義を続けていたのだが、気がつくと自分は蛍光灯の豆球だけの薄暗い部屋に寝ころんでいた。

 布団を掛けていない机だけのコタツ机の向こう側に女の子が一人転がっており、すうすうと寝息を立てている。柔らかく隆起した胸も、そのリズムに合わせて盛り上がったりしぼんだりを繰り返す。てっきりミカって子だと思った。やれやれ、今晩もあの悪夢のような夜をすごすのかなんて思い舌打ちをしたが、周りを見回しても所はおらず、そういわれてみると所のところは座卓だったし、こんなコタツ机ではなかったはずだと気が付く。ギョッとして起きあがって近寄ってみると、驚いた事にその子は磯部さんだった。時計を見ると夜中の四時くらい。なぜ磯部さんがいるのかわからず、夢なんだと思ったが、しばらく胡座をかいていると、所のアパートでの事や、採用試験会場で学生証を落とした事、本屋で買いもとめたエスパーニャ82の事などが次々思い浮かび、そうだ自分は磯部さんに電話して、会って、この下宿にしけこんだんだと事態が把握できた。

 自分は磯部さんの下宿で、磯部さんと「寝て」いる?。

 

 小学生の頃よくテレビで放映していたイタリア映画では、マルチェロ・マストロヤンニなんかが映画の中でしょっちゅう「寝た」「寝る」という単語を使った。たとえば「一度寝たくらいで、彼女面してんじゃねえよ」とか「何をいいだすのさ、俺は一度だってあいつとは寝たことないんだぜ」のように使ったもので、異性と一緒に「寝る」ということはよっぽど特別な事なのだと気がついてはいた。しかし、それがセックスをするしないの意味である事を知ったのは中学も三年生の頃で、そうだったのかとひどく感激した覚えがある。その意味でいうとこの「寝る」は「寝る」ではなく本当に寝るの意味でしかないが、しかし「寝た」事実に間違いはなく、こんな経験は人生初であり、個人史でいえば、別項を設ける価値のある画期的な出来事なわけで、「寝た」って言ったって「寝た」わけじゃなく、ただ「寝た」だけだしななんて済ますわけにはいかず、マルチェロ・マストロヤンニのように、「じつはあの子と寝たのさ」と心の中でつぶやいてみた。そう、自分は磯部さんと「寝て」しまった。女の子の下宿に入れてもらっただけでも非常事態な上に、なんと一夜をともにしてしまったのだ。童貞である自分の身体には何の変化もないくせに、なんだか気分だけがそわそわふわふわし始めた。真夜中だというのに磯部さんの下宿を飛び出し、くすくす笑いながら大学への通りをヨハン・クライフばりの大股で駆け抜けている間抜けな若者の映像を頭蓋骨の裏側に映写しながら、薄暗い部屋の畳の上に転がった。飛び跳ねるような動きを見せていたヨハン・クライフは、やがてスローモーションとなり、カクカクしたコマ送りとなり、やがて静止画となり、そしてフェードアウトした。

 

 

 どうやら二度寝をしてしまったようで、気がついたら辺りはすっかり明るくなっていた。時計を見ると朝の七時だった。磯部さんは流しで洗い物のような事をしており、声をかけると、あっおはようございますとちょっとだけ気まずそうな顔をして見せた。

 昨日、夜には起きるだろうと思って焼きそばを作ったんですけど、いくら声をかけても全然起きないので、仕方なく私一人で焼きそばを食べましたよ。先輩、よっぽど疲れてたんですね。熟睡でした。徹夜で試験勉強だったんですか?なんて言われ、いやあ、友人とその彼女のセックスが気になって気になってさあ、眠れなくてねえと喉まで科白が出たが、さすがに言葉にするわけにもいかず、仕方なく苦笑した。でも、気まずそうな空気はそこまでで、磯部さんが入れてくれたアイスコーヒーを煽って、渇いた喉に染みとおるような冷たさと苦みを味わっていると、団扇で扇いでいた磯部さんは、そうだと持っていた団扇を振り回し、ザビエル記念堂にでも行ってみましょうかなどと明るい声をだす。

 同級生でもない、ただ二週間教育実習で一緒になっただけの男をたとえ行きがかり上やむを得なかったにしても一晩自分の部屋に泊めたにも拘わらず、さして拘っている様子もないことに、内心ホッとしたものの、どこかで五十パーセントを超える山大の同棲率の事や、所でもあんな可愛い子と同棲しているんだというあの現実がひっかかっており、ましてやこんな可愛い磯部さんの事だから、男子学生としても放って置くわけもなく、こういう事は案外日常的な展開なのかもしれない等と不埒な事を考えたりした。

 

 前の日にまして日差しが強い日で、まだ午前中だというのに、ザビエルの丘を上るのはまさに難行苦行で、女の子の下宿で寝込んだ罰か、それともキリスト教なりの修行なのかと思いながら坂を上った。記念堂の中はきっと涼しいに違いないと期待して最後の長い階段を早足で登ったのだが、締め切った記念堂の中は風がないぶん余計に蒸し暑く、足を速めた事を後悔した。

 原色使いで色鮮やかなステンドグラスも、普段なら荘厳な空気を醸し出すのかもしれないが、この時ばかりは暑苦しいばかりで見る気にもならなかった。記念堂には自分たち以外入場者はいなかった。奥の壁に一人の男の肖像画が飾られていた。両顎のえらの部分から顎先までを覆う顎髭が下唇の真ん中に一本線になって続いており、濃い眉毛の下には二重の眼がドングリのように大きく開いている。両手を胸の前で交差し視線を斜め上にとどめるその男は、教科書でお馴染みの日本に初めてキリスト教をもたらした宣教師その人だったが、よく見ると脳天のところに毛がなく、潤いのある地肌が墳丘墓のように露出しており、ふいに実家の父親を思いだした。しかしその墳丘墓の地肌が意図的に剃られての露出か、それとも雨露に風化された挙げ句の露出なのか判然としない。自然に禿げたにしてはあまりに頭髪と地肌の境界線が整いすぎている感がある。ねえねえ、あの脳天ってさ、はげたのかな、それとも剃ってるのかな、なんて磯部さんに意見を求めようと思ったが、女の子の部屋に来て、サッカーを語りまくった挙げ句に寝入った次は、二人で入った記念堂で、禿か剃りかはないだろうと思いやめておいた。

 しかし、やけに執拗に肖像画を見続ける様子で、こっちの思っている事を察したのか、中学の頃脳天が禿げた社会の先生がいましてねえ、ザビーって呼んでたんですよなんて磯部さんは昔話を始める。その先生どうでも良いことですぐ怒る先生で嫌いだったから、みんなであのハゲがねなんて言ってたんだけど、ハゲをハゲじゃあすぐばれるしって事で、ちょうどその頃授業でキリスト教伝来ってたあたりをやってて、教科書にハゲのおっさんの写真が載ってるって事で、じゃあザビエルって渾名にしようぜって事になった。これならばれないって思ったんだけど、どうやらその先生、自分でも禿げてる事を気にしてたみたいで、ある男子が、うるさいザビエル黙れなんて言っただけで、誰がザビエルじゃって職員室に連れて行かれちゃって、結局ザビーという短縮形に落ち着いたんですけどねと笑う。そしてあのザビエルの脳天は禿げたんじゃなくて、剃ってるのだと解説を加える。トンスラって言うらしいです。なんでも神父だか牧師だかしらないですけど、そういう人になる証みたいな、そういうものらしいですよと。

 トンスラねえ。その「音」(おんと読む)がふいを突かれた感じで胸に突き刺さりなかなか抜けず、二度三度と口の中でつぶやいてみた。とんすらのトンが豚のトンに聞こえた。じゃあスラってなんだよって考えてみたが、豚に関したスラなんかすぐには何も思い浮かばないので、その事を持ち出して、トンは豚だとして、スラって何だろうねと聞くと、磯部さんも似たような事を考えていたのか、豚のスライスじゃないですかと即答する。豚を横から見たシルエットのまんま薄切りにされた紙がひらひら飛んでいくイメージが浮かび、妙に可笑しかったので、悪のりして、それもありだが、もしかしたら、豚が二塁ベースにスライディングするのかもしれないぞみたいな事を言うと、二人同時に、野球のユニホームを着た太った豚がブヒーと雄叫びを上げながら猛然とスライディングする映像を思い浮かべた感じで、可笑しさを抑えきれなくなり、とんすらとんすらと言い合いながら、二人で肩を叩きあって笑っていると、奥からそれこそとんすらしてそうな男の人が顔を出し睨みつけてきたので、慌てて記念堂を出た。

 山口駅そばのラーメン屋で熱々のトンコツラーメンを二人で食べ、再び汗まみれになった。昼下がりの山口線のホームで、磯部さんも俺も汗まみれの手を振りあった。先輩、自動車の免許が取れたら帰省しますから、また岩国で会いましょうと磯部さんは笑顔を見せた。