「快晴 青空 ひとりきり」その②

 

 

5月23日(火)

 

 韓国代表とボルシアMGの試合を見に行った。独りで。県営陸上競技場。予備校終わって、近くの店で買ったパンを食べながら歩いて行った。西の空が夕焼けで綺麗だった。

 ホームスタンドの両サイドに空席があったから観客は数千ってところか。1万は入ってないみたいだった。

 おめあてはシモンセンだったけど、韓国代表の印象が強烈だった。とにかく好守の切り替えが早い。今、ゴール前でセンタリングをクリアしたかと思えば、次の瞬間にはもう相手ゴールに襲いかかってる。一瞬たりとも目が離せない。

 そんな中、韓国CFチャ・ブンクンの1点目はしびれた。ボルシアゴール前で後向きにもらったチャはボールを浮かして3人のディフェンスをかわすと、左足でゴール左上隅にボレーシュートを突き刺したのだ。俺も思わず立ち上がって両手を夜空に突き上げていた。

 試合は打ち合い。4対3でかろうじてボルシアが勝った。シモンセンのゴールも見れた。思ったよりずっと小柄なのに、とにかく速い。ドリブルもゴール前に出ていくスピードもものすごく速かった。

 ハーフタイムのスタンドにも、駅まで帰る道にも、津田加奈子はいなかった。

 

 

5月24日(水)

 

 昼休みに、トイレに1階まで降りたら、掲示板に週間テストの成績が張り出されていた。英語のところに俺の名前があった。一瞬心臓が止まりそうになった。14番だった。何度も何度も見返した。たしかに俺の名前だった。夢じゃねえのか?って思った。

 そしたら島根から来たという彼が、お前、英語できるんじゃのお、なんて声かけてきた。今回の点は57点。これで私立文化系の14番だという。特進コースには40人いるはず。俺のC2クラスと会わせると100人からいるのに、57点で14番っておかしくないか?成績ランキングに入れたのはもちろん嬉しいが、ちょっと複雑な気分。津田加奈子のいかした彼氏?の声が甦る。

  

  英数(学館)レベル低いわ。笑っちゃうよ。

 

 たしかに、そうだなって思った。浮かれてた気分が吹っ飛んだ。こんなんで浮かれてちゃどうしようもねえわって気を引き締めた。

 

 その後、教室で弁当食べたが、6階だけあって窓を開けると風が良く通って、すごく気持ち良かった。

 島根のやつがむすびを食いながら、お前、どこ受けるの?なんて聞いてきた。一応、立命が第1希望だけど、と言うと、おーさすが目標高いな、という、で?学部は?というので、文学部と答えると、へ?、文学部?そんなとこ入って就職できるの?なんて声が大きい。まわりの奴らが俺らを振り向いた。おまえ、声がでかいよ、って文句言ったら、文学部志望の男なんて初めて見たって声を潜めた。自分はどこでもいいから法学部を受けるつもりだ。法学部ならつぶしがきくって聞いたんでね、と。なんか癪だったので、文学部ったって日本史、歴史学だよ歴史学、英文とか日文じゃねえぞ、ってでかい声で説明しておいた。

 そのあと、屋上に通じる踊り場に上がったら先客がいた。舌打ちをして階段を降りたが、黒ずくめの服装に、サングラスかけたカーリーヘアの女子が文庫本を読みながらタバコを吸っているのが見えた。

 

 帰りに積善館で江上波夫の「騎馬民族国家」という新書を買った。日本史の授業の時、講師の先生が紹介していて、なんだか面白そうだなって思ったからだ。

 

 

5月31日(水)

 

 俺は19歳になった。19回目の誕生日は寒かった。最近、春を通り過ぎていきなり夏か?と思うくらい蒸し暑かったのに。

 真夏の川に潜ったら、急に冷たい水の流れに出くわすことがあるが、そんな感じ。

 岩国駅から自宅まで歩いてた時、西の山を見たら夕焼けに染まっていた。俺の頭の上には鱗雲。俺がぼうっとしてる間に秋になっちゃったかな?って思った。

 そんなこんなで19歳になった。ぼうっとしてる間に19歳。

 そして明日からはもう6月だ。

 

 馬鹿であること、独りであること、それがオイラのジュウクノゲンテン

 

                                    こっちのほうが語呂が良いなと思った。

 

                                      

6月1日(木)

 

 今日の英作文の時間、ちょっとした事件があった。お爺ちゃん講師が突然、怒ったのだ。

 

 おい、わりゃ何なら、教室でサングラスすなや。

 

 後を振り向いたらカーリーヘアの女子だった。サングラスをかけてる。この前の踊り場の子じゃねえかと思った。講師はサングラスをはずせと言う。授業中ははずすのが礼儀だと。勢いに押されてはずすかと思ったら、その子は座ったままハッキリ言った。

 

 目が悪いんです。

 目が?何の病気や?。

 無言

 何の病気か聞きよろうが。

 それ、答えなきゃいけませんか?

 嘘じゃないんなら答えられるじゃろ。

 無神経ですよ。ガンの人に、おまえガンなんか?なんて聞きますか?。

 ほいじゃが、おまえはガンじゃなかろう。

 それと同じだと言ってるんです。一番後ろで静かにしてるんだからいいじゃな

 いですか。さっさと授業初めてください。

 

 講師のお爺ちゃん先生は、生意気な奴じゃのお、とか、ワシには理解できん、とか口の中でモゴモゴ言っていたが、渋々授業を始めた。すげえなって思った。あの子の完勝だ。高圧的な態度に屈する事なく、冷静に跳ね返した。

 俺は父親の病気の事を考えてた。世の中には人に言えない病気だってあるのだ。人に聞かれたくない病気だってある。もし自分がそうなら。もし自分の身内にそういう人がいたら?ってほんのちょっと考えればわかることなのに。元気な人ほどそういう想像力がない。 もし、爺ちゃん講師があれ以上言ったら、俺も何か言う積もりだった。俺も言わなきゃって思ったらドキドキした。結局は何も言わずに済んだけど、授業が終わるまでドキドキがおさまらなかった。

 

 今日は島根が休んでいた。珍しい。だから一日中、誰とも話さなかった。

 

 

6月3日(土)

 

 島根に、ちょっとお願いがあるからと踊り場に連れ出された。昨日は実家の母親が出てきて、それで休んだらしい。日曜日までいると言っていた。

 島根は唐突に、好きな子がいる、という。あっそう、って言ったら、ちょっとそれ冷たすぎじゃないか?って詰られた。その子の事を考えてたら胸が締め付けられて、夜も寝られない、もう勉強にならない。これはなんとかして彼女と友達になるしかない。島根は切々と訴える。俺を詰ったかと思うと、田舎者同士、助けあおうよ、なんて泣きついたりもする。助け合うって?っと聞いたら、その子とデートしたいんだよ、デート、なんとか話つけてくれない?なんて都合の良い事を言う。

 そんなの自分で誘えばいいじゃん、って言ったら、それが出来たら頼まねえよ、って怒る。自分は田舎者でそういう経験がない。岩国も田舎だが、島根からみたら都会だ。都会同士の方が話が合うはず。なんて丸め込まれた。

 親元離れてひとりぼっちで浪人生活。京都で予備校に通ってる河合の事を思い出した。図々しい野郎だなとは思うが、独りの部屋で切ない気持ちでいるのかと思うと可愛そうになった。

 で?どこの誰なんだ、その相手ってのは、と聞くと。同じクラスの可愛い子だと言う。そんな子いたか?って思ったが、いつも1番後の席に座ってる、と聞いてまさかって思った。すごく愛想が良くって朗らかな子って言うから、じゃ別人だって思ったのに、小柄でユニークな髪型、最近は黒い服が多いかな?なんて言うので、それってあいつじゃねえかって思った。

 

 午後、旺文社の編集長なる人物の講演会があった。希望者は大教室に来いというので、行ってみた。共通一次元年で私立を含め、入試状況は混沌としている。とにかくしっかり傾向を把握して対策を立てておくこと。それしかない。実力のある者は全部通るが、ない者は全部落ちる。オールオアナッシングだ、と繰り返していた。たしかに、俺の場合はナッシングだったな、と思った。 

 

 

6月4日(日)

 

 誕生日にもらったお金でLPを買った。井上揚水の「招待状のないショー」FMのエアチェックしたテープを聴いていたが、LPが欲しくなった。

 虚無的な詩がいい。音もアレンジも良い。透明感がある。恋を歌っても叙情に走らない潔さが気持ちいい。ゆるやかな川の流れのような曲に身をゆだねていれば気持ちが落ち着く。今日は一日中、くり返しくり返しこのLPを聴いた。

 開けた窓から見える空には、早、入道雲が見えた。梅雨もまだだと言うのに、一日中蒸し暑かった。

 

 

6月5日(月)

 

 今、踊り場の方に上がっていったから、ほら早く、と島根が急かすので、しぶしぶ階段を上がった。昼休みの事だ。予想通り例のサングラスだった。階段に座ってくわえ煙草で文庫本を読んでいる。俺が上がっていっても見向きもしないので、ちょっといいかな?と声をかけた。

 

  おまえってすげえな。たいしたもんだよ。例のサングラス事件の。お前の言

  うとおりだよ。あの爺さん無神経すぎだよ。俺も何か言わなきゃって思った

  んだけど、黙っててごめんな。

 

 あいさつ代わりに、そう言ってみた。できるだけ笑顔で、できるだけフレンドリーに言ったつもりだったのに、何の反応もない。

 

  おい、ここって禁煙だから、みつかったらまたグズグズ言われるぜ。

 

 親切の積もりでそう言ったのに、うるさい、って言われた。小声だったけど、はっきり聞き取れた。初対面の人間に、うるさい、は無いだろって思った。別に絡みにきた訳じゃなかったけど、ついムッとしてしまった。

  

  なんだよ、感じ悪いなあ。

 

 その子はサングラスを取った。ハッとした。童顔。中学生みたいな可愛らしい目に意表をつかれた。アート・ガーファンクルよりすごいチリチリパーマをかき上げた。

 

 おいおい、サングラスはずしても大丈夫なのか?って心配してやったのに、馬鹿じゃないの?あんなの嘘よ、適当に言っただけよ、って鼻で笑われた。サングラスはまくし立てる。

 

  ねえ、あんた教室でタバコすえる?そんな勇気ある?あんただって、家じゃ

  タバコ吸ってんでしょ?大学じゃ喫煙オッケーってゼミもあんのよ。タバコ

  吸いながら議論してるの。でも、浪人生が予備校でタバコ吸えば怒られる。

  なんで?同じ歳なんだよ。大学でいいんなら予備校でもいいじゃない。そう

  思うけど怖くてできない。不良だと思われたくない。良い子でいたいのよね。

  わかる。そういう顔してるもん。あたしは、そういうのやめたのよ。馬鹿馬

  鹿しい。いい?あたしにとってタバコとサングラスは自由のしるしなの。あ

  たしはあたしに反逆してるんだから、邪魔しないで。

 

 意味がわからなかった。なんで自由や闘いが出てくるんだよって戸惑ってたら、どっかに行ってよ、って舌打ちされた。

 教室に戻ると、心配そうな顔した島根がかけ寄ってきたから、駄目だ、あいつはやめとけ、って言い放った。

 

  なんで?断られたのか?なんて言われたんだ?

  何も言ってない

  何も言ってないのに、やめとけって何だよ。

  だってサングラスだぞ、しかも大嘘つき

  何だよサングラスって

  ああ、そっか、お前金曜休んでたのか、まあいい、とにかくやめとけ。悪い

  事は言わん。あいつは駄目だ。お前の手に負えない。

  訳がわからねえよ。

 

 島根は半べそかいていた。

 

 

6月6日(火)

 

 予備校から帰ると、家に京都の河合からハガキが来てた。

 ワクアナに手紙を出したらしい。ワクアナとは3年で同じクラスだった湧永さんのこと。放送係だったから湧永アナウンサーを縮めてそう呼ばれてた。確か本業は合唱部だったはずだから河合と一緒だ。3年間、合唱部で過ごしてた仲。今は是枝さんと同じ、高等看護学校の寮にいるらしい。

 

 ワクアナへの手紙で告白したら、返事が来た。

 

  「お手紙拝見しました。河合くんの気持ち、とても嬉しいです。私はいつま

  でも話し合える友達でいたいと思っています。私なりに一生懸命考えて返事

  を書きました。勉強がんばってください。」

 

 寮の住所の後に電話番号が添えてあった。電話番号をわざわざ書き添えるって事は、寂しい時には電話してねって意味に違いない。自分としては、かなり手応えありだと思うのだが?坊太郎はどう思う?おまえの言うとおりにするからアドバイス呉れ、とあった。

 

 また友達かよって思った。

 そういう場面で女子が「友達」を口にする時は、(恋人として)つきあう積もりないって意味だ。だから、全然、脈ねえじゃん、って思ったが、この前の列車のケースもある。つきあってんだろ?って問いつめられて、ただの友達だよって誤魔化すのはつきあってる証拠だ。俺の場合、どっちの「友達」にも該当しなかった訳だから、もう最悪なのだが、河合の場合、相当甘く見積もっても手応えありとは思えず、きっぱり諦めて勉強に専念しろ、と言いたかったが、親元を離れて京都で独り暮らしする河合に、そんな冷たい事など言えるわけもない。かといって恋愛経験ゼロの俺が適切なアドバイスなど不可能な訳で、仕方なく、野村の電車でのナンパ体験を面白おかしく書いて送った。

 

 そういえば、夢で江波に行った。島根を連れて。小町から歩いて行くんだ。結構距離があるはずなのに、すぐに着く。この先、気象台の麓、海宝寺の裏に小2まで住んでたんだ、って案内する。でも通りを曲がって行くと、あの家は壊されててでかいマンションになってて、寂しい気分になる。

 あの家、ほんとにもう無くなってるのかもな、って思った。

 

 今日は2回目の校内模擬試験。英語と国語。両方6割くらいできた。まずまずだ。明日は日本史。

 模擬試験とあって、さすがに島根も何も言ってこなかった。

 

 

6月7日(水)

 

 校内模擬試験2日目。日本史だけ。江戸時代を中心に勉強していったら、幕末明治がかなり出題されてて焦った。あまり出来はよくない。

 1階に1回目の校内模擬試験の成績ベスト20が張り出してあった。私立文系の1位は500点満点中、300点。俺は221点。当然、俺の名前はない。トップとはそうとう差がある。期待していただけにちょっと凹んだ。

 

 家に帰ったら珍しく野村が来た。駅前の本屋に寄ったら津田加奈子が居たと言っていた。野村に津田の事は話してない。ただ高校の同級生を見かけたという話だったのか、それとも何か気付いたのか?とかあれこれ思った。

 それより、例の芸大志望のピアニストとはどうなったのか聴きたかったけど、聞けなかった。それを聞いたら、津田加奈子との遭遇を話しそうだったし。話せば泣きそうだなって思ったし。

 

 

6月8日(木)

 

 なんだか河合と島根がだぶる。そこそこ男前なのに、がんばってお洒落しても、なんとなく野暮ったく見えるところも似てる。図々しくて馴れ馴れしくて、俺のこと田舎者だなんて失礼な奴だけど、河合もこんなふうに寂しくて悩んでるんだろうなって思うと放っておけなくなった。それに、タバコと眼鏡が自由のしるし、ってサングラスが口にしたセリフが妙に引っかかる。

 島根にそれを言うと、本当か?あれから悶々としてもう発狂寸前だったんだ、なんて言うから、よし俺に任せとけって胸を叩いた。

 昼休み、踊り場に行くと、前と同じ場所に同じ黒ずくめの格好でタバコを吸っていた。俺が近づくと、本に目を落としたまま、来るなって言ったよね、って舌打ちするのでムッとしたが、島根の為だ、河合の為だ、と自分に言い聞かせた。

 

 いや、実は頼みがあるんだ

 無視

 実はデートして欲しいんだ

    無視

 ああ、俺じゃなくて佐々木って、いつも俺の前に座ってるやつなんだけど、島

 根から独りで来てさ下宿してがんばってるんだよ

 ん?(顔を上げる)

 デートっていうと大袈裟だけど、おお、そうそう、あいつ広島は初めてなんで、

 どっか 連れてってやれば喜ぶと思うんだけどな。今度の日曜あたりどうか

 な?

 無視

 おい、聞いてんのかよ?

 無視

 なんとか言えよ

 

 ねえ、あんたさ、立命の日本史希望なの?

 え?なんでそれ、どうして知ってんのさ

 いいから答えなよ、そうなの?

 まあ、そうだけど?

 へー

 へーって何だよ、感じ悪いなあ

 あんたの成績じゃ無理だよ。あんた、このクズ予備校でさえ上位二十位に入っ

 てないじゃん。そんなんで立命の日本史って、立命館史学を馬鹿にしてんじゃ

 ないの?

 

 一度ならず二度までも。この野郎って思った。失礼にも程がある。もう絶対こんな馬鹿とは口きかねえ。ぷんぷん怒って教室に戻ったら、島根が駆け寄ってきた。

 

 で?どうだった?オッケーか?

 やめとけ、悪い事は言わん、あいつだけはやめとけ、あんな性悪女と付き合っ

 たら一生 不幸になるぞ

    またかよ、俺に任せとけって言ったじゃん。

 

 島根はべそかいていた。

 

 

6月9日(金)

 

 島根がしつこい。今日もなんだかんだ言ってくるので、理由を教えてやった。サングラスかけてタバコ吸ってる。注意したら、うるせえ、とこうだぞ。予備校でタバコ吸うような女、ろくなもんじゃねえ、って言ったら、でもうちの婆ちゃんもお袋さんもタバコ吸うぜって。タバコ吸っても良いから、1回で良いんだ、デート駄目かな、って食い下がるので根負けした。これが最後だぞって言い含めて階段のところに行くと居なかった。

 なんだ、俺が来るのを察知して逃げやがったな、って思ったが、ふと見ると階段の隅に文庫本が置いてある。あいつが読んでた本だと思った。表紙のカバーがすり切れてボロボロだ。中身をみたら「二十歳の原点」だった。

 あっ、て思った。「タバコも眼鏡も自由のしるし」「わたしはわたしに反逆してる」ってセリフが甦る。そっか、あいつが口走ったセリフって高野さんの言葉だったんだ。

 いきなり文庫本を横取りされた。みたらサングラスが鼻をふくらませている。人の本、勝手に見てんじゃねえよ、って階段を降りようとするから、俺もその本読んだぜ、ってあいつの背中に言ってやった。そ、そりゃ立命目指してるなら読むでしょ、ってあいつは階段で立ち止まった。この前、おまえが言ってたのって高野悦子の言葉だろ?

 

 俺も好きなんだ高野悦子、高野悦子さんは俺の憧れなんだ

 

 しばらく階段でじっとしていたが、あいつは何も言わずに降りていった。 

 

 

6月10日(土)

 

 昨日は週間テスト。週の始めに校内模擬試験。そして昨日週間テスト。テスト三昧の一週間だった。

 前は加奈子と電車で会わないかな?って、そればっかり考えてたけど、このごろ、電車に乗るのが怖い。もし、また鉢合わせになったらどうしようって思うとゾットする。あんな憎まれ口叩いて、怒ってるだろうし。そもそも無視だろうしな。

 電車に乗るだけで、あれこれ考えてグッタリ疲れる。

 

 6月1日からアルゼンチンでワールドカップが始まってる。4年前のミュンヘン大会は決勝戦だけの中継だったが、今回はNHKがかなりの試合を放送している。今日はアルゼンチン対イタリアの試合を見た。予選リーグだからなのか、それとも俺の目が肥えたからなのか、あんまりワクワクしなかった。

 

 

6月11日(日)

 

 昼飯に焼きそばをたらふく食って昼寝してたら電話がかかってきた。是枝さんだった。寮で高校時代の話になって、たまたま俺の事が話題に出たから、ちょっとかけてみたって言ってた。予備校どお?って聞かれ、思わず津田加奈子の事を愚痴りそうになった。高等看護学校はまるで高校みたいに厳しいし、スケジュールいっぱいで遊ぶ暇ないんよ、なんて泣き言言ってたけど、そんな言葉とは裏腹に、随分楽しそうだった。

 途中、湧永と代わった。あの子とは高校時代は全くといって良いほど話した事がない。湧永も、その事を言いながら、湧永って言われても誰かわからんじゃろ?とか笑ってた。わからんどころか、河合に告白されて、友達でいましょ、なんてスカした返事出したって知ってますけど、って思った。湧永も、予備校って厳しい?とか聞くから、島根から来てるやつと友達になったよ、そいつさ、地元に好きな子がいたらしいんだけどさ、知らない町でひとりぼっちで寂しくって、その子の事ばっか思い出すって言ってたよ、ってカマかけてみた。湧永は、ふーんとか、へえーとか、知らんぷりするので、あ?そういや河合も京都の予備校行ったっていうから、河合と一緒だわ、あれ?そっか湧永さんって河合と同じ、合唱部だったよね?あいつ何か言ってきた?楽しくやってんのかな?どうなんだろって言ったら、ゴメン、是ちゃんが代わってって、じゃね頑張ってね、って電話を代わられてしまった。

 

 

6月12日(月)

 

 7月下旬から夏期講習が始まる。それは知っていた。でも、金がいるなんて知らなかった。夏期講習は別枠だから、予備校生も追加の授業料を払って受講するのだそうだ。ふざけんなって思った。1年分の授業料を払ってるのに。弱みにつけこんで追加料金とは許せん。

 ということで夏期講習は行かない事にした。暑いなか広島まで通うのも苦痛だ。岩国の図書館で自習したほうがよっぽどマシってやつだ。

 

 

6月17日(土)

 

 昼、授業が終わって帰ろうとしたら俺のところにサングラスが来た。なんだ、まだ文句があんのかよって言ったら、俺を無視して島根に言った。

 

 あんたが佐々木って子?明日、暇だからつきあってやるよ。

 

 島根は飛び上がった。無言で俺とサングラスの顔を交互に見たまま固まっている。ほ、ほ、ほんとに?と蚊の泣くような声を絞り出したら、黙ったまま見ていたサングラスは、じゃ、明日午後3時に原爆資料館の前、と言い残してどこかに消えた。

 

 あの感じ悪い女、デートオッケーする時まで感じ悪いなって思った。おまえさ、あんな女と遊んだってろくな事ないぜって島根の野郎に言ってやったが、島根はまだ事態が飲み込めてないのか、窓の外をみつめたままぼーっとしていた。

 

 

6月19日(月)

 

 朝、別館の1階でこの前の週間テストの結果を見る。英語に俺の名前があった。60点。前回の14位から少し上がって11位。よしっと思ったが、国語の1番を見ておや?っと思った。林香澄さんって女の子の名前。C2クラスとなっている。同じクラスにこんなにできる奴がいたんだって思った。

 

 教室に上がるともう島根が来ていて、自分の席で問題集を開いていた。俺を見るなり飛びついてきて、昨日の報告をするんだろうなって予想して、鬱陶しく思っていたのに、おはようって言ったきり、後の俺を見ようとしない。なんだ、元気ないじゃないか。昨日デートしたんだろ?まさかすっぽかされたのか?って聞いたら、いや、ちゃんと来てくれたんだが、と言ったきり黙り込む。なんだよ、はっきりしねえなあ、って言ったら、それが、と話し始めた。

 平和資料館を見学した後、お好み焼きを食べて、市民球場に行ったらしい。タイガースとのナイターをライトスタンドで観戦。島根はプロ野球観戦が初めてだったし、それはそれで楽しかった。ところが、会ってから別れるまでサングラスは一言も喋らない。とりわけ満員のライトスタンドでもサングラスをしたまま、無言でタバコを吸い続ける。隣りのおっちゃんが、おいねえちゃん、女のくせにヘビースモーカーじゃのお、ワシにも1本くれえや、って絡んできたらタバコ投げて渡した。わりゃこのアマが、とか怒鳴られても知らんぷり。なんとか島根が謝っておさまった。だから言わんこっちゃねえ、ああいう性悪な女と絡むとろくな事がねえんだよ、って島根を慰めた。島根は何も言わずに黙っていた。

 予想していたこととはいえ、さすがにそこまでとは思わなかった。その日、サングラスは予備校を休んだ。

 

 

6月20日(火)

 

 それでもやっぱ好きなんだよなあ、って島根が言うから、なんでそこまで好きなんだ?あの感じの悪い女のどこがいいんだよって聞いた。

 ほんとはあんな子じゃないんだよ。何か理由があるんだと思う、なんて島根は言いだした。3月、島根から1人で予備校の入学手続きに来た。予備校の場所がわからずにマゴマゴしてたら、1人の小柄な女の子に道を聞かれた。まっすぐなロングヘアが綺麗な子だった。長いスカートに暖かそうな毛糸のカーディガン、赤茶色のブーツを履いてた。英数学館ってどこかご存じですか?、いや、自分も今、探してるんですよ、と答えた。実は浪人になっちゃってと言ったら、じゃ私と一緒ですねって。ニコニコしてすごく感じが良かった。童顔でうぶな感じが中学生みたいだった。結局、二人であちこち探しまわってやっと英数学館にたどりついた。手続きも一緒にして、じゃ、また予備校で会いましょうって別れた。

 それがあの子なんだよ、と島根は言う。髪型も服装もまるっきり違うけど、自分にはわかる。そんな訳ないだろ、だってお前の事、気付いてないじゃない。そんな感じの良い子がデートの間中無言って、なんだよそれ、おかしいだろが、っていくら言っても、納得しない。きっと何か理由があるはずだ、と譲らない。デートの時、聞かなかったのか?春休みに会いましたよねとかさあ、って聞いたら、会って最初にそれ聞いてみたんだが、首を振っただけで無言。あの時の人ですよね?ほら、一緒に入学手続きをやった、あの時の俺ですよって二回くらい聞いたのに無視。ほら、やっぱり人違いじゃん、って言ったら、でも、って言ったきり島根は黙り込んでしまった。

 たしかにサングラスかけてると表情が読みとれないからか、冷たい感じがするけど、サングラスを取ったら中学生だった。サングラスを取った時の印象は、まさに島根が言うとおりなんだが。

 

 夕飯のあと、仮眠して勉強する積もりだったのに、気がついたら朝だった。12時間も寝てしまった。加奈子の夢を見た。夢でいいから加奈子に会えたらなあ、って夢の中で思ってたら、本当に夢に出てきて、夢が叶ったよ、って幸せな気分になってる夢だった。加奈子は中学の時の体操シャツを着てた。ストーリーはあるようでない。

 ジャズの曲みたいに、良い感じだったのに思い出せない。

 

 

6月21日(水)

 

 島根が休んだ。

 昼休みに一階の売店のところにいたら、サングラスが声かけてきた。

 

 あんた、高野悦子のどこが好きなの?憧れてるって、高野悦子のどこに憧れて

 んの?

 

 そう聞かれてすぐに答えられなかった。いきなりそんなこと聞かれても、って口ごもってたら、どうせ写真見て美人だとか思ったんでしょ?なんていう。そりゃ確かにそうだけど、それだけじゃないよ、ってムキになったら、ああそうって鼻で笑う。

 

  じゃ聞くけど、高野悦子はアナーキストとして死んだの?それともプチブル

  のお嬢さんとして?

  高野悦子がコックの兄ちゃんにあげた本はなに?その本読んでみたんでし

  ょ?どう思った?

 

 矢継ぎ早に質問されて黙ってたら、チッて舌打ちしてどこか行こうとするから、ちょっと待てよって腕を取った。

 

  そんなことより、おまえ、佐々木を誘っときながら、一言も喋らなかったっ

  て言うじゃないか。何考えてんだよ。申し訳ないと思わないのか?。

 

 質問に答えられなかったぶん、余計に腹が立った。3月に1回、会ってんだろ?佐々木と。感じの良い、素敵な子だったって佐々木は言ってたぞ、って詰ったら、あたしの質問に答えられたら、教えてやるわ、そのわけってやつをね、と言いのこして階段を上っていった。

 

 コックの兄ちゃんにあげた本って何のことだかわからないから、家に帰って「二十歳の原点」を読み返してみた。たしかに高野さんは中村って人とのお別れに本をプレゼントしてる。『アナーキズム思想史』って本だ。「これは私が信条としたいと思っているアナーキズムについて書いてある本です」という伝言文を添えて。

 「アナキズム思想史」を読んでどう思ったか?なんて聞かれてもねえ。だいたい、あんな本読まねえし。答えようがない。あいつは読んだってのか?。俺の高校にあんな事言うやつは一人もいなかった。話す事って言えば、受験か、部活か、音楽か、テレビ番組か。

 下らないな。 

 

 予備校から帰る電の中車、風呂に入ってる間、飯を食ってる最中、便所にしゃがんで糞してる途中、サングラスの言った事をずっと考え続けたけど答えは見つからなかった。

 

 

6月22日(木)

 

 昼から島根が来た。夏風邪ひいたって鼻をかんでたけど、ちょっと一緒に来いよ、って強引に踊り場に連れていった。サングラスは相変わらず無視して煙草吸いながら本を読んでた。聞いてるのか聞いてないのかわからなかったが、勝手に喋った。

 

  俺は高野悦子さんのアンバランスさが好きなんだよ。気丈な革命戦士かと思

  えば、寂しいって弱音を吐くし、バリケード封鎖された校舎に泊まり込むけ

  ど、熱い議論には加わらずに迷い込んできた子犬とばかり遊んでたりするし、

  それにウェイトレスとしてお客さんに笑顔ふりまいてたかと思うと、スーパ

  ーマンみたいに闘争スタイルに着替えて機動隊に突進して行くんだ。そうい

  うとこに惹かれるんだよ。

 

 どうだ、俺もちゃんと質問に答えたんだから、お前も「わけ」ってやつを聞かせろ。佐々木にちゃんと説明しろよ、って迫ったら、銜えてた吸い殻を俺の足下に投げて、全然答えになってねえよ、ってつぶやいたが、まあいい、教えてやるわ、って立ち上がった。

 

  自分で自分を支配し、他のどんなものにも縛られない。そんな人間でつくる

  社会が理想さ。自分で自分を支配するためには、自分以外のものに支配され

  てる自分に反逆しないといけない。そんな偽者の自分と闘って本当の自分を

  勝ち取る。それなしに自分で自分を支配することはできないのさ。アナーキ

  ズムってのはそういうもんだ。

 

 わかった?なんて言って階段を降りようとするから、待てよ、全然わかんねえよ、訳のわかんない事で煙りに巻いてんじゃねえよ、って文句言ったら、

 

  あの親切でやさしくて、笑顔の素敵な君は、本当の自分じゃなかったってこ

  と?サングラスして煙草吸って、ボクを完全に無視する君が本当の自分だっ

  てこと?

 

 ってそれまで黙ってた佐々木が言い出した。

 

  それでも良いよ、今の姿が本当の君だっていうんなら、それで良い。それで

  もボクは君が好きなんだ。

 

 えっ?って驚いたようにサングラスは立ち止まった。俺もビックリして島根の顔を見た。すごい真剣な顔だった。唇が震えてた。顔が真っ赤だった。両手をギュッと握りしめてた。サングラスは少し振り向いたようだった。何か言いたそうでもあった。でも何も言わずに階段を降りて行った。

 

 

6月23日(金)

 

 サングラスは休みだった。島根は突っ張ってどうってことねえよって顔してたけど、きっと昨日は落ち込んだんだろうなって思った。だから、元気だせやって声かけたりしてたんだ。そしたら、昼休みになってサングラスが現れた。あの野郎、島根の隣りに座って、鞄から弁当2個取り出すと島根に言ったんだ。

 

  一緒に食べよ

 

 驚いて島根を見たら、島根は当然って顔で、サンキュかなんか言ってる。俺は腰を抜かしたぜ。は?お前らどうなってんだ?って言ったら

 

  すまん、俺らつきあう事になったんだ

 

 だと。昨日、予備校から帰ってたら、サングラスが待ち伏せしてた。いきなりゴメンネって謝ってきたらしい。予備校始まった時から、春休みに会った人だってわかってたけど、春休みにいろいろあって。あたし、前みたいじゃなかったから、なかなか声かけずらくて、って訳を話してくれたんだと。

 ほかにも、昨日の佐々木くんの言葉に胸がキュンってなっちゃって、とかなんとか甘っちょろいことをほざいてたけど聞いちゃいなかった。どうでもええわ。好きにせえや、って思った。

 人の不幸にはあんなに優しくなれるのに、どうして他人の幸せってやつは、こうもむかっぱらが立つんだろうなって思った。

 

 

6月25日(日)

 

 アルゼンチンが優勝した。

 紙吹雪が舞い落ちるグランドをマリオ・ケンペスが疾走していた。

 夜中の生中継を見たけど、あんまり心は動かなかった。

 

 

6月30日(金)

 

 今日の週間テストは漢文、古文がめちゃくちゃだった。どうも毎回、漢文古文で苦戦する。なんとかしなくちゃなって思う。

 

 授業中もサングラスが俺の前の席に来るようになった。佐々木の隣りに座ってた野郎が最近休みがちになって空席だった。いつも島根と一緒にいる。どうせなら島根が後ろの席に行けば?って思うのだが、焼き餅焼いてると思われたくないから黙ってる。サングラスの野郎、相変わらず俺には無関心だが、ヒソヒソ喋ってるのを盗み聞きすると、島根には甘えた物言いだ。何が自分への反逆だよって舌打ちをする。

 

 さっきラジオの英数タイムで、夏期講習の受付に長蛇の列が出来たなんて自慢してた。頼まれたって行ってやんねえぞって思った夏期講習に、長蛇の列なんて狂気の沙汰だと思った。夏期講習受けたら大学行けますよって幻想を売り物にしてやがる。空に浮かぶ雲を綿菓子だと偽って売り飛ばすようなもんだ。予備校は丸儲け。受験生の弱みにつけこんで荒稼ぎしてんじゃねえよって思った。

 

 今日で6月も終わり。今、夜中の1時過ぎだから、実際はもう7月。焦る。

 

 

7月3日(月)

 

 2回目の校内模試で14番だった。1階に張り出してあった。これまでは英語だけだった。総合点でベスト20に入ったのは初めてだ。英語で名前が出た時は心臓が止まりそうになるくらいビックリしたけど、今回はそうでもなかった。合計点は272点。6割取れてないのに14番は甘いなあと思うけど、それはそれとして俺としては嬉しい。ああいう成績公表って成績悪いと打ちのめされるけど、成績良いと励みになる。

 

 

7月5日(水)

 

 今日、明日は第3回の校内模擬試験。英語はまずまずだったが、やっぱり国語が上手くいかない。今回の出題は現代国語が3問(小説、詩、論説)古文漢文が1問づつ。小説、詩は楽勝だったが、論説、古文漢文がさっぱり。とりわけ古文漢文は空欄がちらほら。国語が6割取れれば、総合点も6割超えると思うのだが。さて、どうしたものか。

 

 

7月6日(木)

 

 家に帰ったら河合から手紙が来ていた。この前、俺が出した手紙の返事だなって思った。封を開けたら、湧永アナと付き合う事になった、と文字が踊っていた。なんでも、突然湧永アナから電話があって、あたしの事、憶えてる?なんて言うので、忘れるわけないじゃないかって言ったら、文通と電話しかできないけど、それで良かったら遠距離でつきあっちゃう?って誘われたらしい。もうたんなる友達じゃないんだ。俺達は恋人になっちゃったよ、なんて恥ずかしげもなく書き散らしてある。

 夏休みに家族で京都に行く。自分だけ別行動するから京都案内してよって言われて、もう今から待ち遠しくて待ち遠しくて、って文字がディスコチックだった。

 

 校内模試。今日は日本史だけ。まずまずだと思う。もしかしたら7割くらいあるかも。

 今の俺はガリ勉くん。恋愛?下らないね。テストの点数だけが俺の幸せ。

 点取り虫?ええ、そうですけど何か? 

 

 

7月7日(金)

 

 夕方、帰りに広島駅のホームで電車を待ってたらサングラスに声かけられた。同じ下り電車なのに一緒になったの初めてだね、ってサングラスのくせに普通に言いやがった。めずらしく車内は空いていた。一緒に座ったボックス席で、サングラスは勝手に話しはじめた。

 

  日記には出てこないんだけどさ、高野悦子は死ぬ一週間前、お母さんに会っ

  てるんだよ。「二十歳の原点」を特集した雑誌で読んだんだよね。娘の事が

  心配でわざわざ栃木の実家から京都に来てたんだ。高野さんは里帰りした5

  月頃、実家の両親と大喧嘩して家を飛び出しちゃって、それもあって心配し

  たらしいんだけど、久しぶりに会った娘は、以前のままの優しい娘だった。

  あそこのお店が美味しいからって2人で食事に行って、その帰りに高野さん

  はお母さんにおねだりするの。お洒落なお店に飾ってあった薄茶色のワンピ

  ースとかかとの高い靴が欲しいのってね。高校生の時みたいに、ねえねえ、

  お母さん、あのお洋服買ってよって。お母さんは喜んでその服を買ってあ

  げた。

  どうして、お母さんにねだったんだと思う?

  それは大好きな人に会うためなのよ。自分は革命戦士、つまりアナーキスト

  になろうとしてた。アナーキストこそ本当の自分だと思ってた。なのに、大

  好きな人はアナーキストを目指す自分を避けるようになった。それならそれ

  で良いって思った。可愛いだけの女の子が好きなら、そういう子とつきあえ

  ば?って思ったけど、それでもやっぱり忘れられなくて、もし自分が昔の自

  分だったらって考えたのよ。親とか世の中の道徳や価値観や、そういうもの

  から見たら非の打ち所のないプチブルのお嬢さん。だけどそれは大嫌いな昔

  の自分。操り人形みたいな情けない自分だけど、もしあんな自分だったら、

  大好きな人は振り向いてくれるかも?って思ったのよ。だからアナーキスト

  のプライドをかなぐり捨ててさ、素敵なワンピース着て、かかとの高い靴履

  いて、大好きな人に会いに行くんだけどさ、結局、それでもその人に無視さ

  れてしまうの。死んじゃう数日前の事なんだよ。

  敗北よね。完全な敗北。自分に負けちゃった。

  高野さん、貨物列車に飛び込んだ時、お母さんに買ってもらったワンピース

  と靴を身につけてたってさ。

  高野さんがどんな気持ちだったか、

  わかる?

  どんな思いだったか。

 

 サングラスはそこまで話して、急に泣き出した。オイオイ声をあげて泣くもんで、まわりのお客がジロジロみてきて大変だった。 

 サングラスをなだめるのは大変だったけど、泣きじゃくるあいつをなだめながら、なんとなくわかった。なんであいつがサングラスになったのかって事。なんで綺麗なロングヘアがアート・ガーファンクル顔負けのカーリーヘアになったのかって事。なんで可愛いくてお洒落な子が黒づくめになったのかって事。それが言いたくて、俺に声かけてきたんだなって思った。高野悦子にかこつけて自分の事喋ったんだな、って。高野悦子が好きな俺なら、わかるって思ったのかもね。

 ちなみにあいつの名前は林香澄。家は廿日市だってさ。また廿日市か、いやな町。

 

 

7月10日(月)

 

 弁当食いながら、ふと思いだした。そっか、どっかで聞いた事ある名前だと思った。サングラスの野郎、国語の点が1番でC2で1人だけ名前が出てたあいつじゃん。癪だったけど、どうやったら漢文や古文ができるようになるのか聞いてみた。そんなん、逆にどうやったら英語ができるようになるかこっちが聞きたいわ、ってサングラス林が言い、そうだよそうだよって佐々木も同意するから、俺の英語勉強法を話した。単語と熟語を単語カードで憶え、ひたすら長文問題をやる。俺は通学の電車で毎日、カードをめくっている。あとはアクセントや特殊な発音を問う問題は絶対に間違わないこと。決まり切った単語しか出題されない。それ用の問題集をやればすぐできる。

 そんなとこかな?って話したら、なんだ漢文と一緒じゃん、って言われた。要するに漢文も漢字と句法を憶えておけば良い。出題される句法はだいたい決まってる。カードで憶えて、それ専用の問題集をやればすぐ満点が取れる。古文も一緒。国語は漢文古文の出来次第だから、って。

 俺は漢文も古文も苦手だから、ずっと後回しにしていた。いつかやらなくちゃ、と思いつつ、やらずに来た。

 

 帰りに積善館に寄って、漢文の問題集を買った。

 

 

7月11日(火)

 

 「弱い人間。女なんかに生まれ名ければ良かったと悔やむ。私が生物学的に女

 であることは確かなのだが、化粧もせず、身なりもかまわず、言葉使いもあら

 いということで一般の女のイメージからかけ離れているがゆえに、他者は私を

 女とは見ない。私自身女なのかしらと自分でいぶかしがる。また前のように髪

 を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、化粧に身をついやせば私

 は女になるかもしれない。しかし、何に対してそうするのか。中村さんも私が

 そのようにすれば少しは注目するだろうか。女は身綺麗にしていないと、社会

 から端的にその人格を否定される。あーあ、そんな社会はこっちからお断りす

 る。」

                          ※『二十歳の原点』p115 1969年6月7日

 

 

7月13日(木)

 

 以前、FMでアルディメオラってギタリストの曲を録音した。「黒い瞳のタンゴ」って曲。すごく気に入って録音したテープを何度も聞いてた。我慢できなくなって先週LPを買った。でもいざ聞いてみると「黒い瞳」以外はいまひとつなのだ。やれやれ買うんじゃなかった、と後悔した。それでも我慢して聞いてたら、「黒い瞳」より他の曲の方がだんだん良くなってきた。っていうか初めは良いなって思ってた「黒い瞳」はすぐに色褪せてしまった。つまんねえ曲だよなって失望した曲にだんだん惹かれていく。不思議だ。

 

 

7月14日(金)

 

 週間テスト。またもや古文漢文で撃沈。唐宋八家分読本が出た。まったくわからん。蘇軾は北宋の詩人。この本ができたのは清、だそうだ。やれやれ。

 

 

7月16日(日)

 

 全日本模試。疲れた。蒸し暑いのもあってほんと疲れた。帰りの電車では我を忘れて寝入ってしまい、あやうく乗り過ごすところだった。

 

 

7月17日(月)

 

 今日から4日間、古文単語のテストがある。7割できなければ追試だという。朝、電車の中、必死でカードをめくる。初日はぎりぎりっでクリア。

 

 午後から広中平祐氏の講演があった。数学のノーベル賞みたいなやつを初めて受賞した日本人だそうだ。天才らしい。そんなすごい人がクズ予備校に来て何の話をするのかなと思った。

 見えるものは見ずに、見えないものを見る力が大切だ、なんて切り出したかと思うと、山を登る話をし始めた。頂上を目指して歩き出したのに、だんだん高くなると頂上は見えずに森に紛れ込んでしまう。そのとき登るのを諦める人と、それでも頂上を目指す人に別れる、君たちはどっちかな?なんてニヤリと笑い、ああ、予備校や浪人って言葉は全然出てこなかったけど、この人はちゃんと浪人生に語りかけてるんだなって思った。

 

 

7月18日(火)

 

 夢に井町さんが出てきた。おお、坊太郎、調子はどうだ?がんばってるか?って聞くから、予備校の私立文化系で14番だったんすよ、と答えた。14?それは本当か?すごいなあ、坊太郎やったなあ、って大喜びしてくれるとばかり思ってたら、んーーあの予備校じゃそれくらい当たり前でぇ、立命館行きたいんなら、あそこで1番にならにゃ、と真剣な顔。

 なんだか、去年の7月を思い出した。お前が入れる大学は世界中探してもない、って言われたっけ。あれはきつかったなあ。

 戒めってやつかもな。井町さん、あんがとよ。

 

 

7月20日(木)

 

 週間テスト。英語、日本史はまずまずだが、まだ国語は成果が出ない。

 

 第3回の校内模試の答案を返してもらった。英語6割、国語4割8分、日本史5割8部 合計点274点。

私立文系で20位。この前より少し下がったが、ぎりぎりランクイン。

 

 帰りの広島駅でまたサングラス林に会った。このごろは予備校が終わるとさっさと2人でどこかに行っちゃう。お前らどこに行ってんの?って聞きたかったけど我慢した。ボックス席で英語の熟語カードを出してめくってたら、あ、あたしも最近カード作ってやってんのよ、なんてサングラスが言うので、じゃあこれは?、それじゃこれ?なんて問題出し合った。あの野郎、英語が苦手っていうくせに、結構憶えてやがる。

 お前も立命の日本史受けるのか?って聞いたら、悪いけど、あたしは日本史に行く事に決まってるんだ、今はあんたより成績悪いけど、見てて、もうすぐ追い抜いちゃうから、なんて生意気言う。調子に乗るなよって文句言ったら、じゃあ明治維新がブルジョア革命だって説、あんたはどう思う?なんて言い出す。何だよそれって言ったら、労農派と講座派の明治維新論争よ、知らないの?って言われ益々混乱した。サングラスによると、その明治維新論争に世界史的視点が必要だと提唱したのが立命館の教授だった奈良本辰也氏だそうだ。高野さんの日記にも出てきたでしょ?奈良本先生。たしかあんたの岩国高校の先輩のはずだよ。あんたねえ歴史学の常識だよ、まさか司馬遼太郎読んで歴史勉強した積もりになってんじゃないでしょうね、なんて言うので司馬遼太郎のどこが悪いんだよ、って思った。でも黙ってた。

 

 五日市の辺りで、この前の加奈子の彼氏?が声をかけてきた。通路を通りがかった彼氏が、お前まだそんな格好してんのか?って言うから、え?って答えたら、いや、あんたじゃなくって、ってサングラス林を見てるので、俺も林を見たら、踊り場の時みたいに完全無視で、窓の外ばかりを見ている。おい、無視すんなよ、ってちょっと怒った声を出しても無視で、へえ、カナちゃんの同級生が新しい彼氏かよって舌打ちをしてどこかに消えた。振り返って見たら加奈子も一緒だった。 

 今の人、知り合い?って聞いたら、高校の、同級生、って答えた。この前の加奈子みたいだなって思った。カナちゃんって誰?っていうから、高校の、同級生、って俺も答えた。この前の出来事を話そうかと思ったけど、林はそれっきり口をきこうとせず窓の外ばっかり見てるので、俺も何も言わなかった。

 廿日市で電車を降りるんだろうと思ってたのに、サングラスは動こうとしなかった。なんだ?お前、おりないのか?って聞いたら黙ってたけど、電車が動き出してから、宮島行こうよって言い出した。廿日市で降りたくないんだなあって思った。俺も宮島口で降りた。桟橋からフェリーに乗って島に渡り、鳥居のとこでずっと海を見てた。そこから引き返して駅で別れるまでサングラスは何も言わなかった。

 島根とのデートもこんなんだったんだろうなって思った。

 

 

7月25五日(火)

 

 さっき夢に加奈子が出てきた。またかよ、って思う。他の夢って見ないんだよな。

 

 電話がかかって来るんだ。お母ちゃんに電話よって起こされて電話に出たら、是枝さんなんだ、どしたん?って言ったら、ちょっと代わるね、って加奈子が出てくる。加奈子は唐突にしゃべり出す。高野悦子はブルジョアのお嬢さんとして死んだの?「アナーキズム思想史」ってどう思う?。え?サングラス林か?って思ったら、電話の向こうで、是枝さんが、おお、渋いねえ、よし切っちゃえ切っちゃえって言って、電話が切れる。

 

 勉強しすぎかも。

 

 

7月30日(日)

 

 昨日、8組のクラス会。5時から養老の滝。浪人のくせにのこのこ出かけた。みんなに会えるなって楽しみにしてたのに。河合は京都だから来るわけない。是枝さんも湧永さんも、吉松さんもいなかった。いつでも会える荒井や山脇と話してたが、彼らだって、いつでも会える俺よか、滅多に会えない他の奴らと喋りたいだろ。大学生がまぶしかった。やつら、俺の知らない新しい世界を見てる。俺の知らない新しい文化を身にまとい、溌剌としている。

 わいわい騒いでる彼らを見ながら考えた。

 

 もし、俺たちの学校で学園紛争が起こってたら?。

 

 学校で何か問題が起きる。それについて一部の生徒が学校を非難する。学校は無視を決め込む。抗議活動が激しくなる。実力行使に出る。ちゃんと答えるまで許さないぞ、ってことで校舎をバリケード封鎖する。学校は激怒する。生徒の中にもやりすぎだよって言う奴らが出てくる。学校がバリケード解除に乗り出す。それに協力する生徒も出てくる。俺らの学校を無茶苦茶にするなよ。お前ら学校の手先か。お互いがお互いを罵倒しあう。生徒は二つに別れて衝突する。学校の要請で機動隊が来るかもしれない。逮捕されるやつがでる。それでも殴り合う。怪我人がでるかもしれない。重体になるやつもいるかも。俺らは、もう二度と友達には戻れないだろう。

 その時、自分ならどうするだろうか?。お前はどっちの味方なんだ?って仲の良い友達に詰問されたら?。反対のグループにいる加奈子が「裏切り者」って罵倒してきたら?。

 

  でも、実際はそんな事は起こらない。戦争は受験の世界だけ。いたって平和。コカコーラのコマーシャルみたいに脳天気。明るい青春。なんか苛ついた。

 一人で飲んでたら悪酔いした。まだ会の途中だったけど一人で歩いて帰った。誰も呼び止めてくれなかった。東口への地下道を上がったあたりで気分が悪くなって暗闇で吐いた。

 

 

8月1日(月)

 

 8月は予備校に行かない。8月21日の第4回校内模試まで宅浪だ。わざわざ島根とサングラスのいちゃいちゃを見に広島まで行くほど暇じゃない。

 8月の昼間は暑いので夜中に勉強することにする。昼間寝て、夕方起きて、朝まで勉強するのだ。

 図書館なら冷房が効いてるけど、現役生がわんさかいるから行きたくない。

 

 

 昨日は2日酔いっていうのか、昼まで気分が悪かったけど、午後持ち直したので、今夏の学習計画を立てた。この4ヶ月でだいたい要領は掴めた。日本史と英語は順調に来てるから、これまでのやり方を続ける。問題は国語。漢文は句法カードを憶える。古文は単語。助動詞はほぼ憶えた。助詞もわかってきた。敬語は現役の時から得意だし、文法もだいたいはわかってる。とにかく語彙力だな。現国は評論文が苦手だから、宅浪の間に小林秀雄ぐらいは読み込もう。文学史も整理をしておかないと。

 

 

 クラス会の時、長谷田淳子に言われた。

 

  あんた予備校で彼女ができたらしいね。加奈子が言いよったよ。カーリーヘ

  アのサングラスかけたイカレタ子。帰りの電車で号泣しちょるのを抱きしめ

  て慰めたり、単語カードめくってイチャイチャしちょったって。あんた、予

  備校に何しに行きよるん?ちゃんと勉強せにゃあ。

  

  うるせえ、おまえ親にしゃべったらぶっ殺すぞ。

 

 思いっきり凄んどいた。

 

 

8月6日(日)

 

 広島原爆の日。朝、合掌をした。

 

 お昼ごろ矢部君が来た。今度、高知に転勤になるのだと話していた。週末にその話が出て、来週火曜日にはもう高知に行くのだそうだ。当分、会いに来れそうにないって言ってた。

 姉は呆然としていた。

 

 矢部くんが小遣いを呉れた。ありがたく受け取った。その金でスティーブ・マーカスの「TOMORROW NEVER KNOWS」を買った。

 ポップなようでアナーキーでもあり、アバンギャルドな演奏。そっか、これを彼女も聴いてたのか。

 

 

8月7日(月)

 

 𠮷本から電話。

 明日、サッカー部のOB会に行くぞと言われた。この前の下級生の合宿に来んかったじゃろうが、と怒られた。浪人は大変かもしれんが、それじゃ仁義が通らんで、と厳しい。みんな怒ってたんだろうなって思った。

 𠮷本の言う通りだ。これ以上の正論はない。

 でも今は行かない。ひたすら謝った。𠮷本は怒って電話を切った。

 

 

 

8月9日(水)

 

 さっき見た夢。リアルだったなあ。真剣に現実かと思った。

 クラス会やってるんだ。8組のクラス会なのになぜか加奈子がいる。坂本と楽しそうに喋ってるんだ。いきなりお開きになって、宴会場を出ると駅前の藤田書店なんだよな。え?なんで?って思うんだけど、俺は買ってもいない本のお金を払ってる。その間にみんなどんどんいなくなって。慌てて店を出ると、中通りの向こうに小さく後ろ姿だけが見える。

 ああ、俺だけ取り残されるこの感じ。リアルだよなあって、夢なのに思ってた。

 

 

8月13日(日)

 

 仲良しこよしはなんだかあやしい

 夕焼けこやけはそれよりさみしい

 一人でみるのが儚い夢なら

 二人でみるのは退屈テレビ

 星くず 夜空は 星くず ひとりきり

             井上陽水「青空ひとりきり」

 

 陽水はいいな。陽水は偉大だ。陽水を聞いてると、みんな嘘つきだって思えてくる。

 

 

 浅き夢 淡き恋 遠い道 青き空

 今日をかけめぐるも 立ち止まるも

 青き 青き空の下の出来事

 

 迷い道 白き雲 ひとり旅 永き冬

 春を思い出すも 忘れるも

 遠き 遠き道の途中での事

 

 浅き夢 淡き恋 遠き道 青き空

                          井上陽水「結詞」