02日 11月 2022
昔の話。 車が故障した。慌ててディーラーに連絡したら、引き取りに来てくれたが、修理に3日はかかるという。 しかも突然の事なので代車が出せないらしい。費用はかかりますがレンタカーなら、と言われ断った。 金出すくらいならこっちでなんとかするさ。...
09日 12月 2017
 昔、卒業ソングの定番といえば『仰げば尊し』でした。私も中学の卒業式で歌った覚えがありますが、「実を立て名を上げ やよ励めよ」が立身出世を奨励していて民主主義的でないと批判を浴び、しだいに歌われなくなりました。学校の卒業ソングとしては『仰げば尊し』から『旅立ちの日に』『送る言葉』なんてのに代わりましたが、学校の卒業式で歌われる事はまずないにしても、やはり画期的だったのは尾崎豊の『卒業』ではないでしょうか。  それまでの卒業ソングが、学校生活を懐かしく振り返り、教師や同級生に感謝する歌だったのに対して、尾崎は学校生活そのものを否定しています。「信じられぬ大人との争い」から抜け出し「この支配からの卒業」を歌いました。そこには学校教育は子ども達から自由を奪い、社会に順応適応するための調教をするもので、学校はまさに矯正施設なんだ、という主張があり、当時の校内暴力の風潮を背景に詰め込み教育、学歴社会への批判ともあいまって、若者たちから大きく支持されました。  その後もそういう学校教育自体を拒否する若者プロテストソングが続き、卒業ソングの定番になるのか?と思っておりましたが、尾崎以後、そういう路線でのヒット曲は出てきませんでした。  それだけでなく21世紀になってからは、学校生活を懐かしみ、教師や同級生に感謝する『仰げば尊し』路線に回帰している節があります。  アンジェラアキ、いきものがかり、サスケ、ゆず、AKB,森山尚太郎。どれをとっても金太郎飴のように、いろいろな事があったけど、今となっては良い思い出だよ、たくさんの感動をありがとう、と歌っている。ネットでググっても「泣ける感動の卒業ソングランキング」ってのが上位に出てくる。  でも、ひねくれた私は思うのだが、本当に最大公約数の生徒たちが、思い出にありがとうと思っているのだろうか?学校生活を振り返って懐かしく思っているのだろうか?  尾崎の時代は、教師対生徒という対立の軸がハッキリしていて、生徒間ではなんとか共感しあえていた感じがあったが、今はどうだ?もうすでに教師対生徒という対立軸は崩れていて、かつての学校内諸問題はなべて共感しあえていたはずの生徒間での問題にすり替わってきているのではないか。  いやがらせ、いじり、からかい、恐喝、たかり、孤立。いろんな問題が指摘されているが、そのいずれも対教師の問題ではない。共感できたはずの生徒間での事ばかりなのだ。もはや自分たちを支配しているのは大人じゃなく自分たちなのだ。「普通」と表現される空気感と言い換えてもいいかもしれない。普通でない者はボッチにされ孤立し、いじられ、いじめられ、最悪暴力や恐喝の対象となる。だから必死で空気を読み、あたりを嗅ぎまわり、不本意な同意と妥協を繰り返しヘトヘトになる。学校はもはや尾崎の言う矯正施設なんかではない。学校ヒエラルキーという目に見えない支配被支配関係の支配するジャングルみたいなところ。  昔ながらの感動卒業ソングが歌えるのはヒエラルキー上位の生徒だけ。大半の生徒は、それを冷ややかな醒めた目で、もしくは苦々しい薮にらみの目で見ている。  時代は第二の尾崎を待っている。尾崎とは別の意味で、学校を否定する卒業ソングを待っている。  学校のヒエラルキーの底辺で、必死に普通をめざし不本意な妥協と同意を繰り返した苦痛の日々に唾を吐きかけるような心の叫び。ジャングルを突き抜けて、見晴らしの良い平原を疾走するような痛快な歌を待っているのではないだろうか。と私は思う。
09日 12月 2017
 昨日 運がつく話を書いたので、ついでに書こうと思うのだが、最近どうも「おしり」が気になる。 とはいっても言語の話なので、おいおいマニアックな下ネタ?かよ=と読むのをやめないでいただきたい。言葉の話なのだ。 つまり「おしり(ケツ)」と言う言葉は人間の体のどの部分を指すのか、という問題だ。...
08日 12月 2017
 先日。母親を病院に連れて行く途中のことだった。...
05日 12月 2017
 小説を書くときに、プロット(いわゆる小説の設計図)をきちんと作れと言う人は多い。小説の指南本なんかを読んでも、そう書いてあるものが多い。登場人物のプロフィール、年代の設定、風俗流行の確認、ストーリー展開等々をきちんと決めて、突き詰めてから書き始めなさい、というものだ。たしかにそれも一手だろうと思う。とりわけ小説を書き始めた人は、そういう指針がないと先に進まなくなる傾向はある。  しかし、この方法にはライブ感がないのだ。私もこの方法を何度か試してみた。もうこれ以上はない、というところまでプロットを詰めて書き始めたが、途中で、ん?まてよ?と思いだした。決めていたストーリーに飽き足らなくなったのだ。あの時はそれがいいと思ったのに、書き始めるとどうもしっくりこない。じゃあってんで、修正して書き進めると、まるで初発の角度がほんの少しずれたロケットのように、着弾地点は大きくずれてしまう。書き始めのときには思いもよらなかった全く別の話になってしまった。  そうした経験が何度か続いて、プロットなんか作るだけ手間で、意味がない。と思うようになった。 とは言っても、大まかな設定は必要だ。昔の話なのか、今の話か。何人登場するのか?若者か老人か。ぐらいは決めてもいいだろうが、あとは書き進めながら、その時のイメージに従うしかない。それでいいのだと思うようになったのだ。  先日、ある読み物で、ミュージシャンがライブで忘我の境地を経験するという話を読んだ。その人は良いライブ演奏が出来たときに、興奮の余り射精してしまったというのだ。全身全霊をこめて集中し、ほかのミュージシャンの音に耳を傾け、自分の音を出していく作業は、音楽を止めてはならない宿命ゆえ、小説執筆とは全然異次元のものであろう。演奏の一瞬一瞬に五感のすべてを総動員して、次の音を探していく作業はスリリングゆえに、われを忘れる魅力があるのだと思う。  それは楽譜がちゃんとある画曲を、アンサンブルも調整し尽くして、もうこれ以上はないというところまで練習してからやる演奏にはないものだと言う。聴衆の前で演奏するわけだから、失敗すれば何度でも録りなおせるスタジオ録音と比べるれば、緊張感も違うし心地よいライブ感みたいなものも感じるが、それでもジャムセッションやアドリブとは異次元のものらしい。  またある画家の文章にはこうあった。自分は下書きをしない。何度もスケッチをし、構図を決め、よしこれでいい、と納得して下書きをする描きかたもあるが、それは塗り絵をしているようなもので実に退屈だ。だいいち、絵に命がない。だから、下書きは一切しないで、純白のキャンバスにいきなり筆を入れるのだ。それでこそ、絵に命が宿るのだ。と。  やはり、これもライブ感といえるのではないか、と私は思う。 小説は文章を一文字一文字書き綴っていくという作業の積み重ねゆえ、とにかく時間がかかる。時間がかかるだけに、書いている間にいろんなイメージが頭の中を去来する。はじめは色鮮やかだったイメージが、書いている途中で色あせてしまうこともある。そうじゃない。こっちの方がいいんじゃないか?と迷ったりもする。そして、いきなり思いもしないイメージが立ち上がってきたりする事もある。その行きつ戻りつの思考の過程こそライブ感であり、そこに小説の命みたいなものがあるような気がする。しかも、書いていて一番楽しい時間である。  そうして書きあがった文章を推敲する作業。これはこれ以上の苦痛はない。 というぐらいに辛い。^^;のですが、そんな事はありませんか??みなさん。
03日 12月 2017
ゴンチチのラジオ番組 「世界の快適音楽セレクション」  この番組、最初に聞いたのは今25歳の息子がまだ小学校に上がる前でしたから、もう20年も前のことでしょうか。車で九州なんかに旅行に行くときに聞いていました。高速道路はトンネルが多いので、いいところで雑音が入ったりして随分イライラしながら聴いた覚えがあります。...