気高く清く美しく その⑤

 

 梅雨も本番になり連日の雨で、陸上部の練習は筋トレ主体となった様子で外周を走る友

里の姿も見れなくなった事や、そろそろ学期末で期末試験が近づいてきて、それどころじ

ゃなくなった事、そして坊太郎の釈明で友里が見た目どおりの「天女」ではないらしいと

わかった事で、「天女ちゃんの処女を守る会」の活動は目に見えて衰えてきた。

 教室後ろの掲示板に張り出されていた天女ちゃん情報は「天女ちゃんの自宅発見」が最

後で更新されておらず、止められていた押しピンが一つはずれて斜めになったまま放置さ

れていたし、校内スナップを次々売りさばいていた会長の野村も新作を持ち込まなくなっ

たし、教室内で天女ちゃんの話題で盛り上がることもなくなったが、それでもしつこく友

里に思いを抱く男子は生き残っていて、その中の一人(例の自宅を発見した西岡という男

子)が坊太郎に仲介を求めてきた。

 1回でいいから直接会って話をし、坊太郎の言うとおりの子なのかどうか見極めたい、な

んて言うから、家まで跡をつける勇気があるんなら待ち伏せでもなんでもして声かければ

いいじゃないと冷たく返すと、家までつけた時点でもう充分怪しいのにそんなことしたら

怪しいやつだと思われるからなんて図々しい事を抜かし、幼なじみの坊太郎の紹介がある

のとないのとではまるっきり違うでしょうよなんてすがりつくので渋々仲介を引き受けた。

 坊太郎としては生田が言っていた事も気になっており、西岡の件を話すついでにカマを

かけて本当かどうか確かめてみたい気持ちもあった。いつだったか坊太郎の下宿の電話番

号は教えた覚えがあるが、友里の電話番号は聞いていなかったから、実家に電話して聞き

出してもらった。

 

 友里の下宿先とやらに電話すると人の良さそうなおばさんに代わって友里が電話に出た

が、西岡の件を話そうとする間もなく、

 

 ちょっとあんたいい加減にしてよ

 

 と怒り出した。

 呆気にとられまだ何も言ってないけどと言いかけた坊太郎を遮って、なんであんな出鱈

言うの、あんたの流した変な噂のお陰で迷惑してるんだからね、と凄むので、あの過剰

発言が友里の耳に入ったんだとピンときて一瞬冷や汗が出たが、たしかに言い過ぎた面は

あったが全く事実無根のでっち上げでもなく、生田は周知の事実とばかりに胸を張ったん

だから、とそれを引き合いにだして、こっちだってちゃんと聞いてんだ、隠したってダメ

だぞと押し返したら、あんた連休の後に帰省した事言ってんの?と言うから、そうだけど

と返すと、あれは忘れ物があったから取りに帰っただけだし、「柿の木」とか冗談じゃな

いよ、と言うので、じゃあうちのオヤジが水揚げの相手っていうのも出鱈目か?と確認す

ると、ちょっと気持ち悪い事言わないでよと苦笑いするので、なんだかホッとしてしまい、

そうだったんだゴメン、生田があんな事言うからつい鵜呑みにしちゃって、と素直に謝る

と、不機嫌だったはずの友里は急に笑い出し、

 

 まさかあんた焼き餅?自分一人除け者にしてさ、あたしが女になっちゃったから悲しか

 ったとか?そうかそうか、あんたあたしの事気にかけてくれてたんだ、

 

 なんて勝手な事言い出すので、カッと頭に血が上った。

 

 なんで俺が悲しまなくちゃならないんだよ、馬っ鹿じゃないの?

 

 と声を荒げると、ちょっとぉ人ん家に電話かけといて何わめいてんのよ、面倒臭い男ね、

どうせ友達もいないんだろうし話し相手が欲しくて電話してきたってとこなんでしょ?素

直に言えば会ってあげてもいいわよ、なんて含み笑いなんかしてみせるので、もういい、

とか叫んで電話を切ってしまった。

 切ってしまってから、そうだ西岡のことを忘れてたと気がついたが、あんな切り方をし

てしまった以上、恥を忍んでかけ直す気にもなれず、陸上の大会が近くて練習が忙しいし、

いくら幼なじみの紹介とはいえ知らない人とのデートは困るという理由で断られた、と翌

日、西岡に嘘をついた。

 

 

 翌日、部活の時に三上から言われ例の黄色い潜水艦の映画の件を思い出した。友里の事

でゴタゴタしてすっかり忘れていたのだ。慌てて下校途中に公衆電話からスバル座に電話

をしてみたら、都合良くヨーコが電話に出てくれたので、三上と二人で黄色い潜水艦の映

画見に行きたいのだがと伝えると何を思ったのか、ヨーコは映画の事には答えず、

 

 友里ちゃんの初体験の相手が坊ちゃんだって噂本当なの?

 

 と聞いてきて腰を抜かしそうになった。

 友里ちゃんも否定してるけどその噂がもとで熊野千春との関係もゴタゴタしているんだよ

なんてヨーコが言うからキッパリ否定したら、ああ良かったなんてヨーコが言うから坊太郎

はなんでここでヨーコが「ああ良かった」なのってドキッとした。

 どうやらヨーコは爺ちゃんや父親から村の「柿の木問答」の事は聞かされていたようで、

あれってほら、あの村のしきたりのさ、アレの事なんでしょ?なんて核心を突いてくるので

ドギマギしたが、全部自分の勘違いで、そのことは友里にもこの前ちゃんと謝ったんだと説

明すると、友里の話を出してきたわりにはさして関心もなかったみたいに、で?坊ちゃんの

方はアレすませたの?なんて坊太郎に水を向けて含み笑いをしてみせるから二の句が継げず

にいると、なんだまだなんだと見透かしたような言い方をした挙げ句、お腹が減ったからコ

ロッケでも一緒に食べない?とでも言うような軽い調子で、

 

 私でよかったらいつでも言ってね、相手してあげるから

 

 と言い、坊太郎はカッと顔が熱くなるのを感じた。

 坊太郎が黙っているとヨーコはそれ以上は言わず、まるで今までの会話がなかったかのよう

に事務的になり、来週まで上映予定だから今度の土曜日がいいんじゃない?お昼からおいでよ、

待ってるからね、と言って電話を切った。

 

 

 その週の土曜日、はしゃぎまわったかと思えば必要以上に怖じ気づく三上を伴ってスバル

座に向かったら、前回と同様、館内は米軍関係の若い男女でごった返していたが、今回は事

務所奥の階段を上がったとろこにあった映写室に通された。

 そこでは驚いた事にあの暴走族のはずのマタノさんが、もう一人リーゼントの青年と一緒

にベテラン技師風にテキパキと映写機に上映フィルムをセットしており、坊太郎が三上と一

緒に挨拶するとマタノさんは図々しい野郎だなてめえも、なんて脅すような口調で答えたが、

文言ほど不機嫌ではなかった。ただ、助手風のリーゼントは鋭い目つきで二人を睨んでおり、

軽く会釈をしても完璧に無視された。

 

 映画はサイケデリックなアニメーションと実写が合成された画面にかの四人組のバンドの

曲が次々と流れる構成で、そのバンド好きの三上は、初対面と思われるヨーコとも気軽に感

想を言い合いながら夢中になって映写室にある小さなのぞき窓を見ていたが、坊太郎の頭の

中にはこの前の電話での会話が聞こえていて、三上と話すヨーコの横顔が気になって仕方が

なかった。

 映画が終わると三上はヨーコ相手に興奮気味に映画の感想をまくし立てていて、フィルム

の巻き戻し作業をしていたマタノさんをいらつかせ、それを端で見ていた坊太郎をハラハラ

させたのだが、そろそろ帰ろうかと腰を上げかけた時、映写室のドアが開いてオールバック

の髪型に白髪交じりの顎髭を蓄えた中年の男性が入ってきた。

 その中年男性はちょっと怖いくらいの鋭い視線で三上と坊太郎とを交互に見たが、ヨーコ

が、お父さん、ほらこの子が製材所んとこの息子だよと坊太郎を指さして紹介すると、急に

笑顔になり、

 

 おおあんたが翔子さんの息子か

 

 と握手を求めてきた。

 翔子とは坊太郎の母親の名前なのだが、母親を呼ぶにしても奥さんとか女将さんとかが普

通で、ショウコなんて名前で呼ぶ男の人に出会ったのは初めてだったのでひどく驚いた。ど

こで誰に聞いたのか、この子ピアノの名手なんだって、とヨーコがその父親って人に言うと、

翔子さん小さい頃から必死でピアノ教えてたからなあとしみじみ言うと、お、そうだせっか

くだから母親譲りの腕前を聴かせてくれないかと映写室の奥の窓際に歩いていくとアップラ

イトピアノに被せてあったビロードの布をはぎ取り、小さな無数の埃が窓からの光の中で勢

いよく舞った。

 

 ほら、別れの曲、あれ演ってくれないか、ショパンの

 

 ヨーコの父親はそう言いながらピアノのカバーを開け坊太郎に手招きをしてみせた。その

曲は嫌と言うほど母親から練習させられた曲でとりわけ中間部のややこしいところは泣きな

がら練習したもので、楽譜さえあれば今でもなんとか弾けそうに思ったが、さすがに楽譜な

しでは前半の主題のあたりしか弾けそうになかったから、さわりの所だけでもいいですか?

と言うと、ああ、そこが聴きたいんだよと顎髭を撫でるので、それならと演奏用の椅子に腰

掛けた。

 高校入学後ピアノに触れるのは初めてで、さすがに緊張したが、自宅でいつもやっていた

通り、指や腕のストレッチをした後、ハノンスケールのアルペジオで鍵盤やペダルの感じを

みたらどうやら三上は初めて見たようで、それだけで驚いて目を丸くしていた。

 

 久しぶりに弾いた別れの曲はどういう訳か胸に滲みて気持ちが高ぶり、泣いてしまいそう

になったのだが、三上やヨーコ、そしてあの暴れん坊のマタノさんなんかは弾き終わると、

すごいすごいなんて浮かれた声を出して拍手をしていたけど、ヨーコの父親って人は坊太郎

と同じだったみたいで静かに握手を求めてきたが少し涙ぐんでいるようでもあった。

 いつでも見たい時に来たらいいよと父親は優しく見送ってくれたし、三上は楽しかったな

あをしつこいくらい繰り返していたが、それにしてもどうしてあんな映写室の片隅にピアノ

があって、誰が弾いているんだろうなと坊太郎は思った。

 

 

 

 気がつけば六月も終わり期末試験があり、相変わらず予習も復習もテスト勉強もしない坊

太郎がどんなにテストの時間だけ奮闘しても手も足も出ず、結果どうしようもない点を取り

脂汗をかいたら梅雨が明けた。

 中間テストの悲惨な結果等も鑑みれば一学期の成績は相当むごい事になるのは明らかで、

しかも期末面談では保護者同席が義務付けられていて、これまでのパターンで言えば母親が

同席することが予想されたが、連休で息子から聞いた「トップテンには入れなかったものの、

まあそんな感じ」という保身の戯言を鵜呑みにするようなお人好しの母親のショックを考え

たら心が痛んだが、だからといって過去はもはや変えようがなく、泣かれようが動揺のあま

り卒倒しようがゴメンと謝るしかないなあと坊太郎は覚悟を決めた。

 

 そんな終業式の日の晩の事だった。いよいよ翌日からは夏休みという晩だったが、その一

方で夏休み初日は保護者同伴の期末面談で、実家の母親からは朝10時からの面談に合わせて

早めに下宿に寄るからね、と息子の成績表を楽しみにしている感ありありの電話があった。

坊太郎はやれやれと溜息をついたが、諦めの気分で眺めていた夕食後のテレビで坊太郎はプ

ロ野球のオールスター戦を見た。

 セリーグ、パリーグの各チームから選ばれた選手達がそれぞれ所属チームのユニホームで

試合をしていたのだが、野球にあまり興味も関心もない坊太郎は色とりどりのユニホームを

見せられても、どれがどこのチームのユニホームなのかさっぱりわからなかったが、ふとケ

ンゾーの事を思い出し、彼が唾を飛ばして熱く語っていたかの弱小チームの選手は出てない

のか?と探したらなんと赤い帽子を被った選手が二人も試合に出ていて驚いた。

 初回、早速登場した背番号⑧の選手をぼんやり見ていたら、いきなりレフトへ大きなフラ

イを打ち上げ、それがスタンドに入ってホームランになると3人後に出てきた背番号③の選手

が同じくレフトスタンドに大きな一発を叩き込み球場はどよめいたが、それを見ていた坊太

郎も目を見張った。

 ケンゾーは贔屓チームの事を熱く語りながらも、そうはいっても弱小球団だからなと謙遜

しているのかけなしているのかわからない一言をいつも付け加えていたが、2人しか出ていな

い選手がどちらも続けてホームランを打つのだから大したもんだと思った。

 オールスターなんていうのはいつもの真剣勝負の試合とはちがってお祭りみたいなもので、

遊び半分なんだみたいな事を解説者は喋っていたが、じゃあ他の選手もガンガンホームラン

を飛ばすかと言えば全然そんなことはなく、ボテボテの内野ゴロしか打てない選手もいたし

三振してすごすごベンチに引き返す冴えない選手だっていた。

 これまで全然知らなかったけど、なるほどケンゾーが応援したくなる気持ちもわかるなあ

と興奮気味に見ていた坊太郎だったが、次の回にまたしても打席が回ってきた背番号⑧番の

選手が今度は2人のランナーを返すホームランをかっ飛ばし騒然となったが、ここまできたら

あの背番号③の選手も打つかもよとわくわくして見ていたら、まさかのホームランをまたし

てもかっ飛ばして、ど素人の坊太郎も大声を出して飛び上がった。 

 

 

 翌日の期末面談では、田舎の学校とこことではレベルが違うのだから相当の覚悟で勉強し

ないと落ちこぼれるぞと担任から厳しく指摘をされた。渡された通知票は中学までの五段階

評価ではなく、各教科とも定期テストの点がそのまま、さらに総合点で学年内の席次が記入

されていたが、テストの結果はどうみても50点満点だとしか思えず、学年内の席次は分母と

分子が限りなく近かった。

 予想どおり、話を聞いた母親は逆上してそんなはずはないと担任に食い下がったが、動か

しようのない事実だとわかると絶望して号泣しと、まさに修羅場だったが、坊太郎の脳裏に

は昨晩テレビで見たケンゾー贔屓の選手達が次々に打ち上げるホームランが夜空に炸裂する

花火を見上げるような爽快な気分をともなって映っていてまるで気にならなかった。

 

 面談室から出ても怒りの収まらない母親はこのまま一緒に田舎に帰れとか、この夏休みは

家から出さないとか、父親や祖父にしっかり話してもらうとか支離滅裂な事を喚き散らして

いたが、坊太郎が学校の補習授業があるからそれを抜けて帰省は無理だと言うと、しぶしぶ

承諾した。

 補習授業の件は坊太郎のでっち上げだったが、そうでも言わないと田舎に強制連行され夏

の間中幽閉されるのは目に見えていた。補習が終わり次第帰省するからと母親には約束した

が、そんな積もりはさらさらなくこの夏は三上と文化祭で披露する曲を二三曲仕上げる積も

りでいた。

 

 文化祭では男女合同でギターとマンドリンのアンサンブルを三曲ほど演奏する予定になっ

ていたが、全体会での演奏はそれだけで、あとは分散会の時に第一第二の音楽室をステージ

にして小グループで数曲ずつ演奏する予定になっていた。

 せっかくだからオリジナルを一曲間に持ってきて、はじめと終わりは誰もが知っているよ

うな曲を演奏したらどうかな?と前から坊太郎は提案していたのだが、三上はオリジナルは

良いにしても、みんなが知っているかどうかはこの際どうでもよくって、俺達にとって演奏

する価値があるかないかで判断するべきじゃないか?なんてややこしいことを言っていたか

ら、その辺が上手く調整できるのか心配だったのだけど、夏休み二日目に部室で三上からそ

の話を切り出され坊太郎は驚いた。

 近く新人デビューする予定の若い女性フォーク歌手の歌を演りたいと言うのだ。歌謡曲や

アメリカ人の猿まね音楽を小馬鹿にしている三上がミーちゃんハーちゃんのフォークで、し

かも若い女の子の曲を演りたいなんてどうしたんだと思ったが、たとえフォークで若い女の

子の音楽でも坊太郎がイメージしているようなものとは違ってて、とにかくすごいんだよと

三上は言った。

 どうやら情報源は東京の大学に通っている三上の兄らしく、東京のライブハウスで録音し

たカセットがあるからそれを聴いてみてくれと言った。人の曲のカバーはそのカセットを聴

いてから決める、さらに間に演奏するオリジナルはお互い一曲ずつ作って持ち寄るという事

にして、その日は部室を後にした。

 

 下宿に戻って三上の貸してくれたカセットを聴いた。あんなふうに三上は言ったが、今で

は坊太郎の方が三上っぽくなっていて、これまで喜んで聴いていた歌謡曲だのグループサウ

ンズだのには拒絶反応が出ていて、ありもしないようなメルヘンの世界を恥ずかしげもなく

歌うようなフォークソングだったら嫌だななんて思い、下宿の畳で昼寝しながら聴いたのだ

が、一曲目の出だしの声でいきなり引き込まれた。

 その子はいわゆる若い女の子らしい透き通った綺麗な声で歌ったがその子の歌う歌詞も声

の調子もひどく虚無的だった。その曲はその女の子一人のギター弾き語りで、アルペジオか

ストロークのどちらかというシンプルな伴奏なのに飽きることはなかった。

 七曲だか八曲だか録音されたそのテープを、坊太郎はその晩遅くまで何度も繰り返して聞

き続けた。

 

 翌日、坊太郎は早足で学校に行き、あれいいよ、あれ演ろう、と三上の肩を揺すった。三

上ならドラッグや大学紛争を思わせるフレーズが耳に残る「さよなら僕の友達」って曲を推

すだろうと思っていたし、「早春にて」というゆっくりした曲でもいいかなと思っていたの

に、驚いた事に「雨のクロール」という不思議な歌詞の曲を演りたいんだと三上は言った。

 たしかに他の曲とは少し感じの違う不思議な魅力のある曲だとは思っていたけど意外だっ

たので、坊太郎が予想していた事も含めて、どうしてその曲に拘るのかを聞くと、いつもな

ら論理的にきちんと説明する三上なのに珍しく、なんとなくね、なんて曖昧な言い方をし、

どうしてだろうね、なんて苦笑いまでしてみせ、とにかくあれがいいって思うんだよと最後

までわからなかったが、まあそこまで拘るのなら一曲はあの曲で良いよと坊太郎は答えた。

ありがとうと言うかと思っていたら、三上は少し顔を赤らめて、

 

 あの子の声ってさヨーコの声に似てないか?

 

 と親しそうにヨーコを呼び捨てにした。

 三上は兄がライブハウスで撮影したっていう件の若い子の写真も見せてくれたが、まん丸

のカーリーヘアにサングラスで透明感のある声のイメージとはまるっきりちがっていて、そ

れはいつも学校で三つ編みにしているヨーコとも違っていたが、たしかに声だとかしゃべり

方は少し似ているかなと坊太郎も思った。

 

 

 大磯、お前って歌下手だろ

 

 翌週だったか、部活の練習の時に三上が唐突にそう言った。

 基本、夏休みの部活は日曜日を除く毎日、午前中にあったが体育会系のノリの吹奏楽部と

は対照的に軽音楽部は規則も規律もゆるゆるで、毎日練習に顔を出すのは坊太郎と三上くら

いのもので、とりわけその日は、台風の襲来が予報されており、そのせいもあってか出席率

が最悪で男子の一年は坊太郎と三上の二人しか来ていなかった。

 三上に出し抜けに下手だろと言われるほど歌えないとは思ってはいないから反射的にムッ

とした坊太郎だったが、たしかにピアノやギターの腕前ほどの自信はなかった。お前の前で

歌った事あったっけ?と坊太郎が不機嫌な声を出すと、いや、まだ聞いた事はないが、なん

となくそんな気がする、とわかったようなわからないようなことを三上は言った。

 

 演奏の上手いやつって歌が下手なんだよなこれが。歌えるやつってさ、別に必死になって

 楽器の練習をしなくても歌えるんだからさ、練習しないわけよ、やってもせいぜい伴奏程度

 で、それで充分だって感じなんだよな、でもさ歌の下手なやつってさ、自分はどうも歌えな

 いなあって自覚がある、っていうかちゃんと音程とれててピッチがずれなくっても、声質が

 いまいちってところも含めてね、だから演奏に注ぐ情熱ってのが凄いんだと思うんだよな。

 楽器に歌わせるって感じが無意識のうちに出てくるんだと思う。だから超絶技巧の演奏家っ

 ているけど、そういう人に限って歌わないもんね。というか歌えないんだと思うんだ。だか

 らとことん練習しまくるんだろうね。練習して練習して練習しまくってさ、とことん自分を

 追い込んで、すごいところまで行ってるよね。でないと人間業とは思えないテクニック身に

 付かないだろ。言い換えればコンプレックスってやつかな。ちょい話が前後するけどさ、俺

 は基本は歌だと思うんだよね音楽って。みんな歌いたいんだよ。朗々と歌いたい、ってのが

 人間の基本的な欲求だと思う。だから歌えるやつはそのまま歌ったけど、歌えない奴は楽器

 に走った。歌いたいって欲求が強烈だから楽器もより上手く歌えるようにどんどん改良して

 いった。そんなところじゃないかって思うんだ。

 

 どうやら三上は坊太郎が苦もなくピアノやギターを演奏する事を逆説的に誉めたかったら

しいのだが、それならそうと、お前の演奏ってすげえよなあと言えばいいものを、なんで、

そんな回りくどい言い方をするのだろうと思っていると、俺のギターがいつまでたっても上

手くならないのは歌えるせいなんだと最近わかったんだよな、なんてギターが下手な事を卑

下するような、歌が上手いことを自慢するような妙な言い方をしてみせた。

 歌を歌うためならコードが弾ければ充分だし、なんとなればベース音を繋げるだけでもサ

マになる。分散コードもスリーフィンガーでやれば歌も映えるから、もうそれができればい

いやって気分になって、それ以上極めようという意欲は湧かないのだ、と三上が言うから、

そんなに歌に自信があるなら一度聞かせてくれよと坊太郎が言うと、待ってましたとばかり

に例の女の子の歌を歌いだした。

 

 坊太郎相手には理屈っぽく饒舌な三上も普段、坊太郎以外の生徒相手にはどちからという

と無口で、その声もぶつぶつ口の中で呟くような感じで時々聞き取れない事もある程だった

が、歌い出した三上は別人で、大きく開いた口から放たれる声は時には図太く、時には心地

よく天空を突き抜け、坊太郎の鼓膜どころか心の襞まで震わせた。

 三上の放つ音は言葉のみならず鮮やかな映像、変幻自在に形を変えるイメージを伴って坊

太郎に迫って来て、坊太郎の身体を包み込んだり揺さぶったりした。気がついたら、いつの

まにか坊太郎は夢中でその歌声に合わせてギターを弾いていた。

 三上のそれが歌であるならば、三上の言うとおり、坊太郎の歌はとてもじゃないが歌と呼

べるものなんかではなく、たしかに坊太郎は歌えないから歌いたくて楽器に夢中になったの

かも知れないな、なんて思ったりもした。

 

 文化祭の曲は前後が三上の歌をフィーチャーした例の女の子の曲、間の一曲が坊太郎作曲

のオリジナルインストナンバーという構成に決まった。

 三上の歌を絶賛した坊太郎がその構成を提案したら、三上は本当は人前で歌うのは初めて

でドキドキしてたんだよな、とかお前の歌なんか大したことねえじゃんって言われたらどう

しようかって思ってたんだよ、なんて殊勝な言い方で感謝の気持ちを表現し、その代わりに

みたいな感じで、インストナンバーは坊太郎に任せるよと言ってくれた。

 

 

 八月に入ってすぐのある日、下宿に帰るとおばさんがやけに熱心にテレビを覗き込んでい

た。何かあったんですか?と坊太郎が聞くと、

 

 過激派だよ、また過激派がなんかやらかしたみたいだよ

 

 と眉をひそめて見せた。

 日本人中心の国際的な過激派集団がマレーシアにあるアメリカだかスェーデンだかの大使

館を占拠して外交官を人質にとり、日本で服役中の仲間を釈放しろと要求しているとのこと

だった。以前の脂ぎって精力的な総理と較べると細面で気弱な印象の現首相はちょうど日米

首脳会談とかでアメリカに出かけており、その留守を狙ったようだとテレビは解説に賑やか

だった。

 

 夏休みに入ってからは下宿に何度も実家から電話がかかってきており、補習授業はいつ終

わるのかとか、そろそろ帰省したらどうなんだとか、同じ質問をしつこく浴びせられ、その

たびにお盆までは無理だと跳ね返していたが、それもお盆が近づいてきて万策尽きた。

 下宿の剣士村田さんは水を得た魚のように早朝から中庭で竹刀を振り回し、部活の練習に

でかけると夕方日が暮れるまで帰ってこなかったし、受験を控えた原田さんは市の図書館に

連日通いつめていたしで坊太郎同様、夏休みになっても帰省せずに居残っていたが、さすが

にお盆だけは帰省するとの事で下宿にも居づらく、その上お盆の間は学校は閉鎖されるとか

で行き場もなく坊太郎も実家に帰る事にした。

 

 例の国際過激派組織の事件は結局、人質になった欧米の外交官に死者は出ず全員無事で解

放されたが、その代わり日本国内で服役していた彼等の仲間はにこにこ笑顔で釈放され、日

本航空のチャーター便でリビアとかいう国まで送ってもらっていた。飛行場に姿を見せたそ

の大使館を襲ったとかいう過激派が上げ底靴にパンタロン姿でお洒落だったのが印象に残った。

 

 

 帰省すれば祖父、両親に雪隠詰めにされて不勉強の始末を問い質されるのは明らかで、か

といってゴメンね意外に釈明の言葉も思いつかず、二学期はがんばるからで押し切ろうと腹

を括ってバス停を降りたのだが、たしかに機嫌が良いとは言えないが、敷居を跨ぐ早々に座

敷に引き込まれ正座させられた上にガミガミ怒鳴られという展開にはならず、まあ疲れたろ

うから風呂にでも入って汗を流せだの、喉が乾いたろうから冷えたスイカでも食えだのと意

外な対応で拍子抜けした。

 夕食時に出た、まあ友里ちゃんでもアレじゃいうけえ、しょうがなあ言やしょうがなあが

のおという祖父の言葉に、母親が、そうは言うても友里ちゃんは陸上やっててのあれで、陸

上じゃあ全国区じゃけえ、坊太郎と一緒にしちゃあいけんよと言うのを聞いて、どうやら友

里も保護者同伴の期末面談で全てが露見し、「トップではないもののベストテン」だという

のはでっち上げで一学期の成績は坊太郎同様深刻な状況であることが判明し、それに伴って

坊太郎や友里への期待が現実離れした過大なものだった事、やはり田舎の神童も井の中の蛙

に過ぎない事をつきつけられた思いでしょげかえっているのだと思われた。

 電話で真の愛国少年ここにあり、アッパレじゃとはしゃぎまわっていた祖父が苦虫をかみ

つぶしたような顔でしょげかえっているのを見ると、少しは勉強しておけばよかったかなと

も思ったが、どう勉強をがんばってみたところでトップになるのは絶対に不可能だと確信め

いたものは抱いていたから、中途半端にがんばるのはかえって自分の首を絞めるだけで、こ

こでは親族一同にできそこないの息子・孫を見捨ててもらうのが一番と心を鬼にした。

 

 

 翌日、なにもすることがなく暇だったので、夕方生田に電話してみたら母親が電話に出て、

盆踊りの日の夕方に家におる若いもんはおらんじゃろと、町に出てそんな事もわからなくな

ったのかと言わんばかりの口調で喋り、紀代美ちゃんに盆踊りの晩の相手を頼んでるんだと

いう生田の声が蘇った。

 そう言われれば、製材所の面々も、両親も落ち着かない感じで、もしかしたら坊太郎の成

績どころじゃなかったのかも知れないなと思ったりもした。

 子どもじゃあるまいし今更盆踊りでもなく(とはいえこの村では、子どもじゃないからこ

その盆踊りなのだが)、今晩も明日も下宿に戻るまでは文化祭で発表するオリジナルインス

トナンバーの作曲に没頭しようと決めた坊太郎は2階の自室に上がってギターを弾いていたが

、これからという時に生田から電話がかかってきた。

 お袋さんが電話があったと伝えたものと思って電話に出たが、どうやらそうではないよう

で、賑やかな祭囃子の聞こえてくる電話口で何やってんだ速く来いよと生田は言った。

 生田の声は酒でも入っているのかどうにも楽しくて嬉しくてもう抑制が効かないぞって感

じで作曲モードの坊太郎とのギャップは大きく、どうにもこの感じには着いていけないなあ

と思った坊太郎が俺は良いよと電話を切ろうとしたら、

 

 友里が寂しいちゅうとるで

 

と喉を鳴らし、とにかく速く来いと繰り返した。

友里と聞いてドキッとした坊太郎だったが務めて冷静な声で、今忙しいんだよと返したら、

馬鹿たれ、盆踊りの晩に女が寂しいっちゅうのんは抱いて欲しっちゅう意味じゃろうがと

生田は声を潜めて一気に喋った後、おっさんのような馬鹿笑いをして電話を切った。すぐ

に二階にかけ上がり、しばらくギターを弄んでいた坊太郎だったが、どうにも気持ちが落

ち着かず階下に降り、懐中電灯を握り素足に下駄をつっかけて表に出たら、南の夜空から

生ぬるい風にのって祭囃子が小さく聞こえていた。

 

 

 坊太郎が盆踊りの会場である神社の境内に近づいたのはちょうど年寄り子どもの帰る九

時頃だったようで、三々五々、家路につく子どもや、子どもの手をとった年寄りと参道で

すれ違った。中には顔見知りのお婆ちゃんもいて、おお若いしはこれからが本番じゃけえ

なあ、などと意味深な声をかけた。

 大きな杉の木の間から神社の境内に出来た踊りの輪が見えかけた時、参道を戻ってくる

一つの人影が、

 

 今頃子どもが何しに来てんの、子どもはお家に帰んな

 

 と坊太郎に声をかけてきたから驚いて懐中電灯で照らすと白地に花柄の浴衣を着た友里

だった。

 

 何しにってお前が呼んだんだろ?

 

 と坊太郎が苛ついた声を出すと、友里はぞんざいな口調にしてはよそ行きな標準語で、

あんたなんか呼ばないわよと面倒くさそうに言い、すたすたと参道を戻ろうとするので慌

てて坊太郎が追いかけ生田から電話があった話をすると、友里は歩みを止めずに、どうせ

私がやりたいと言ってたとか言われてほいほい出てきたんでしょ、なんてそのままズバリ

を言うので坊太郎が絶句していると、そうだ、ちょうどいいわなんて言いながら坊太郎の

持っていた懐中電灯を奪い取り、ちょっと一緒に来なよと先に立って歩き出し、家の方角

とは違う山道を行こうとするので、後を追うとそこは今は使われなくなった炭焼き小屋な

んかがある小高い丘への道だった。暗い山道を登っていると誰もいないはずの炭焼き小屋

の方からうめき声がするので驚いて息を潜めたら、友里が照らした懐中電灯の灯りに、は

だけた浴衣姿で絡み合う男女が浮かび上がったが、チラリと見えた女の横顔が紀代美ちゃ

んに似ていたのでギョッとして履いてきた下駄の先が草の根に当たり転げそうになった。

 友里もそのことに気がついたはずなのに、何も見なかったかのような様子で山道を進ん

で行き、しばらくすると開けたところに出た。

 山道にも、登り切った丘の上にも街灯などはあるはずもなく辺りは漆黒の闇に包まれて

いたが、そこからは盆踊りの神社の様子がよく見え、夜陰に神社だけが明るく浮かび上が

っていた。境内からはまだ祭囃子も聞こえていて、人の輪が幾分小さくなったにせよ、踊

りはますます熱気を帯びていたが、目を凝らすとその明るい境内から北に南にと手に手を

取って暗がりに向かう男女の姿なんかもチラホラ見え、あんなふうにして生田と紀代美ち

ゃんもここに上がってきたんだと思うと息苦しくなるくらいにドギマギしてしまう坊太郎

だった。

 友里はというと坊太郎と同じようにただ丘に立って神社の方を見ているだけで何も言い

出さない。ついて来いと言うからには何か用があるんだろうと思って友里が何か言い出す

のを待っていたが、いつまでたっても何も言わず、さすがに痺れを切らした坊太郎が、

 

 で?何の用なんだよ

 

 と標準語で虚勢を張ると、唐突に

 

 ヨーコちゃん、村にいた時からずっとあんたの事が好きだったんだって、

 

 と友里も標準語でヨーコの話をし始めた。

 何でこのタイミングでいきなりヨーコの話なんだと思ったから、そのことを言ったが、

友里はそんなことお構いなしで、ヨーコちゃんのお父さんもあんたのお母さんが好きで、

いつだったかの盆踊りでお願いして相手してもらった事があるらしいよ、だの、村を離

れる時はあんたのお母さんがモーツアルトだかべートーベンだからの「別れの曲」を弾

いてあげたっていうからあんたのお母さんもまんざらじゃなかったのかもねだのと話を

続ける。

 「ショウコさん」と母親を下の名前で呼んだあのオヤジさんの声が木立の間から聞こ

えた気がして顔が熱くなった坊太郎が、何が言いたいんだよと苛ついた声を出すと、だ

ってヨーコちゃんが勝手に話してくるんだもん、せっかく教えてくれたんだからあんた

にも教えてあげなくちゃって思っただけだよ、なんて済ましているから、おい俺帰るぜ

と言い残して帰ろうとしたら、あんたから手を引けって言われたのよ、と坊太郎の背中

に向けて友里は言った。

 

 手を引けって何だよそれ

 知らないわよ、ヨーコちゃんに聞けば?仲良しなんでしょ?

 ただの友達だよ

 あの映画館に入り浸ってるらしいじゃない

 入り浸るって何だよ、たった2回だけだよ

 へえ、2回も行ったんだ

 何だよそれ

 たとえ2回でもヨーコちゃんはあんたの好意だと受け取ってるって事だよ

 知らないよそんなの、映画見に行っただけだぜ

 よかったわね、ヨーコちゃんがあんたを男にしてあげるってよ

 ちょっと待てよ

 あたしじゃ無理なんだってさ

 無理って何が

 鈍い男ね、あたしじゃセックスの相手は無理だって言われたの

 おい、こんなところで何言い出すんだよ

 しょうがないわよね処女なんだから、まだ

 やめろよ、そういうの

 そりゃ経験豊富な子の方がいいに決まってるよね

 やめろって

 なんで?

 こんな晩に、こんなところで、どういう積もりなんだよ

 なに苛ついてるのよ

 当たり前だろ、馬鹿にすんなよ、俺だって男なんだぞ、怖くないのか

 怖いって、何がよ

 お前がどう思ってるか知らないがな、俺だってなあ、俺だって、心の中にケダ

 モノを飼ってるんだぞ

 だから何よ

 だから、いつ豹変するかわかんないって言ってんだよ

 へえ、豹変できるもんならしてみれば?

 してみればって、お前

 ………

 からかうなって

 ………

 からかうなよ 

 ほうら、やっぱり子どもじゃん

 だって、お前

 

   辺りは真っ暗闇で坊太郎から友里の声しか聞こえなかったし、自分の動揺した顔も見え

るはずはなかったが、なんだか後ろ手に縛られたまま全裸にされてジロジロ裸体を見られ

るくらい自分の気持ちが見透かされているような気がした。

 あながち生田の電話も嘘じゃなかったのかも、と頭では感じていたけど、気持ちが焦る

ばかりで声さえも出せないでいると友里は業を煮やしたように溜息をつき、

 

 バッカじゃないの、ケダモノだの豹変だのって、そんなのあんだだけじゃないわよ

 

 と言い放つとさっさと丘を降りていき、坊太郎だけが丘に残された。祭囃子は止むこと

もなく続いており、踊りの人の輪は右へ左へと波のように柔らかく揺らぎながら進んでい

き、この踊りはこのまま明け方まで続くのだと思われた。