気高く清く美しく その③ 

 

 汽車で一駅戻り、駅前から五連のアーチ橋行きのバスに乗り換えて下宿に戻ったらもう

夕飯前で、下宿のおばさんには珍しく遅かったねと言われたのだが、ちょうど夕飯を食べ

終わった頃、下宿の玄関先でなにやら派手なエンジン音が鳴り響いた。

 まさかマタノの奴が下宿まで??と青ざめていると階下からおばさんが、村田くん、大

磯くんと慌てた口調で呼ぶので、こりゃ間違いないわと思った。村田さんが早く来いみた

いな仕草をするので怖る怖るついて降りると、玄関先に例のヒッピースタイルのヨーコが

立っていて、なんだ君か、と坊太郎が言うと、その後ろから革ジャンのマタノがよぉと顔

を出して、思わず坊太郎はのけぞった。

 

 この馬鹿が迷惑かけたね

 

 ヨーコはぺこりと頭を下げ、こいつはこんな馬鹿なんだけど根は悪い子じゃないから悪

く思わないでなんて笑ってみせたが、坊太郎も村田も石のように固まったまま反応できな

いでいた。

 どうやらマタノのバイクに二人乗りで来たようで、それから考えればやっぱり恋人同士

のようだが、マタノを差して「この馬鹿」なんて言うヨーコの口調からすればマタノの言

う「俺の女」という関係でもないようで、一体どうなってんだと思ったのだが、迷惑かけ

たから謝りに来たんだけど、ちょっとそこまで良いかなと坊太郎を促し先に立って歩きだ

すから仕方なく坊太郎は後をついていった。一緒についてくるマタノを振り返ったヨーコ

は、ちょっと、あんたは来なくていいの、村田くんと昔話でもしてれば?、と軽くいなし、

マタノはマタノで悔しさ紛れか、ヨーコにおかしな事をしたらぶっ殺すからな、かなんか

坊太郎に呟いて村田さんの方に戻っていった。

 近くの寺の境内にある街灯の下までいくとヨーコは立ち止まって坊太郎を振り返った。

 

 ねえあんたさ、あたしの事、覚えてないの?

 

 含み笑いをするヨーコに、そりゃこの前の日曜日に会ったんだからさすがに忘れるわけ

はないけど、と坊太郎が真面目に答えると、馬鹿ね、そうじゃなくってと言ってから、

 

 私、道管陽子よ、覚えてないの?

 

 と自分の顔の真ん中を人差し指で指して自己紹介するから、坊太郎は、え?っと思った。

ドウカンって名前は世間じゃ珍しくて聞き慣れない名前だが坊太郎の村には多い名前でい

わゆる林業関係は大概、道管姓なのだ。坊太郎が自分の村の名前を挙げて、あの村の出身?

と聴くと、やっぱり忘れてるんだ、小学校三年まで一緒だったのになと口を尖らすから、

必死で記憶をたどってみるがそもそもクラスの半分は道管で、道管よと言われたってどの

道管だかわからないけど、たしかに三年だか二年だかの時に町に引っ越していった子がい

ることはいてそれは覚えているのだけど、それが陽子って子だったかどうかあやふやな上

に、確か小柄で大人しく無口な子だったような気がして、どうにもヨーコとはミスマッチ

なような気がするので、そのことを当たり障りのないように伝えると、そうそう、昔はさ

思った事の半分も言えないような気の小さな子だったのよ、なんて笑うからやっぱりあの

子かと思った。そう言われてみればどこか面影が残っているような気もしなくもない。

 

  あの村にさ、昔スバル座って映画館あったの知ってる?

     ああ、じいちゃんに聞いたことある、今は農協の倉庫になってる建物だよね。

 そうそう、あれってうちの親戚がやってたんだよね

 へえ、そうなんだ

 でもどうせなら町でやりたいからって戦後今のとこに移ったらしいんだよね

 ああ、だから同じスバル座なんだ

 そうそう、そのスバル座がものすごく流行っててさ人手が足りないからって、

 村に残ってたうちの爺ちゃんや父も映画館を手伝う事になって

 それで転校したと。え?まってよ、ってことは?

 そう、あそこってあたしの家なんだよね

 

 マタノが自分の彼女だと言い張るヨーコって子が実は坊太郎の幼なじみだったというの

にも驚いたが、その陽子の家があの映画館だって事にはもっとビックリした。そういう事

情ならあの時の白人青年なんかをあしらうような陽子の態度にも合点がいったが、ビック

リしたついでに、で?あのマタノさんとの関係は?と恐る恐る聞いてみると、ああ、あい

つはただの近所の幼なじみ、と鼻で笑うから、でもマタノさんは、わしの女じゃけえ手を

出すなって言ってたけど?と言うと、だから困ってんのよ、勝手にあんなこと言うしさ、

だってあいつとは一回も寝た事ないんだよ、なのに恋人って何よそれ、って腹を抱えて笑

うから坊太郎は「え?」っと思った。

 精一杯上品な言い方をしたものの「寝る」という表現がセックスの事を差しているのは

わかっていたし、「あいつとは一回も寝た事がない」というからには他の男とはもう何度

もそういう事を経験しているのだと思った。こっちに出てきてからというもの、そういう

あけすけな感じは久しぶりだったので坊太郎は懐かしく思った。

 

 クラスの女子達が人気者の男子がいるって騒いでて、よく聞いてみるとどこかで聞き覚

えのある名前じゃない、ひどく懐かしくなってさ会いに来たんだよと下宿に来た日の事を

喋ったり、酔っぱらっていい気分だったから、こいつ大磯製材所の息子だよと自分の両親

にも紹介する積もりだったのに、坊太郎は前後不覚でどうしようもなく、かろうじてバス

停まで行ったらそのままベンチで寝込んじゃっていくら起こしても起きないから面倒臭く

なってそのまま放置して帰ったんだよ、と陽子は笑い飛ばし、あの後ちゃんと帰れたの?

なんて言うので、まあ一応ねと答えておいた。

 自分のみならず坊太郎にも酒を飲ませておいて懐かしいだろうから両親に会わせたいな

んて、町の人間が聞いたら腰を抜かすぞと思ったけれども、陽子の語り口や喋っている時

の表情はあっけらかんとしていて悪い気はしなかった。こっちの人間である大谷達があい

つはやめとけと言う意味はなんとなくわかったけど、それを理由に陽子を避けるのはちょ

っと違っているよなと坊太郎は思った。 

 

 下宿に戻ると意外に村田さんとマタノは楽しくやっていて、二人で下宿前の道ばたでし

ゃがみこんで歓談しながら煙草を喫っていたが、陽子が、何やってんだよおまえら、よそ

んちの軒先で、なんて詰ると、しぶしぶ煙草の火を消し、陽子とマタノは大型バイクに跨

り爆音を残して帰っていった。

 

 部屋に戻ろうとするとおばちゃんが、今の人なんだったの??と心配そうに顔を出すか

ら、坊太郎がじつは、と当たり障りのない程度に端折りながら話していたら、友里から電

話がかかってきた。残りの説明は村田さんにまかせて坊太郎が電話に出ると友里は、ちょ

っと、あんた何やってんのよ、と尖った声を出すから、てっきりマタノ襲撃の一件だと思

って、あれは誤解で、と説明しようとしたら、友里は

 

 熊野千春が泣いてるじゃないの、

 

 と思いもよらない事を言いだした。

 どうやら坊太郎が陽子と一緒にスバル座に行った事は女子の間でも話題になっているよ

でその事を耳にした熊野千春とやらが、あれだけ力になるって言ってくれたのにひどい、

と友里に詰め寄ったらしく、私の面子まるつぶれじゃない、なんて文句を言うので、そも

そもその熊野千春とやらと付き合うともなんとも言ってないぞと言い返すと、口調ががら

りと変わって、とにかくさ一回だけでも会ってあげてよと懇願口調になるからむげに断れ

なくなり次の土曜の午後に会う事にした。

 電話の最後に、それはそうとお前、小学校の時にさ町に引っ越していった女子がいたの

覚えてるか?と坊太郎が聞いたら、ああ、道管陽子ちゃんでしょ?とちゃんと覚えていた

からさすがだなと思って、そうそうスバル座に一緒に行ったヨーコってのがその道管陽子

って子なんだぜ、知ってたか?と坊太郎が興奮気味に言うと、だって知ってるもなにも同

じクラスだし、といたって冷静に友里は返した。

 入学式の翌日、陽子の方から、藤原の大工さんとこの友里ちゃんでしょ?って声かけら

れたというからそれなら話は早いやと思って、陽子から映画に誘われただけなのにそれを

勘違いしたマタノって男に絡まれた事情をかいつまんで話したら、友里の事だから面白が

るかなと思っていたら全然そんなことはなくって、まああんたもわかると思うけど、あの

子こっちじゃあんまり評判が良くないんだよね、なんて言うのでひどく意外だった、とい

うか友里まで何だよと不満で仕方なかった。

 

 

 やれやれ、なんだかここ最近ろくな事がないなあとぼやいて部屋にあがるとまた階下か

らおばさんの声で、実家からお電話よとあったので慌てて電話に出た。入学後、坊太郎か

ら実家に電話したことはなかったが、実家から様子を伺うような電話もかかってきたこと

もなかったから、このタイミングで実家から電話があるということは、間違いなく例の騒

動の件に違いなく、100%情報元は友里だと思われた。

 どう釈明しようか思案しながら受話器をとると、じいちゃんの声で、

 

 坊太郎あっぱれじゃ

 

 と聞こえてきたので面食らった。わしらの町を我が物顔に闊歩する米兵どもに天誅を下

したらしいじゃないか、見直したぞ、と馬鹿笑いをかますので、ちょっと何のことだよじ

いちゃん、と坊太郎が言うと、隠しても無駄じゃ話は全部中学の校長から聞いとる、あの

校長、お前の学校の下河とか言う生徒指導主事と知り合いらしく、その教員から直接聞い

たから本当の事じゃ言うとったわい、まあいずれにしても名誉な事じゃ、お前の事を真の

愛国少年、本校生徒の鑑と言うておった、等と延々坊太郎を褒めちぎった挙げ句勝手に電

話を切った。事実誤認もここまでいくと名誉毀損で訴えたくなるが事実を知って卒倒、寿

命を縮めるよりはましかと我慢することにした。ただ、スバル座とか道管陽子のおじいち

ゃんの事とか聞いてみようと思っていたのに何も聞けずじまいで残念だった。

 

 

 下河といい「七歳にして男女席を同じうせず」が肝要と力説する地理教師といい、この

学校には江戸時代の生き残りかと言いたくなるような教師が多かったが、そうした化石の

ような教師ばかりかというとそうでもなかった。

 東南アジアでの戦争終結が歴史的必然だと説いた担任の世界史教師などはその典型で、

学問の自由と大学自治への弾圧に抗議した事件の中心人物で、しかも六法全書を日本で

初めて作ったと言われている本校出身の民法学者とか、マルクス主義経済学を初めて日

本に紹介し、しかも貧困というテーマに初めて取り組んだ地元生まれの経済学者とかを

崇拝しており、ことある毎にその先輩諸氏の偉業を讃えお前達も先輩諸氏に続けと発破

をかけていたし、倫理社会担当の教師は元大学闘争の活動家とのことで、今でこそ公立

高校教諭などして日和っているが、闘争の熱い炎はまだ胸の奥で燃えていて、反帝国主

義反スターリン主義が今でもモットーなのだなどと公然と喋っていたが、地理教師など

に言わせると世界史担当の言う先輩諸氏は郷土の面汚しであり、大学闘争の活動家など

はただの犯罪者、今だにその面汚しを崇拝したり犯罪を闘争とすり替える愚か者が本校

にも跋扈暗躍しておると散々だった。

 現代国語を担当していた年輩教師に至ってはもと帝国陸軍の将校とかで、今は地元短

大の現代文学の講座も担当しているとの事だったが、日中戦争、太平洋戦争は正しくは

「大東亜戦争」で、大東亜を欧米の侵略から解放し八紘を一宇となすための聖戦だった

のだ、とか、南京大虐殺といい三光作戦といいとんでもない捏造で皇軍がそんな恥知ら

ずな事をするわけがなく、露悪症とでも言うべき悪癖だなどと村の爺さん達が一杯飲み

ながら喋っていたと同じような事を大いばりでのたまっていた。

 生物担当の若い教師は君たちの純粋な志こそが世の中を変えるのだと瞳を輝かせなが

ら語っていたが、数学担当の中年教師は若者の純粋さは傲慢と暴走を招くだけでろくな

もんじゃない、人生とは妥協の積み重ねだぞ君たち、なんて身も蓋もない話を何度も繰

り返していた。

 村の中学の教師達はちゃんと話を聞けとか、手悪さをするなとかの小言しか言わず、

思想だの信条だのといった高尚な話は皆無だったというのに、この学校の教師達は真逆

で口を開けばそれで、しかもさまざまな教師達が好き勝手に人生や思想信条を語り、時

には敵対する思想やその思想の持ち主と思われる教諭を激しく非難したりもし、生徒は

それを面白がって聞いていたが、面白がっているその態度ほど影響を受けているように

は見えなかった。

 

 

 

 翌日、弁当のとき坊太郎が、もしかしてお前の学校に熊野千春って子がいたか?と大

谷に尋ねてみたら、なに?道管陽子の次は熊野千春に手をだしてんのか?と大声を出さ

れ、周囲の生徒達も色めき立った。

 いやいや、下宿の先輩の遠い親戚だって言ってたからそれだけだよと咄嗟に嘘で釈明

すると、ああそういう事かと納得してくれたが、大谷が、そりゃ熊野千春といえばなあ?

とニヤけながら周囲の生徒に問いかけるとその中の一人が、そうそう俺らの中学のアイ

ドルだったからな、花の中三トリオも真っ青だよなんて言うのでビックリした。え?そ

んなに美人なのか?というと、大谷は、モモエとジュンコを足して二で割ったような感

じかな、と訳の分からない言い方で誉めたが、でもな男に興味がないらしくこれまで軽

く両手くらいは討ち死にしてんだぞ、と孤高の美女であることを教えてくれた。孤高の

美女であるわりには坊太郎を盗撮してみたり、友里に泣きついてデートをせがんだり、

どうも友里から聞くイメージと違うなあとは思ったが、みんながそこまで絶賛するから

にはそれなりの実績てもんがある訳だし、そんな凄い子と会えるのはそれはそれで悪い

気分ではなかった。

 

 

 土曜日は午前中授業があって、午後からは部活だったが、午後からは例の本物の熊野

千春と会う約束をしていたので三上に用事で欠席することを告げて学校を出た。

 約束の場所は坊太郎の下宿をやりすごしさらに徒歩で10分ほど歩いたところにある5連

のアーチ橋で有名な観光地だった。城山側の橋の渡り口で待っているからとの事だったか

ら、そこに行ってみると小柄な熊野千春がたっていた。

 

 川縁にあるベンチに移動して川面に映る5連のアーチ橋を見ながら坊太郎は熊野千春と

話をしたのだが、噂通り色白の頬にほんのり赤みが差していて俯き加減に話すその様子は

可憐としか表現のしようがなく、友里が話していた盗撮の件や友里に泣きついて下宿先ま

で上がりこんだ件などはもしかしたら友里のでっち上げじゃないのかと思われるほどで、

坊太郎はすっかり舞い上がってしまい、こんな子が好意をもってくれたことをこの上なく

嬉しく思った。

 

 大磯くんってギターが上手いだけじゃなくって勉強もできるんですね

 え?いやいや、全然だめだよ

 嘘ばっかり、トップクラスなんでしょ?藤原さんに聞きました

 え?あいつそんな事しゃべったの?

 そう、全部ばれてるんですから

 いやあ、困ったなあ

 将来はやっぱり東大か京大に行って官僚ですか?でも大磯くんは格好いいから 官僚じゃ 

 勿体ないですよね、やっぱり映画スターかな?ギター弾けて歌えるスター、絶対売れます

 よ。

 

 

とこんな感じで褒めちぎる熊野も、いやいやそんなことはないですよと懸命に照れる坊太

郎も満面の笑顔で初対面にしてはいい雰囲気だったのだが、話が道管陽子の事になり、だん

だん怪しい雰囲気になっていった。

 

 

 君の方こそ中学時代はアイドルだったんでしょ?。

 そんな事ないです。

 でも、クラスの男子がみんな言ってたよ、すごくもてたけど軽く一〇人は振ら れてるっ

 て、孤高の美女だってさ。

 だって、ときめく人がいなかったんです、大磯くんみたいな。

 そうかなあ大谷くんなんか男っぽくって良いと思うけどな。

 ダメですよ、他も野暮ったい男子ばっかり。

 そうかなあ、そんなに男子は冴えないかなあ。

 まあ、男子だけじゃないですけどね。

 え?っていうと?。

 あの、はっきり言いますけど、大磯くんにあの子はふさわしくないと思います。

 え?あの子って?。

 道管陽子ですよ。

 え?どうして?。

 どうしてって、大磯くんあの子がどんな子か知らないから。

 でもあの子、もともとは僕の村の子で、小学校までは一緒だったんだよ。まあ 親戚みたい

 なものかな。

 昔はそうかもしれませんが、今は違いますよ。

 というと?。

 あの子、外人フリークって言うんですか?外人の男が好みなんですよ。

 ああ、あのマタノって人?あの人は黒人っぽいけどハーフの日本人だよ。

 あの人だけじゃありません。外人だったら誰だって良いらしいし、それに。

 それに?。

 中学校の時、妊娠して中絶したって聞きました。 

 本当?あの子から聞いたの?

 それは、まあ、噂ですけど。

 なんだ、直接聞いたんじゃないのに信じるの?

 直接聞くとかありえません。私あの人嫌いだから話したこともないんで。

 僕は嫌いじゃないけどな。

 大磯くんはわかってないんです。

 でも何回か話をしてみたけど、そんな悪い子じゃないと思うけどな。

 大磯くんあの子が好きなんですか?

 いやいや、好きとか嫌いとかじゃなくって。

 へえ、見損ないました。やっぱり男の子ってそういう子の方がいいんですね。

 そういう子?

 そう、そういう子ですよ。

     君、何が言いたいんだ。

 すぐにやらせてくれる子がいいんでしょ?

 何言ってるんだい、僕はまだあの子とはそういう関係じゃないよ。

 そ、そんな事わかってますけど。

 だいたい、セックスするってそんなに悪い事かな?

 だ、だって高校生ですよ、まだ。

 高校生はセックスしちゃいけないの?

 そりゃそうですよ、それもたくさんの人と、おかしいですよ。

 そうかなあ。

 そうですよ、あの子、外人狂いの淫乱ですよ。

 ちょっとまてよ、それは言い過ぎじゃないのか?

 

 

 陽子が複数の男と関係を持っているらしい事は陽子の口振りでもわかっていた事だけ

ど、熊野千春が嫉妬まじりとはいえ陽子の事をここまで悪し様に言うのは許せず、自分

の断りなしに盗撮したり、自分で言わずに友里にデートをとりもつように泣きついたり

お前のほうこそおかしいんじゃないのか?とこれだけは言うまいと思っていた事を勢い

で言い放ったらもう止まらなくなり、もうこれっきりでお前とは会わないからな、友里

にも泣きつくなよ、なんてせりふまで口から飛び出してしまい、唖然とする熊野を残し

て坊太郎は駆け出すようにしてベンチを後にした。 

 

 翌、日曜日、友里から苦情の電話がかかってくるんだろうなと思うと一日憂鬱だった

が結局電話はかからず、それは翌週、学校が始まっても同じだったが、その代わり火曜

日の夕方下宿に帰ったらこの前と同じように路地から陽子が出てきた。陽子と連れだっ

て歩いていった先のお寺の境内で、

 

 あんたさ熊野千春と仲良くしてやんなよ

 

 なんて陽子が切り出したので驚いた。なんで熊野と自分が会った事を知ってるのか聞

くと、壁新聞で教室に張り出してあるわけじゃないけどまさにそれと同じくらいに熊野

とあんたの恋物語は逐一話題になってて、孤高の美少女、謎の少年と破局か?って情報、

女子棟の一年で知らない子はいないんじゃないかなって程だから、知ってるも知らない

もないよ、と笑うので唖然とした。女子なんてさ、男子がいれば違うんだろうけど女子

だけになるともう遠慮はないからね、やりたい放題だよ、もうみんな男子に飢えてるか

ら、その手の話にはみんな敏感なんだ、なんて言うので、そりゃ男子も一緒だよと坊太

郎は思ったが、それを言おうとしたら、なんで熊野と喧嘩したのさ、なんて話題を変え

てきた。陽子を悪し様に言う熊野千春が許せなくてなんて本当の事を言えば、悪し様っ

てどういう事よって事になるだろうし、かといって本当の事をぶっちゃけるのもさすが

にまずいだろうと思った坊太郎が言い淀んでると、やっぱりね、そんなことだろうと思

ったよ、なんて全部お見通しみたいな事言うので、そんなことって何だよ、って言うと、

あたしとあんたが出来てるかなんか勘ぐってさ、あたしの事ビッチだとかなんとか言っ

たんでしょ?とあの場にお前もいたのかよと言いたくなるくらいにそのものズバリを言

い当てるので絶句したまま陽子を見ると、まあ熊野千春の憎しみに満ちた目を見ればさ

すがにあたしだってわかるさ、と陽子は言った。

 

 

 そりゃあの子の言うとおりさ、あたしは外人の男が好きなんだ、寝たいと言わ れれ

 ば寝るよ、それは本当だけど、でも誰でもいいって訳じゃない。米兵にもいろんな

 がいてさ、黒人も白人もアジア系のアメリカ人もいて、年だっていろいろで10代の未

 成年の子だって多いけど、兵隊になりたくて志願した子は 少なくてほとんどは家が

 貧しくて他に仕事がないから兵隊になったって子ばかりさ、学校に行ってないから字

 が書けない読めないって子だって多いしね、で国を守るのが仕事だと思って兵隊にな

 ってはみたものの、実際は東南アジアに行かされて、よく知らない国の人間を殺せっ

 て言われて、殺さないと自分が殺されるようなデスマッチの中に放り出されてさ、そ

 んな積もりじゃなかったって思ってる子がたっくさんいるんだ。あたしのお母さんや

 お父さんはアメリカ人と協力してさ、そういう子の話を聞いて兵隊を辞めたいと言え

 ば、やめられるようにする運動をしてて、あたしもそれを手伝ってるんだ。たっくさ

 んの兵隊から話を聞くんだ、当然仲良くなる子だっているし、中には好きになった子

 もいて、好きになってお互い求めあえば寝る事だってある、それだけの話さ。

 

 

 言い終わると陽子は口調の割には真剣な目で坊太郎を見て、坊太郎が何か言うのを待

っているようだったが、どう答えていいのかわからず、かろうじて、ふうん、とだけ坊

太郎は答え、どうしてそんな大事なこと話してくれるのかと話題を変えたら、だって町

のやつらにこんなこと言える?あんただから「ふうん」で済んでんだよ、と真面目に答

えるので、ああ、それは確かになあ、こっちの人ってちょっと変だからな、と笑いとば

したら、どっちが変なのかわかんないけどねと肩をすぼめて首を左右に振って見せた。

 その後、坊太郎が男性教師達から愛国少年だと勘違いされて困ってることとか、マタ

ノさんの女と知り合いって事で不良がかった同級生からも一目置かれて妙な気分だとか、

三上って友達が例の映画のギタリストに詳しくて、映画の話で盛り上がったけど、彼は

実際に演奏してることろは見たことがなくって随分うらやましがられたんだとか喋って

いたら、じゃあまた良い映画やってるときは誘ってあげるわ、と言ってくれたのだが、

今度来るときは私服で来いよな、なんて肩を突かれたので、でも陽子だってちゃんと校

則守ってるじゃないかって言い返すと、プライベートとパブリックは違うはずじゃない?

なんてよくわからない事を言うので、どういう事かと聞くと、税金使って運営されてい

る学校で勉強教えてもらってるんだから学校に居るときは学校のしきたりに従うし、そ

もそも生徒を校則で縛るのはナンセンスとか言って私服で登校するのは子供じみててみ

っともない、でも、だからといって学校を出てまで校則やら愛校心やらに束縛されるの

は断固拒否だわ、休日に外出するときまで制服着ろなんて強制する方も狂ってるけど、

それに盲従するのはもっと愚かな事よ、それこそナンセンス、入学したからといって二

十四時間あの学校の生徒をやってる義務も責任もないのよ、ましてや学校を牛耳ってる

教師と同じ思想をもつ義務は全然ないの、と言うので、なるほどね、休日なら酒飲んで

いい気分になってもかまやしないと?なんて坊太郎が皮肉交じりに言うと、まさか、酒

も薬も犯罪、ばれないようにコソコソやんなきゃね、なんて声を潜めるのでおかしくな

って二人で声を挙げて笑ってしまった。

 

 

 町ではタブーであり下品で不道徳で不埒極まりなく、あけすけに言うべきではない男

女の交わりも村ではごくごく日常的な事だった。製材所で働いていた人達は男女の別な

く平気で昨晩の夫婦の営みを話題にしたが、それも陽子みたいに洒落た言い方でなく行

為そのものズバリを表現する直接的な言い方で、子どもがいるからと遠慮したりするこ

とはなかった。

 だから、子どもの坊太郎でも夫が妻に美味しいものを食べさせるのは上の口だけじゃ

ないことも、妻の乳首が決して赤ん坊だけのものじゃないことも、夫は妻に優しくする

だけでなく時には「泣か」したり激しく「責め」たりするものだと知っていた。

 1ぐろ、2あか、3むらさき、と言ってそっちに関しては色白は疎まれ色黒は好まれる事

も、締まりの良い名器も子どもを産めばやがて大海でゴボウを洗うようになることも知識

として知っていた。

 いや、実際に昼下がりの田圃の隅や道具小屋の陰で、下半身むき出しでおばさんの上に

乗っかっているおじさんを何度か目撃した事もある。幼い頃は、苦悶に歪むおばさんの表

情から何か粗相をしでかしたおばさんが叱責されているのかもと怖じ気づき足早に立ち去

ったりし、どうして叱責するのに下半身むき出しなのか不思議に思った坊太郎だったが、

歳がいくにつれいつのまにかあれはそういうことだったのだと思うようになった。

  そもそも林業や農業は屋外の仕事なわけで、作業中の人は適当な場所で用を足すわけだ

から屋外で下半身を晒す事に抵抗はなかったし、それは坊太郎や友里にしても同じで小学

生も陰毛が生えるまでは男も女もみんな裸になって川で泳いでいたのだ。

 

 

 小学校六年生のある晩、ひい爺ちゃんが爺ちゃんに言った言葉が今も忘れられない。

 

 フリーセックスちゅうのは何じゃ?

 

 当時その外来語はテレビ等で使われだしていた。ひい爺ちゃんという人は明治生まれでそ

の時たしか80ちょい、爺ちゃんは大正生まれの60がらみだったが、爺ちゃんが、好き同士な

らどがあに婚前交渉してもええっちゅう事らしいがなあ、と答えると、

 

 そりゃああれか?盆踊りや神楽の事かいの?

 

 とひい爺ちゃんが問い直し、爺ちゃんが、そうそう、早い話がそういう事っちゃ、と笑

い、なんじゃそねえな楽しい事を白人どもはこれまでしよらんかったんか、つまらんやつ

らじゃのお、とひい爺ちゃんが小馬鹿にしたようにせせら笑うと、爺ちゃんも釣られて、

わしらあとうの昔からやりよりますわいと馬鹿笑いしたのだ。

 その時、坊太郎はテレビの前で座布団を枕にうつらうつらしていたから、てっきりひい

爺ちゃんも爺ちゃんも坊太郎が寝ていると思って喋ったのだろうが、フリーセックスとは

盆踊りや神楽のことかという爺ちゃんの言葉はハッキリ聞き取れ、なるほどそういう事だ

ったのかと長年の謎が解けた気がした。

 というのも、坊太郎の村では田植えに始まって虫送りの夏祭り、収穫祭の秋祭りと農作

業と関連していろいろ村の行事があったが、その中でも盆踊りと収穫祭の後の神楽は別格

だった。

 他の行事が日没前後で終わるのに対して、盆踊りと神楽は夕方から夜明けまでオールナ

イトで行われていた上に、盆踊りや神楽が近づいてくると実質的に祭りを仕切っていた青

年団のお兄ちゃんやお姉ちゃん達のみならず、その上の自治会のおじさんおばさん、爺ち

ゃん婆ちゃん達まで浮き足立ち、そわそわし始めていたからだ。

 そんな空気を子どもの坊太郎も感じ取っていたのだが残念な事に中学生と子供会の子達

は夜九時で家に帰らされていた。どうも子供が帰らされる九時以降からが行事の本番で子

供がいる頃はまだまだ序の口らしいという空気は薄々感じていて、なのにどうして子供や

一緒に帰る婆ちゃん達だけが行事からのけ者にされるのか甚だ不満で仕方なかったから、

いつかその真相を突き止めてやると思っていたから、その会話は今でも良く憶えている。

 

 盆踊りにしても神楽にしても、多分子供に見せたくない淫猥で享楽的な何かが始まるに

違いないと踏んでいたが、やっぱりフリーセックスだったのかと思った坊太郎は、後日、

近所に住んでいて坊太郎んちの製材所で働いていた自称猿飛佐助のお兄ちゃんにそれと

く聞いてみた。

 その猿飛佐助のお兄ちゃんはもう三十前なのだが若い頃は森林組合で木こりをしていて、

山深く入って作業した帰りは、切り出した木材を麓に下ろすために敷設されたワイヤーに

滑車をかまして谷から谷へと猿飛佐助さながらに飛び渡り、二時間かけて登った山からほ

んの十分で帰ったものだというのが自慢だったのだが、そのお兄ちゃんはニヤリと笑って

さすがボウチャン、勘が鋭いなと誉めてくれたが、詳しい事は高校生になって青年団に入

るまでは秘密で、うかつに喋ったらお兄ちゃんでも村八分になるからと、それ以上は教え

てくれなかった。

 猿飛のお兄ちゃんは秘密だと言ってはぐらかしたが、とかく秘密とやらは自然口から口

へと漏れ出すもので、坊太郎も中学は三年になる頃にはだいたいの事は理解していた。

 

 盆踊りと神楽の晩だけは誰が誰と親しくしても構わない

 

 その晩だけは結婚していようがいまいが好きにできるのだ。無論、合意でないと駄目で、

無理強いは村八分になったようだが、いずれにしてもそれは、青年団の入団「儀式」を済

ませた「大人」の話。その儀式とは正式には「柿の木問答」普段は省略して「柿の木」と

呼ばれていたが、簡単に言えば筆下ろしと水揚げ。それぞれ青年団から依頼された村の成

人男女が、その年に十六歳を迎えた男女の面倒を見るのだが、その行為が柿の木にまつわ

る会話を交わす中で進行するように形式儀式化されているというのだ。

 

 あんたんちの庭に柿の木がありますか?

 ありますよ

 よう実がなりますか?

 なりますよ

 ほいじゃ登って採ってもええですか?

 ええですよ

 

 男の場合は目隠して連れていかれた農家の離れに上がり込んで、あんたんちの庭に柿の

木がありますか?と問う事で儀式に来た男だと告げ、よう実がなりますか?と聞かれた成

人女性は、なりますよ、で浴衣の胸をはだけ胸を触らせ、ほいじゃ登って採ってもええで

すか?に、ええですよ、で裸になった若い男を受け入れる、というものらしかった。

 若い女の場合は、離れを訪れる男が成人で、それぞれ柿の木があるか?と確認した上で、

「若い女の身体に登って実を採」ってやる。

 もし地元の高校に進学して村に残っていれば坊太郎や友里も今年は「柿の木問答」の歳

なわけで、成人女性に柿の実を採らせてもらったり、成人男性に柿の実を採られていたわ

けだ。町の人が聞けば卒倒するかもしれないが村人にしてみれば昔から行われてきた風習

なわけで、その村出身の陽子がああ言ったとしても不思議はなかったし、坊太郎にしても

陽子の言う意味がわからないわけではなかった。

 ただ、村に残っている同級生達や陽子はそうやってすでに「大人」になっているという

のに、町に出てきた坊太郎はいまだに「こども」で、大人の陽子に向かっておまえの言う

事よくわかるよ、なんて科白は吐けず、「ふうん」と言うのがせいぜいだったのだ。 

 

 

 連休が明け、入学から二ヶ月経ったということで席替えがあった。視力や身長の関係で

黒板に近い方が良い生徒を除いてはみなクジ引きだったが、坊太郎は教室の入り口から一

番遠いグランド側の後ろの席になった。これまでが前の入り口そばの列の前から三番目だ

ったから教室の対角に移動したことになる。

 後ろから教室全体を俯瞰できるその席を随分坊太郎は気にいったのだが、また近くの席

になった大谷を通して河村という子と口をきくようになった。みんなからケンゾーと下の

名前で呼ばれていた河村は、彼自身も野球部員だったが、とあるプロ野球球団のファンら

しくしょっちゅうその球団の話をしていた。

 その球団は電車で一時間余りの距離の隣県にあり、十二球団では最も坊太郎の住む町に

近かったし、その球団がある町はここら辺りでは一番賑やかな地方都市だったので、そこ

に遊びに行ったついでに野球を見て帰ったなんて話も聞いてはいたが坊太郎の村にそのチ

ームのファンは一人もいなかった。それはこの町に出てきてからもそうで、野球が好きだ

と言う人は例外なく首都にあって九年連続で日本一になった最強球団のファンだった。そ

の最強チームは連日午後八時になればテレビで見られたし、そこのスター選手は肉体疲労

時の栄養補給剤やカレーのCMにも出ていたので親近感があったが、ケンゾー贔屓のチー

ムはといえばテレビにも出ず、いくら隣県にあるといってもおいそれと試合を見に行ける

ほど近くもなく疎遠になるのは仕方のない事だった。

 スポーツと言えばまず野球、というのが男の常識で、子ども達は空き地で三角ベースを

楽しんだし、製材所にも草野球のチームがあって時々、他の村まで遠征していた程だった

から、坊太郎も小さい頃から当然の如く野球をしてきたが、いかんせん運動神経ゼロの坊

太郎は良くて九番右翼、いつもはベンチで応援が定位置だったから本音を言えば野球には

ほとんど興味はない、というよりは苦痛ですらあった。

 そんな坊太郎でもケンゾー贔屓のその球団が万年最下位が定番の弱小球団でリーグのお

荷物とさえ陰口を叩かれているぐらいの事は知っていたからその弱小チームが好きだと語

るケンゾーに坊太郎は随分興味を持った。

 うちのチームが勝つ試合を観戦するのは宝くじにあたるようなもんだ、とか、昔は運営

資金がなくて試合を見に来た人から募金をしてもらって選手に給料を払っていたくらいだ

から勝てるわけがない、とか、賞金を出しますと大見得きって球団のスローガンを市民か

ら募集しといて結局賞金は出さずじまいだったんだ、とかそのチームのことをいつもうち

のチームと呼ぶケンゾーの喋るネタはファンにしては自虐的だったが、その話をする表情

は実に楽しそうで、坊太郎はいっぺんでそのケンゾーが好きになった。

 

 ケンゾーはやたらとその球団の裏事情みたいなのに詳しかったが、聞いてみるともとも

とその地方都市の産まれで、伯父がそのチームの職員だった関係もありケンゾーの母親も

切符のモギリの仕事なんかをしていたらしく道理で詳しいはずだと思ったが、その町では

そのチームの熱狂的なファンばかりで首都にある最強チームの帽子なんか怖くて被れない

程だったというのに、小学校の中学年の頃にこっちに引っ越してきたら、周囲は最強チー

ムのファンばかりで四面楚歌、その弱小球団のファンだというだけで随分虐められたりか

らかわれたりしたらしい。

 そのチームが今年は調子がいいのだとケンゾーは力説した。でも、あの赤帽だけは勘弁

してくれよ、子どもの運動会じゃないんだからと大谷が言うと、何を言ってるんだ、あれは

闘争心や情熱の赤で、それを証拠に八百長まがいに相手球団に有利な判定を繰り返す主審に

業を煮やしたある投手は、自信を持って投げ込んだ決め球をボールと判定されたことに激怒

し、マウンドを一直線に駆け下りて主審にドロップキックをお見舞いしたんだ、今年から監

督になったメジャー出身の白人のおっさんはその投手をしかるどころか、あれこそファイテ

ィングスピリットだと褒めちぎったんだ、なんて息巻いていたが、関心のない坊太郎や大谷

はそんな出来事ですら知らず、へえそんなことがあったのかという感じだった。

 とにかく、あの帽子になってからというもの連戦連勝で鯉のぼりの季節が終わったという

のにまだ首位にいるのだから今年こそ本物で優勝も夢じゃないんだとケンゾーは虚勢を張っ

てみせたが、優勝??おいおいそりゃいくらなんでも無理だろ、寝言は寝て言えよ、と大谷

が笑うと、やっぱダメかのお、と人懐っこい笑顔を見せた。