気高く清く美しく その⑥

 

 盆休みが開けるや否や、家族に告げることもなく坊太郎は下宿に逃げ帰り、ひたすら

文化祭で披露するインストナンバーの作曲に没頭したが、正直なところその間も油断す

ると脳裏には夜陰に浮かぶ神社の景色だの、手に手を取って暗闇に走る男女の姿だの、

懐中電灯に照らされた紀代美似の女の横顔だの、白地に花柄の浴衣に透けて見える白い

ショーツのラインだのが脳裏に浮かんでは消え、それを振り切るように必死で作曲に打

ち込み、とりわけ煩悩に悩まされる夜はもっぱらラジオの野球中継を聞いてすごした。

 

 あの日あの晩テレビのオールスターとやらで度肝を抜かれた坊太郎は、ケンゾー顔負

けにすっかりかの球団の贔屓になっていたのだが、毎日のように野球中継を聞いている

と、あのオールスターでの活躍が突飛なものでないことがだんだんわかってきた。

 下宿の新聞に掲載されていたリーグ前半戦を振り返ってみたいな記事では、外国人選

手の補強には成功してここまで来たが、鞭をいっぱいに入れた競走馬みたい走り続けて

きたから夏場には失速しそうだし、やはり本命は名古屋の龍か大阪の虎だ、なんて書い

てあったが、6回まで1安打しかしてなかった試合の7回に四球と安打で満塁にするとプロ

入り後一本もホームランを打った事がない内野手が代打で出てきて逆転満塁ホームラン

をかっ飛ばして勝ったり、7回まで1安打の8回に2人のランナーを置いてオールスターで

大活躍したあの背番号⑧の外野手が逆転ホームランを打って勝ったりと奇跡的な勝ち方

が多く、どんなに劣勢でも、いつかどこかで何かが起こるんじゃないかと期待させられ

たし、実際その期待の多くは現実になった。

 

 あんなことがあったのに、何も言わずに実家を去った事で、きっと友里から電話があ

るに違いないと思っていたが電話どころか暑中見舞いの一枚すらなかった。

 夏休みに入った頃は何かと言えばスバル座で見た映画の感想を口にし、また見に行き

たいからヨーコに電話してみてくれよとしつこく擦り寄ってきていた三上はといえば、

興味がなくなったのかスバル座のスの字も口にしなくなり、そろそろスバル座行ってみ

るか?なんて坊太郎が水を向けても、いやいいよなんて苦笑いを見せるだけで、部活で

は例のヨーコ似の声の子の歌を毎日歌っていた。

 

 下宿のおばさんは、伊豆だかどっかの島に若者が殺到して酒盛りをしたりシンナーを

吸ったりした挙げ句に、ゆきずりの男女で何やらいかがわしい行為にまで及んでハチャ

メチャになっているが、島民は金蔓だから仕方ないと諦めているなんていう新聞記事を

読んで聞かせ、やっぱり同じ田舎でも東京の方の田舎はレベルが違うねえ、なんて非難

してるのか賞賛しているのかわからない感想を口にしていた。

 

 そんなある日の夕方、部活を終え下宿への道を学校の丘を降りていた時、坊太郎は学

校下にある汽車待ちの商店でケンゾーを見かけた。夏休みに入ってからは初めてだった

ので、懐かしく思った坊太郎が店の中に入っていき声をかけると、ケンゾーは久しぶり

の挨拶もそこそこに、オールスター見てくれたか?と贔屓の球団の話題を振ってきた。

 オールスターどころか、あれ以来毎日夜はラジオにかじりついている事を、奇跡的な

勝ち方に毎日狂喜乱舞だよなんて言い方で興奮気味に喋ると、夏休みに入ってもまだ優

勝争いをしているなんて球団創設以来の事だから、今年という今年はもしかしたらもし

かするぞ、なんて言い方で優勝も夢じゃない事を力説してみせ、実はお盆に里帰りした

ついでに市民球場まで足を運び試合を見てきたんだと付け足した。

 いつもの夏休みならBクラスに低迷してるから観客席はガラガラで、泥酔したおっさ

んや柄の悪いアンチャン達が管巻いているだけなのに、まるで盆踊りの会場みたいに人

が多くて凄い熱気だったんだ、なんてケンゾーまで盆踊りを持ち出してくるから、また

坊太郎の脳裏に友里の浴衣姿なんかがちらついたが、生まれてこの方野球場なんて一度

も行った事のない坊太郎は実際に球場で試合を見たというケンゾーの話にひどく興味を

持った。

 いいなあ、俺も一回でいいから球場ってとこへ行ってみたいなあ、と坊太郎が言うと、

ケンゾーはえらく感激した様子で、そんなこと言ってくれたのはこっちに引っ越してき

てからお前が初めてだよ、と大袈裟に坊太郎の手まで取って、感謝の言葉を口にし、良

かったら今度一緒に行こうかと誘ってくれた。汽車と路面電車を乗り継いで2時間もあれ

ば行けるから、4時発の汽車に乗れば6時プレイボールに間に合うし、9時に試合が終わっ

ても11時には戻ってこれるとケンゾーが言うので本気で行く気になって、そのことを言

うと、よしわかった、いつの試合がいいか俺が調べておくから任せてくれとケンゾーは

胸を張った。

 

 

 

 予習復習なんてさらさらやるつもりはないものの、テスト勉強くらいはやってみるか程

度に少しは勉学への意欲を抱いて迎えた2学期の始業式の日、登校するや西岡という生徒

が坊太郎に詰め寄ってきた。

 西岡は友里の家まで跡をつけたという例の男子生徒だが、大磯あんまりじゃないかと言

うので、何の事かと聞き返すと、どうしても友里の事が諦めきれずに、夏休みのある日実

家の近くで待ち伏せして、坊太郎に紹介してもらった者だけどと声をかけたら、ちょっと

誰よあんた、そんな話聞いてないからと走って逃げられたと言う。

 たしかに二度も跡を付けるなんて気持ち悪いわなあと思ったし、そんな素直な感想を冷

たく言い放つところは友里らしいなんて妙に感動したりしたのだが、西岡は、紹介してく

れたって言ったじゃないか、嘘だったのか?、人の恋心を弄ぶような事するなよ、と不満

をぶつけてきた。坊太郎はしまったと思ったのだが、今更抗弁したところで火に油を注ぐ

ようなものと思い、すまん許してくれ、いろいろあって電話したんだけど上手く話せなく

て、と素直に謝罪したのに、「天女藤原の処女を守る会」会長の野村がそのやりとりを小

耳に挟んだようで、お前ってやつはもっと良い奴かと思ってたけど、とんでもない食わせ

者だな、なんて絡んできた。

 野村としてはクラスのアイドル藤原友里と幼なじみであるのに、あえてそのことを隠し

ていた事を今も根に持っているようで、そのことを蒸し返してグダグダ言っていたが、そ

れを聞いた他の男子も、そういえば彼女の初体験の相手はこいつだってもっぱらな噂だし、

なんて今更な偽情報を持ち出すので、2学期早々、なにやら教室がおかしな雰囲気になっ

てしまった。

 

 坊太郎贔屓の弱小球団は初優勝に向けての試金石となる12連戦初戦の名古屋の龍相手の

試合で、わずか1点を跳ね返すことができず完封負けを喫した。

 エースで負けたのは実に痛いですねえ、やっぱりこれが優勝のプレッシャーなのですか

ね、と解説者は喋っていた。

 一方、クラスのおかしな雰囲気はその後も続き、以前と同じように接してくれるのはも

はや大谷とケンゾーしかいなかったが、そんなこんなの新学期4日目、突然下河に呼び出さ

れた。

 下河といえば、やれ「真の愛国少年」だのなんだのと坊太郎を過大評価してくれていた

生徒指導主事の教師なのだが、古い知り合いだという坊太郎の中学の校長からまた何か与

太話でも聞かされての雑談の相手に違いないと高を括って生徒指導室のドアを開けると、

下河はえらく不機嫌だった。

 いつものように銜え煙草で煙りをくゆらせていたが、銜えていた煙草を灰皿でもみ消す

と唐突に

 

 道管を停学処分にした

 

 と言い出した。

 ヨーコが停学と聞いて、ヨーコの私生活のあれこれが何らかの理由で露見したに違いな

いとピンときたが、それはそれでそのことをなぜ関係のない坊太郎に喋るのかわからなか

ったから黙っていると、理由はわかっちょるじゃろうのお?とドスの利いた声で凄んでき

た。

 ヨーコの停学の理由はなんとなくわかったが、それと坊太郎とは何も関係はないし、な

ぜ凄むか不明だったから首を横に振ると、

 

 妊娠じゃ、腹に子がおる

 

 と小さな声でつぶやくと、一転どなるような口調で、相手はお前じゃ、間違いない、と

言い放った。

 鬼畜米英を駆逐すべく単身やつらのアジトへ赴いて愛国少年の心意気を披瀝してきた事

、アッパレと思っていたが、学問に身も心も捧げるべき学徒が淫欲に溺れ性愛めあてに場

末の映画館に入り浸るとはなんたる破廉恥な、と嘆いてみせたが、そもそも鬼畜米英を駆

逐する云々なんて誤解も甚だしい上に妊娠の相手が坊太郎だとはとんでもないと思い、さ

すがの坊太郎も席を立って、いい加減にしてください、僕じゃありませんよと声を荒げた

ら、米兵男女が卑猥に絡み合う映画館の中で飲酒酩酊したのも事実じゃないと言うのか?

と睨まれた。

 ばれるはずのないそのことがどうしてばれたのか、誰が喋ったのか、そっちの方に引っ

かかって二の句が継げずにいると、お前はマタノやらあいつの子分やらに恨まれとるしな

あ、そういう事は回り回って学校の耳にも入って来るもんなんだよ、なんてわかったよう

なわからないような言い方をされたが、ふとスバル座に行った時、マタノさんと一緒に作

業していたリーゼントの鋭い目つきを思い出した。

 未成年が飲酒酩酊した上に同級生の女子を孕ませたとなったら、こりゃ停学じゃおさま

らんわなあ、なんて下河は脅してきたが悲しい事に身に覚えがないものはないわけで、さ

っきも言ったように飲酒の件は認めるが妊娠云々は本当に身に覚えがないので、それだけ

は認めるわけにはいきませんと答えたら、本当にそうかと念を押してくるので、そうです

と力強く頷くと、そうか、わかった、なんてあっさり引き下がるので、もしかしたら妊娠

の件はカマをかけただけだったのか、なんて一瞬思ったが、下河はそんな坊太郎の気持ち

の揺れには無関心に言葉を続けて、明日、飲酒酩酊の件で処分するから追って沙汰を待て

と告げた。

 

 

 飲酒酩酊の件は事実で、本来なら1学期、制帽を被らずに外出したとかで説諭された時に

ばれて処分されてもおかしくなかった一件だったから、謹慎だか停学だか知らないが甘んじ

て受けるしかないと思ったが、ヨーコの一件は少なからずショックだった。

 盆踊りの晩に友里から聞いた話や、いつぞや電話で直接言われた事からヨーコが単なる幼

なじみ以上に坊太郎に好意を持ってくれているのはわかっていたし、ヨーコのような大人び

た女子に好かれた事が素直に嬉しくもあったが、好意と性愛とは表裏一体だと信じて疑わな

い子どもの坊太郎にとって、自分以外の誰かとそういうことになるなんて想像もつかなかっ

たのだ。

 ただ考えてみれば、米兵救援活動の中で相談を受けるうちに好意を感じた相手と寝ること

もあるなんて平気で喋っていたヨーコの事だから、いくら坊太郎に好意を感じていたところ

で、それとこれとは別次元の事だったのかもわからないし、そのへんは子どもの坊太郎には

雲を掴むような話だった。

 若い米兵なのか、それとも日本人か。日本人なら誰なのか。もしかしたら、あいつとは寝

たこともないのにって笑っていたマタノさんとそうなったのか、否、もしかしたらマタノさ

んとフィルム装着を手伝っていたあの若いリーゼントかも。そんなこんなが坊太郎の頭の上

を何度も旋回し気持ちは落ち着かなかった。

 

 生徒の中で唯一相談できそうな三上に聞いてもらおうと部室に急いだが三上の姿はどこに

もなく、しばらく待っていたら三上と同じクラスのやつが、あいつ欠席だよと教えてくれた。

仕方なく一人で半分ほどできあがったインストナンバーの続きを考えていた坊太郎だったが、

どうにも気分が落ち着かず早めに切り上げて下宿に戻ると、学校から連絡が行ったのか実家

から電話がかかってきた。

 聞けばどうやら実家には学校からではなく、中学の校長経由で話が伝わったらしく、飲酒

酩酊で懲戒処分になるっていうじゃないかと父親は不機嫌な声を出し、処分が出たら謹慎中

は帰省するんだぞと言った。飲酒酩酊した映画館が自分らの村ゆかりの道管氏の経営するそ

れで、その道管氏の娘に誘われて映画館を訪れてというあたりの事情は校長経由で聞いてい

たのか、根ほり葉ほり聞く事はしなかった。

 坊太郎はわかったと答えたものの、実際帰省する積もりはなかった。妊娠の相手が誰なの

かもわからないまますごすご帰省なんかできるものかと思った。

 

 

 次の日、昼休みに珍しく坊太郎の教室に顔を出した三上を見て坊太郎は驚いた。誰かに殴

られましたと言わんばかりに、顔の頬骨の辺りと目の回りにアザが出来ていた。

 ちょっと話があるからと連れ出された中庭のベンチで、実はと三上は切り出した。無論、

三上を殴った相手の事なのだが、三上はマタノだと言った。なぜマタノさんが三上を殴るの

かさっぱりわからなかったからそれを問い質したが、それだけは勘弁してくれとはぐらかし

たあと、明日からしばらく学校を休むから、申し訳ないがしばらく一人で例の曲を練習して

おいてくれとつけ足すから、さらに訳がわからなくなり、おいわかるように話してくれよと

苦笑いをすると、ヨーコのそばにいてやりたいからという科白が三上の口から飛び出して目

が点になった。

 三上の科白から、ヨーコの停学の事をどこかで聞き知ったらしいというのはわかったが、

全く知らぬ間柄ではないにしてもせいぜい友人、とてもじゃないが親友とは呼べない三上が

、いかに停学で傷心の日々とはいえ、停学の理由もわからぬヨーコのそばにいてやりたいと

はちと出過ぎてはいないかと思った。

 好意を持たれている坊太郎でさえ会いに行くべきか悩んでいるというのに、三上のそれは

俗に言うありがた迷惑になりはしないかと思ったから、そのことを遠回しに言うと、本当に

ヨーコには申し訳ないと思ってる、なんて本当に済まなさそうにするから、さすがに鈍い坊

太郎もまさかと思った。

 

 お前、まさか、お前が?うそだろ?

 

 と坊太郎が声を震わせると、三上は坊太郎の問いには答えず、

 

 せめてそばに居てやるくらいはしてやりたいから

 

 と同じ台詞を繰り返し、そういう事だからよろしく頼むと頭を下げてベンチを去っていった。

 

 

 その日の放課後、呼び出された生徒指導室で坊太郎は下河と校長からねちねちと説諭され

た挙げ句、停学3日を言い渡された。

 案の定、夕方実家から電話があり、すぐに帰省しろと祖父が不機嫌な声を出したが、停学

中も出された課題を毎日職員室に提出に行かないと行けないから無理だと嘘をついた。坊太

郎が停学になったことを聞いた村田さんは大喜びで、大磯お前は前から見込みのある奴だと

思ってたよ、なんて自室に隠していたらしいウィスキーを飲ませてくれた。

 前日、例の弱小球団は名古屋の龍に2点先行され敗色濃厚だったが終盤に追いつき、さらに

9回ワンアウト3塁のピンチをリリーフエースがしのいでかろうじて10回引き分けに持ち込んだ。

 

 

 停学の3日間というのは土曜日から日曜日を挟んで火曜日までで。登校は来週の水曜日だ

った。

 その日、登校したら朝一番に生徒指導室に反省文を出しにこいと指示されていたのだが、

指示をした金曜日、下河は原稿用紙を20枚数えて渡し、1枚でも足りなかったら退学だから

なと脅した。

 下河が言うには、ごめんなさい、すみませんだけで埋まるのはせいぜい4、5枚で、それ以

上は書けないから、20枚も書かせれば本音がチラホラ出てくるのだそうだ。本気で反省して

いることが伝わって来なければ停学は延長、本当に反省できるまで何度でも書かせるからな

と喉を鳴らした。

 男女共学とは名ばかりで、正門を潜るや男女別々の「学校」に別れるという歪な学校の実

態だの、写真を見せたり臭いを嗅がせた挙げ句に食べちゃだめですよとダイエットを迫るよ

うな不自然さで必要以上に男女の接触を制限するがために一方的な感情移入や妄想でおかし

くなっている生徒の様子だの、たかだか買い物に外出するだけでも制服制帽の着用を義務づ

けたり、こっちは村全体で子どもの性的成長を後押しするような村で育ってきているという

のに、いつまでも「清く正し」い性的未成熟者(子ども)であれと説き、村挙げて祝うべき

懐妊を停学処分で辱める狂った校風だの不平不満なら100枚でも書けると思ったが、悪かった

なんて思ってもいないのに「ごめんなさい・すみません」の嘘っぱちだけでは確かに1枚にも

足らず、自棄になって坊太郎は原稿用紙を机の引き出しに放り込んだまま、昼まで寝て昼飯

を食うとまた夕方まで寝て、夜は村田さんとウィスキーを飲みながらプロ野球のラジオ中継

を聞くという生活を繰り返した。

 ヨーコと三上の事はずっと気になっていて、その後どうなったのか、これからどうする積

もりなのか聞きたくて仕方なかったが、どうしても自分でなくて三上なのかに拘ってしまい

結果電話はできなかった。

 

 名古屋の龍を相手に延長戦の末引き分けた贔屓の弱小チームはというと、次の試合で若手

のエースが相手を2安打完封に抑え外国人がとどめのホームランを打って4対1で勝ち、9年連

続で日本一になった実績がありながら今シーズンはダントツの最下位に沈んでいる東京のチ

ーム相手の3連戦でも、4点差を追いつき9回遊撃手の決勝ホームランで突き放して勝つとい

うこれまた奇跡的な勝ち方でものにして2勝1引き分けと好調だったが、その間名古屋の龍も

大阪の虎もしぶとく勝ち続けていて、相変わらず首位にいるもののその差は僅差だった。

 その奇跡的な勝ち方をした翌々日、停学の開けた坊太郎は指示された通り登校し、朝一番

に生徒指導室に顔を出したが、無論反省文など1枚も書いていなかった。

 反省文を持参していない事をグダグダ言われれば、指示通り書いたけどとてもじゃないが

今の気持ちは20枚では収まらないからあと30枚くらい原稿用紙を呉れとでも言う積もりで

いたのだが、部屋に入ってきた下河は妙に上機嫌で鼻歌なんか歌っており、いやいや待て

ば海路の日和ありってなあ、人生山あり谷ありだ全く、なんて言うから、どうされたんで

すか?なんて応じたら、喜べ、例の不良女子生徒、自主退学してくれたよ、お前も災難だ

ったな、2度とあんな生徒に拘わるんじゃないぞ、なんて言うので一瞬呆気にとられたが、

すぐにヨーコの事だと思った。

 だいたい女子部の生徒指導が甘っちょろい指導をするからこんな無様な事になるんだ、

女ってやつはいくつになってもダメだな、なんて無神経なことを下河が続けるのでカッと

頭に血が上った。

 

 どこが不良なんだよ、セックスしたら不良かよ、ならお前はどうなんだ?教師は

 みんなインポなのか、どいつもこいつもやるこたやってるくせにいい加減な事言

 ってんじゃねえよ

 

   坊太郎はその足で玄関を出て、正門から学校の丘を下り降りたが興奮は醒めずにいて

、反省文を書かなかった上に生徒指導主事を面罵した挙げ句無断早退だから、自分も退

学間違いなしだなと思ったがどうにでもなれという気分だった。

 下宿前まで帰るとヨーコが路地の石垣に腰を下ろして下宿のおばさんと楽しそうに話

をしていて、坊太郎を見ると、よお久しぶりじゃんと満面の笑顔を見せ尖った気持ちが

少しだけ丸くなった。

 前のように神社まで歩き、一体全体どういうことなの?と坊太郎が聞くと、

 

 結婚するのよ

 

 と言うから鼻血をぬかしそうになった。

 学校辞める事になったの、とか、赤ちゃんができちゃったのくらいは言うだろうと身

構えていたというのに、赤ちゃんができたから学校を辞めるわという話を飛び越えてい

きなり結婚ってどうなってんだよと腰を抜かしそうになったのだが、はたと思いついて、

まさか三上と?と顔を寄せると、なんで三上くんとなの?と笑われた。

 ヨーコは一緒に米兵の救済活動をしてきた牧師と結婚してアメリカに行くことにした、

っていうか妊娠を告げたら、じゃあ結婚しようって言ってくれたんだと嬉しそうに話し

た。

 

 ちょっと待った、赤ん坊の父親は三上じゃないのか?

 

 て坊太郎が聞いたら、ああ、とだけ言って少し困ったような顔をみせた末に、もう三

上くんにも困ったのよと苦笑いするから、どうしたんだって聞いたら、三上くんの名誉

の為に坊太郎の胸に納めておいてほしいと前置きした上で話して聞かせてくれた。

 坊太郎と一緒に映画館に来ていらい三上は坊太郎に内緒で映画館に通い詰めていたら

しく、自然ヨーコとも親しくなったらしいのだが、どうやら三上のお目当ては映画より

もヨーコだったようで紅茶を飲みながら楽しくお喋りしていた映写室で二人っきりにな

った時に三上から告白された。

 好意はうれしいけど恋人にはなれないとやんわり断ったら三上が泣き出してしまった

から、つい可哀想になってゴメンなさいねと抱きしめてキスをしたら、ついついそうな

っちゃった。

 もちろんゴムつけさせたし、一回きりだったのに、三上はそれで赤ん坊ができたと思

ったみたいで、妊娠がわかってからすっかり自分のせいだと思い詰め、よせばいいのに

マタノに相談して殴られ、それでも懲りずにせめて君のそばに居てあげたいからと真夜

中に映画館まで来たりしたらしい。

 

 来月早々にも彼がアメリカに帰るから、一緒に行くつもりでいる事、彼と結婚してア

メリカに行くのが夢だったからこの町にもあの学校にも何の未練もない事を明るく話し

たヨーコだったが、唯一あの学校に入って良かったのは坊太郎に会えた事だと微笑んだ。

まさか初恋の坊太郎にまた会えるとは思ってもいなかったから、と。

 ヨーコが坊太郎の胸の前に右手を差し出すから坊太郎も応じて右手で差し出された右

手を握ると、ヨーコはひょいと握られた右手を自分の方に引き寄せ、坊太郎の腰に手を

回し唇を吸ってきた。

 驚いて離れようとした坊太郎をヨーコはさらに引き寄せたが、同時にこれまで味わっ

た事のない柔らかい感触が口腔内に広がり、その感触は軟体動物のように坊太郎の粘膜

を刺激した。

 何が起こったのかもわからない坊太郎が呆然としていると、身体を離したヨーコは、

あぁあ赤ちゃんができちゃったとニヤリと笑ってみせた。

 

 ヨーコから結婚の話を聞いたのか、下宿に戻るとおばさんは問わず語りに自分の昔話

を聞かせてくれた。

 今でこそ高校生が結婚したり妊娠したりすれば騒ぎになったり噂になったりするけど、

自分達のころは15、16で結婚するのが当たり前で、女学校在学中に縁談が決まって学校

を辞める時にはクラス中でお祝いしたもんだ。どうしてあんなお目出度い事が停学だ退

学だってことになるのかねえ。

 自分の生まれた村は女は13になる歳に水揚げと決まってたから親戚の叔父さんに女に

してもらって、それからは村のお兄さんたちが毎晩、通って来てくれてさ楽しかったも

んだよ。

 今は亡きご主人のところに嫁入りしたのはヨーコと同じ16の秋だった、とおばさんは

言った。

 

 ヨーコを見送っておばさんの話が一区切りつき、下宿の部屋に上がると急に睡魔が襲

ってきて、気がついたら畳の上に転がってうたた寝をしていたが、見ていた夢の中では

プロ野球中継のラジオのアナウンサーの声だけが聞こえていて、目が覚めた時どういう

わけか坊太郎は野球を見に行かなきゃと思った。

 夏休みからこっち夢中になってるあの弱小チーム。毎日ラジオにかじりついて聴いて

いる、あの試合を自分の目で見てみなきゃ、と思ったのだ。

 一度そう思うと何か目に見えない力にせき立てられるような気分で居ても立ってもい

られなくなった。ケンゾーとは一緒に見にいく約束をしていたし、近いうちにケンゾー

が誘ってくれるはずだとは思ったが、今日でないと駄目だ、と思った。

 新聞を見たら今日はホームゲームの予定になっている。ケンゾーの話では夕方4時に

出れば試合開始に間に合うとの事だったから午後3時の今なら充分だ。坊太郎はありっ

たけの持ち金を学生ズボンのポケットに突っ込み、ワイシャツにベージュのジャンパー

を引っ掛けて下宿を飛び出した。

 鉄道の駅までバスで出て、そこから上りの汽車に乗った。駅までは何度か来たが、駅

から上りの汽車に乗るのは生まれて初めての事だった。どうやって行くのかさっぱりわ

からず、これまでの坊太郎ならわからない事で不安になって二の足を踏む場面だったが、

どういうわけかなんとかなるさと思った。

 まだ夕方前の汽車はわりと空いていて4人がけの座席の窓際に1人で座り、それは列車

が県境を越えて隣県に入って2つ3つと駅を見送っても変わらなかったが、日本三景で有

名な島の最寄り駅で、駅のホームに溢れんばかりの客をみて坊太郎は目を見張った。

 汽車が止まると待っていた乗客は我先にと入り口に殺到したが、中年高齢の男性ばか

りの乗客はみな殺気立っていて、入り口の列に遅れた1人の柄の悪そうなオヤジは坊太郎

の座った席の窓ガラスを握った拳で何度も叩き、窓を開けろと怒鳴ったから、慌てて窓

ガラスを引き上げたらなんとそのオヤジは窓から足をねじ込み、そのまま坊太郎の座席

の前に陣取った。

 気がつけば前後の席でも同様に乗り遅れた乗客は開けられた窓から乗り込んできて自

分が座席につくや、いつまでも窓開けとくな、しめれやと勝手な事を怒鳴った。

 なにしろ汽車に乗るのは初めてで、そういう行為がマナー違反なのか、マナー違反に

してもよくある光景なのかさえわからなかったが、アッという間にガラガラの車内が満

員となり、走り出した列車の中でその一部の男性が上着の内ポケットから取りだした札

束を指を舐め舐め数えだし、それを通路に立った他の乗客が血走った目で睨み付けと、

異様な光景に身が縮む思いだった。

 

 隣県の県庁所在地でもある地方都市の駅で降りて駅員に野球が見に行きたいがどう行

けばいいのか聞くと、路面電車で一本だからと丁寧に教えてくれ、教えられた通りの電

停で降りると、球場の周りにはまるで村の盆踊りのように大勢の人達が行き交っており、

信号待ちで立っていると、大きな球場の向かいには世界で初めて落とされた恐るべき爆

弾の被害を今も伝える建築物が夕日を浴びて立っていた。

 よお、兄ちゃん1人か、ええ席の券が残っとるで、と声をかけてくる柄の悪いおっさん

達を払いのけるようにして内野席の入場券売り場までたどり着くと、長い列に並んで切

符を買い求め場内に入った。

 コンクリートの壁と床でできた薄暗くじめじめした通路を大勢の人と歩いていき内野

席と書かれた表示のある階段を登ると明るい光が射し込んできて、この先が観客席かと

駆け上がったら、そこはこれまで見たこともない夢の国だった。

 何本もあるナイター設備にはもう灯が入っていて、これまでの薄暗さが嘘のようにグ

ランドはまぶしいくらいに光が満ちており、そのカクテル光線に照らされて外野の芝生

の緑がつやつやと輝いていた。

 

 坊太郎は階段状の観客席の上のほうのかろうじて空いていた席に腰を下ろしたが、坊

太郎が腰を下ろすや否や、放送で名前を呼ばれたスターティングメンバーがベンチから

それぞれの守備位置に駆け出し、最後に名前を呼ばれたベテランのエースがしずしずと

マウンドまで歩いていき、そんな風にして試合が始まった。

 これがあのラジオでいつも聴いていたエース投手なのかと思うと興奮のあまり吐きそ

うになった。

 弱小チームは2回の裏に幸先良く2点を取り、その裏の3回表に1点返されたものの、そ

の後は5回まで1点リードしたままだったから、周囲の観客はそりゃあもう上機嫌で、ベ

ンチ裏の席で旗を振り回したり太鼓や鐘を叩いて観客の手拍子や拍手を催促する集団に

快く応じてビールを飲んでいたが、7回に同点に追いつかれ、さらに8回に3点勝ち越さ

れると雲行きが怪しくなってきた。

 お行儀よく拍手をしたり、せいぜい立ち上がって歓声をあげるくらいだった客はほぼ

男性で、さっき汽車の窓から乗り込んできた乗客に似た雰囲気のちょっと崩れた中年の

親父さんやチンピラ風の若者が多かったが、彼等はいらいらして主審のボールの判定に

怒声を浴びせ、食べかけのうどんのプラスティックどんぶりをコンクリの階段に投げ付

け、おら審判なんぼもろとるんじゃなどとビールの紙製ジョッキの底を抜いたメガホン

でヤジを飛ばした。

 

 8回の裏が零点に終わると球場の雰囲気は最悪になり、わりゃお前等やる気あるんか

だの、そがあなつまらん根性ならやめてしまえだ、おどりゃ殺すどだの、それまでは

相手チームの選手や審判に向けられていたヤジが贔屓チームの選手に向けられ始めた。

 一部の観客は内野席とグランドを隔てているフェンスによじ登って目と鼻の先で自

軍選手を面罵しており、下手したらグランドに降りて行きそうな勢いで、坊太郎はそ

んなことしたら選手も黙っちゃいまいにとハラハラする思いだったが、止める人は皆

無でむしろ観客の気持ちを代弁しているかの如く同調支持している感じで騒然として

きた。

 ところが最終回の9回の裏、ワンアウトから代打で出てきた選手がライト前にヒット

を打つと、そのやけくそな雰囲気が一瞬にして好転した。ヒットで出塁したその選手

はいつぞや代打で出てきてプロ入り初ホームランを満塁逆転で飾ったあの選手だった

から、よしこれでいつもの奇跡が起こるぞ、ここからが本領発揮だ、という期待感が

客席に充満したのが坊太郎にもわかった。

 案の定次の代打もセンター前に打ち返しワンアウト1.2塁。ここで3日前のかつての

最強チーム相手の試合で決勝ホームランを打った遊撃手が登場し、それはそれは興奮

は最高潮に達した。

 ここで一発出れば同点になるのだ。さあ行け。打ち返せ。みな総立ちで口々に叫び

続けた。坊太郎も気がつけば一緒になって右拳を振り上げて怒鳴っていた。

 

 やっちゃれ。打て。打ってくれえ。

 

 すると願いが通じたのか、遊撃手が鋭く振り抜いたバットは快音を残し、バットを

離れたボールは鋭いライナーとなって左中間に転がりベースの間をクルクルと選手が

駆け回り2人のランナーが帰ってきた。

 

 5対4。そしてワンアウト2塁。

 

 もう勝ち越したかのような騒ぎで男達は沸き上がった。頭が薄くなったような中年

男性が若者のように雄叫びを挙げながら飛び上がり、それに続いた泥酔老人がバラン

スを崩して階段から転げ落ち、それを慌てて助け起こす男達がおり、隣同士で肩を組

んで左右に揺れながら聞き知らぬ歌を歌い出す男達がおり、応援団の男達はちぎれん

ばかりに旗を振り回し、鐘や太鼓を叩き続けた。

 相手の龍はたまらず投手交代。先発したエースをノックアウト。これだこうして今

晩も奇跡は起こるのだと坊太郎は思った。もう退学覚悟の学校の事も、抱きしめたヨ

ーコの身体の柔らかさも、口腔内に入ってきたぬめぬめとしたベロの感触も、三上の

いじらしさも、友里の突き放したようなしゃべり方も全部が全部、男達の歓声といっ

しょに漆黒の夜空に舞い上がって消えた。

 交代した投手は騒然とした雰囲気の中、必死の形相でボールを投げ、なんとか1人を

アウトにしたが、次の打者はかのオールスターで2打席連続でホームランを叩き込んだ

あの背番号⑧の外野手。

 どんなに必死になろうが交代投手の命もここまで、後はこの背番号⑧がとどめを刺

してくれる。それは太陽が東から昇るのと同じくらいに決まり切った事なのだ。見て

いる男達はみんながみんなそう思ったに違いないが、まさにその期待どおりかの背番

号⑧は交代投手の投げたボールを見事にセンター前に打ち返し2塁から左中間に2塁打

した遊撃手が3塁を回って帰ってきた。

 

 よし、これで同点だ

 

 と誰もがと思った瞬間の事だった。バックホームされたボールは遊撃手がホームに

帰ってくる3メートルも手前で捕手のミットに収まった。

 誰がどうみてもこの位置関係、このタイミングで捕手のタッチをすり抜けてホーム

ベースに触るのは不可能と思われ、後は駆け込んできた走者にボールを持った捕手が

軽くタッチすれば試合終了となるはずだったのに、何を思ったのかその捕手はアウト

確実なその遊撃手の顔面を捕球したミットで殴りつけにいき、殴りつけられた遊撃手

はカウンターパンチをもろに食らったボクサーのようにもんどり打って吹き飛ばされ

たのである。

 

 わりゃ、このくそ外道が

 

 客席で見ていた観客の全員が一斉にそう叫んだのを坊太郎は聞いた。吹き飛ばされ

た遊撃手が起きあがって捕手に食ってかかるのを視界の隅に見ながら坊太郎は階段を

駆け下りるや最後の階段を蹴り上げて金網に飛び移った。

 見ると右隣りにも左にも血相変えた男達が怒声を挙げながら金網を乗り越えようと

していた。坊太郎は一塁側グランドに飛び降りると一直線にあの忌々しい捕手めがめ

て突進した。それぞれのベンチから飛び出してきた選手。審判。そしてグランド整備

の係員やボールボーイ。金網を乗り越えてグランドに降りてきた無数の男達でホーム

ベース周辺はものすごい人の群れで混沌としていたが、後ろからきた観客に突き飛ば

され、つんのめりになりながらも坊太郎はその混沌の中に雄叫びを上げながら突っ込

んでいった。