読む・書くことへの飢え
2023年春の「文藝」誌 小松原織香氏の「文学が生まれる場にいた話」が面白かった。
小松原氏はかつて自分も関わっていた、同人雑誌即売会、ケータイ小説サイトでの経験を語り、そうした界隈にたむろする人々は
「文学として評価されたいなどと思っていない。文学賞をめざすこともなく、商業デビューも求めない。あるのは、のべつまくなしに続く「読む・描く」ことへの飢えである。(中略)読むか書くか、その二択しかない世界。「ただ書くこと」に熱中する人々がいた。(中略)
文学とは何か。表現したい何かを求めて言葉を探し、必死に綴ろうとする営みのことではないか?そうだとすれば私が目撃したあの世界は間違いなく「文学が生まれる場」だった。」
と述べている。
最近はとんとご無沙汰でサイトの名称も忘れてしまったが、自分も以前、ネットの小説投稿サイトに出入りしていた。そのサイトにはありとあらゆるジャンルの小説?が投稿されていたが、投稿されていた「ほんとんどのケータイ小説やBL同人小説は文芸批評で論じるに値しない(作品だった)。文章表現は稚拙であり、使い古されたありがちな展開しか起きない(小松原氏)」そんな作品ばかりだった。
しかし、そのエネルギーは凄まじかった。投稿してトップに名前のあったはずの作品もその日のうちにページの下に追いやられて消えてしまう。はるかチリ沖から押し寄せてくる津波のように、次から次へと作品が書かれ、投稿され、読まれ、そして忘れ去られていった。
「私たちは言葉を誰かに贈り誰かから受け取る。無心に読み・書きする共同体ができては潰れていく。私はこの共同体を『文学がうまれる場」と呼びたい。文学者が集うのでもなければ文学作品が量産されるものでもない。まだ文学になっていない「ないか」が言葉につながっているような場である。重要なのは、こうした場は大抵既存の文学とはかけ離れ、最も文学的ではないように見えることだ」
確かに、あの凄まじい混沌としたサイトの中に、読んだとたん椅子から立ち上がってしまうような質の高い傑作に出会う事もあった。
小松原氏の言葉に勇気をもらった。たとえ稚拙でも良い。泉のように湧き出してくる創作エネルギーこそが大切だ。我々の同人サークル(爺さん婆さんばかりだが💧)も、そんな「文学が生まれる場」でありたい。
コロナで変わった事
2023.01.15
2023年1月でコロナになって3年になるらしい。
リモートだとか、自粛だとか、パンデミックでいろんな事が変わったが
その中でも一番変わったのは「マスク」だと私は思う。
最初大混乱を起こした供給不足も解消され、その上、デザイン、色、素材と様々なマスクまで登場して
今や外出時のマスクは常識中の常識になった。
そして、ヒトの素顔を見る事がなくなった。
道行く人、テレビに出てくる人。みんな顔には「目」しかない。
ヒトの鼻や口を見ることがなくなった、と言った方が良いかもしれない。
「目は心の窓」「目は口ほどにモノを言い」なんて洒落た言い回しがあるが
「目」しかない「ヒトの顔」は心許ない。
まず判別できない。知り合いに町で出会っても素通りしてしまう。呼び止められて驚いたりする。
俺だよ、俺、なんてマスクをずらされてビックリするのだ。
それに「目」だけだとみんな綺麗に見える。切れ長の目は涼しいし、二重の鈴目も愛くるしくて良いが
マスクととると俄然印象が変わってしまう。
団子っ鼻に出っ歯。それだけで別人になってしまうのだ。
そんなこんなで過ごしていた時、妙な体験をした。
とあるカフェで。斜め向かいに座った見知らぬ女性。伏し目がちなその人が運ばれてきたコーヒーを前にマスクを取った。出てきた唇は分厚くふくよか。その肉感的な唇をカップの端に押し当て、彼女はコーヒーをすすった。それがやけに艶めいていて、私はドギマギしてしまった。
それからというもの、男性ですら、外したマスクの下から髭に覆われた口元なんかが露出すると、この上なく「卑猥」だと思うようになった。
今やマスクってやつは「パンツ」なのだ。
そう、白に黒にベージュに灰色。色だけじゃない。柄デザイン、素材。こだわりのソレで秘部を覆い、人々は人前に出る。
コロナが流行りはじめた頃の混乱期。マスク無しが原因で様々なトラブルがあった。
人々はマスクをつけない人をこう非難した。
あんた頭おかしいのか?
人前でマスクつけずに平気なのか?非常識だろ?
せめて手で覆いなさいよ、、、