「快晴 青空 ひとりきり」~序章~

「快晴 青空 ひとりきり」~序章~

 

1月31日(火)

 

 最後の登校日。四時間目はHR。井村さんは止めどなく話してた。みんなも、そして俺もじっと井村さんの方を向いて聞いてた。たしか受験の心得とか、体調管理とか、受験結果の報告、卒業式とかの話だったと思う。でもよく憶えていない。教室が酷く寒かったからかもしれない。

 ただ、あの事ならハッキリ憶えている。HRの前、美術教室に移動していたら是枝さんが来て言った。

 

 キーコがねえ、あんたの髪型がかっこええって

 

 キーコとは吉松さんの事だ。後ろを振り返ったら吉松さんと目があった。私もええと思うよ、と是枝さんも笑った。人からけなされた事は多々あれど、容姿関連で褒められた事はない。とりわけ異性からそんな事言われた事はないから、そういうこと言われると、ふざけんなよと思ってしまう。今の髪型だって、寒いから床屋に行かずにいただけで、髪型と言えるようなもんじゃない。思ったとおり二人はニヤニヤしてたけど、ちょっとモジモジも入ってて悪い気はしなかった。

 考えてみりゃ、みんな揃って学校に来るのって、今日が最後だもんなと思った。

 

 吉松さんは同じ中学出身だ。たしか二年の時は同じクラスだったはずだが、話した記憶がない。というより、当時の自分は津田加奈子に夢中で他の子は目に映ってなかったのだろう。去年の暮れごろから吉松さんと話すようになった。掃除の時間とか。立ち話で。感じのいい人だ。もっといろんな人と話しておけば良かったな、と思う。けど、もう遅い。明日から卒業式まで三年は自宅待機に入る。学校に来ても誰もいない。受験に行く奴もいるだろう。自宅で最後の追い込みをする奴もいるだろう。みんなバラバラ。自分の道を探して歩いていく。だから今日が卒業式みたいなもんだ。

 

 

2月1日(水)

 

 夜九時過ぎ、勉強していたら池永から電話があった。新岩国駅から。今着いた、親の迎えを待ってるんだ、と言っていた。新幹線が満員で新大阪からずっと立ちっぱなしでもうヘトヘトだとか何とか、ぼやいていたが口調は興奮気味で、自己採点したら三百点あった、希望の綱の英語がみやすかったけえ助かったで、とまくし立て、おお、来た来た、親が今きたけえ、と言い放って電話を切った。

 奴の声を聞いて緊張感が高まってきた。なんだか落ち着かなくなって野村に電話した。野村にもこの緊張感を分けてやろうと思ったのに、電話口に出た野村はダレまくっていて、今何時なんだ?なんて寝ぼけた声を出した。野村は池永の話を伝えても全然焦りもせず、へえ、と聞き流し、まあ今更焦っても駄目いや、なるようにしかならん、なんてもう諦めたような事を言うが、その一方で公立の高崎ぐらいなら余裕で通ると高を括ってる。電話するんじゃなかったと後悔した。

 

 

2月2日(木)

 

 異常な寒気団が日本海上に停滞しており、凍えるような寒さが続きそうです。なんてテレビが喋っていた。昼間も窓の外は粉雪が舞っていた。あと二日でいよいよ人生初の大学受験だと思うと背中がぞくぞくする。果たして武者震いか、寒気のせいか、それとも風邪でもひいたか?。

 

 

2月5日(日)

 

 関西大学文学部の受験の日。

 朝方、夢を見た。夢の中で俺は自転車を漕いでいた。錦川にかかる臥龍橋を渡っていた。川面を吹く風が心地良い。全然寒くない。見上げれば晴れ晴れするような快晴。雲一つない。どこまでも続く青い空。このまま日本海までいけそうだと思った。フワリと宙に浮いて飛んでいけそうなくらい心が軽かった。そんなふうに俺は自転車を漕いでいた。

 

 池永は大阪まで受験に行ったが、俺は地方試験。岩国を六時の上りに乗った。己斐で降りたら、似たような年格好の客がどっとホームにあふれた。改札のところで隣りのクラスの木村に出会った。奴も関大だと言うので一緒に歩く。

 野球で有名な高校の校舎が地方試験会場。地方試験だからと舐めていたが、どこから集まったのか会場は村祭りかというくらいの人で驚いた。学生服姿は俺達くらいのもので、私服の受験生がみんな浪人生に見えた。

 教室の席に座っても、脳内のスクリーンには夢で見た青空が映っていた。試験前に見返した英語の構文がそのまま出題されてた。昨日やった古文の問題がそのまんま出てた。得意な近現代史が三分の一も出題されてた。俺は自転車で空を飛ぶような気分で正解間違いなしの解答を鉛筆でなぞった。

 

 英語、国語、社会の三教科だから、試験は昼前に終わった。木村は合格電報を頼むという。そういえば最後のHRの時に、井村がそんな事言っていたなあ、と思った。じゃ俺もって感じで申し込みをしておいた。これで本学に行かなくても合否がわかる。合格してたら「サクラサク」という電報が届くのだ。

 木村は広島の親戚の家に寄るっていうので、来た道を一人、駅まで歩いた。己斐の駅手前には大きな川が流れていて、そこには臥龍橋とよく似た大きな橋が架かっていた。上下二車線の車道にはたくさん車が走っていて、歩道にはとぼとぼと駅に向かう受験生の列が続いていた。空を見上げたら、どんより冬の空で、北の山の方から粉雪が舞っていた。

 

 岩国の駅に着いたら改札のところに吉松さんがいた。よお、久しぶりって声を掛けたら、こっちは何も聞いてないのに、今ね、浦口さんを待ってるんよ、と笑った。なに、嬉しそうな顔して、試験できたん?なんて言うので、こっちも笑って誤魔化しておいた。

 帰宅して自己採点してみたら六五%くらい出来てた。赤本によれば充分に合格圏内。これは間違いなく合格でしょ?って思った。クラスでビリの俺。担任の井村さんから、お前の受かる大学は日本中探したってない、なんて言われた俺が関西大学に現役合格?。たしかに年明けから睡眠時間四時間で頑張ってはきたものの、さすがに虫が良すぎると思ったが、事実は事実。もし本当に合格なら今世紀最大の奇跡かも。これは幸先良いぞとほくそ笑みながら、夕飯まで寝た。

 

 夕飯食っていたら河合から電話があった。関西学院を受けてきたと言っていた。同じクラスの石山と一緒に行ったらしいが、わしは駄目じゃが、奴は通るかもしれんぞ、と言っていた。河合は私立を一校しか受けてないから、もし関学が駄目なら、国立の受験まで四十日くらい丸腰で辛抱せにゃいけん、ほんまやれんわ、とぼやいていた。

 こういう時の電話はなんかうれしい。小一時間話し込んで、すっかりみそ汁が冷えた。

 

 

2月9日(木)

 

 関大が終わって4日、1日4時間睡眠で勉強一色。3日間は一歩も家から出ていない。人生で一番勉強してるような気がする。こんなに勉強していいのか?頭が破裂しやしないかハラハラする。

 夕方、久しぶりに買い物に出てみた。外は雨が降っていた。傘を手に駅前まで出て丸ト百貨店でノートを買い、路地の自販機で生まれて初めての七つ星を買った。

 すっかり日が暮れて暗い中、三笠橋を渡った。坂を登りきって橋の上に出たら誰もいなかった。山陽本線を下っていく貨物列車が見えた。自動車が雨水を跳ねて傍らを走り去った。俺は七つ星に火を点け大きく深呼吸した。この世の誰一人、俺の深呼吸に気付かない。誰も俺の感激を知らない。でも、深呼吸のたびに生まれて初めての冷たい空気は俺の身体の隅々までかけめぐる。

 傘を置いて空を見上げた。雨が顔にかかって冷たかった。夜空の星が落ちてきたのかなと思った。

 

 

2月10日(金)

 

 明日は立命館の文学部入試。関大の時ほどじゃないが、前日になると身も心も緊張する。関大の時は前日にボールを蹴って調子が良かったから、それにあやかって夕方、小学校まで走っていって、1人でボールを蹴った。無論、冬の校庭には誰もいなかったが、それを良いことにリフティング、ドリブルと動き回った。

 

 

2月11日(土)

 

 今回も地方試験。関大と同じ会場だ。同じ電車に乗って、同じ時間に試験会場についた。今度は木村には会わなかった。

 試験前にトイレに行った。トイレ脇には水を張ったバケツがいくつも置かれていたが、その周りは紫煙で煙っていた。受験に来て公然とタバコ吸うってことは二浪かあ、って思った。

 試験は予想外の出来。ここんとこの特訓の成果か絶好調。日本史は85点。苦手の英語、国語も半分は固い。300点満点で200点ちかくある。もしかしたら立命館の文学部も制覇か?と思ったら居ても立ってもいられなくなって、帰りは駅までの道を走った。関大、立命館と連覇したら井村さん、目を回すだろうな、なんて思ったりした。

 

 日本中探したっておまえの受かる大学はないぞ 

 

  先生、世のなか不可能なんて事はないんですよ。人生粘り勝ちです。成せば成る、ですよ。成せば成る。

 そうそう、当然の事ながら合格電報なるものも申し込んでおいた。

 

 

2月12日(日)

 

 どうしようかなあ、と一日中考えていた。最後の龍谷大文学部の受験は地方じゃなく、京都の本学なのだ。もう宿も予約はしてある。14日には出発しなくてはいけない。ただ関大の合格発表が13日だから、13日中には「サクラサク」が届く。龍谷大学は井村にすすめられて、しぶしぶ願書を出した。どんな大学かもよくわかっていない。現実的には関大が第一志望だから、できれば「サクラサク」を受け取って、京都行きはキャンセルしたいのだ。

  そんなことを考えていたら母親がコートを買いに行こう、と言った。京都は盆地じゃけえ寒いげな。学生服だけじゃ凍え死ぬよ、なんて言う。関大との兼ね合いを説明したが、まあ今後のこともある、コートの一着ぐらいもっとってもえかろう、と流された。

 紳士服の店で16000円もするベージュのコートを買ってもらった。内側にボアがついている。確かに暖かい。店の鏡の前で試着して着心地の良さに感激した俺だったが、鏡に映った自分を見ながら、これを来て行く先は京都か千里が丘か、と複雑な心境だった。

 

 

2月13日(月)

 

 挫折。

 昼前、電報が届いた。大はしゃぎで電文を見たら「サクラチル」だった。

 津田加奈子に振られた時よりきつかった。

 

 夕飯の後、池永に電話した。関大、落ちたいや。開口一番そういうと。おお、そうかそうか、ワシもいや。ワシもアウトじゃった。と悲しそうに笑った。絶対できた思うたんじゃがのお、とぼやくので、自分で出来た出来た思うのは出来てない証拠なんかもなあ、と思った。

 ついでに河合にも電話してみた。関大、落ちたいや、と言うと、お前もか、実はワシも関学落ちて、落ち込んどったんよ、とちょっと喜んだ。河合と小一時間話して、すっかり元気になった。

 

 まあ、クヨクヨしちょってもしょうがねえわ。前へ前へ突き進んでいくんじゃ。 それしかねえっちゃ。

 

 河合のセリフ。ここ最近で聞いた中では1番の名セリフだと思った。よし、俺も前へ前へじゃ、と返事して電話を切った。なのに部屋に帰るとクヨクヨしてしまった。自己採点では充分合格圏内だったのだ。自己採点が甘過ぎたのか。それとも問題が簡単すぎて平均点が大幅上昇したのか。おかしい。あの電報は「サクラサク」の打ち間違えじゃないのか。自分で合格発表見に行くべきだったのかも。そこからなかなか頭が離れなかった。

 関大の余裕綽々が思いこみだったとわかって目が覚めた。俺をつけ回してるなんて思いこんでた津田加奈子の時と一緒だ。間抜けな俺でもさすがにわかった。立命館の絶好調もまやかし。奇跡の関大が駄目だったんだから絶好調の立命館なんか完璧アウトだ。もはや龍谷しかない。良く知らない大学だけど、ここを逃したらまさかの「浪人」だ。そんなことをくどくど考え続け、しまいに頭が朦朧としてきて気がついたら机に突っ伏して寝ていた。

 

 

2月17日(金)

 

 昨日、夕方7時頃家に帰ってきた。

 俺の大学入試は終わった。ぜんぶ終わってしまったが、俺の受験はまだまだ続きそうだ。

 

 15日の9時の新幹線で広島を発った。早めに着いて受験会場まで下見に行くつもりだったからだ。新幹線の中で大学のパンフレットを読み返してみた。仏教系の大学なんだと知る。俺が受けるのは国史学(日本史)専攻だが、受験票の欄に仏教学科みたいなのがあって、何だこりゃって思ってはいたのだ。合点がいった。そもそも西本願寺の中にできたお坊さん向けの学校、とあるから浄土真宗ってことになる。たしかうちも浄土真宗のはず。急に親近感が湧いてくる。

 昼前には京都駅に着く。宿は駅の近くだが、先に下見に行く。JR奈良線で稲荷ってとこで降りたら良い、と父親が調べてくれた。新幹線のホームから奈良線へ移動しようとうろうろしていたら駅前に出た。ずいぶんとうらぶれていた。冬空でどんより曇っていたせいもある。俺の気持ちが沈んでいたからでもある。ただそれを差し引いても余るくらいうらぶれていた。薄暗い駅前は人通りも少なく、たまに歩いている人の身なりも薄汚れていて、古都京都という雅な雰囲気はどこにもなかった。鼠色の舗装道路にスポーツ新聞が北風に煽られて舞っていった。

 

 そらあんさんまちごうてまっせ、ここは八条口やしなあ、わかる?裏口やから。 奈良線は十一番ホーム。

     表にも裏にも出たらあきまへんで。

 

  年輩の駅員がそう教えてくれた。

 ものすごく腹が減って目眩がしそうだった。駅の立ち食いそばでも食べようかと思ったが、ちゃんと電車に乗れるか心配で後回しにした。そばくらい、大学まわりにあるだろうと思った。

 京都駅からみっつくらいの駅が稲荷駅。時間にすれば15分くらい。そこから龍谷大学の深草学舎ってとこまでゆっくり歩いても10分くらい。順調にいけば京都駅から30分ほどで行ける。学校のまわりには俺と同じように下見に来たらしい受験生がチラホラ見えるくらいで、閑散としていた。

 下見がすんで安心したら、急激に腹が減ってきた。稲荷駅に戻る道々、喫茶店や食堂を見て歩く。よしここにしよう、と入りかけた喫茶店で、怖そうな角刈りのアンチャンと目があって慌てて店を出た。店先の食品サンプルを覗き込んでいたら、大学生風の集団と一緒になって逃げ出した。俺は喫茶店に入った事がない。食堂でさえない。なんだか1人で入るのが怖かった。ラーメン屋ならなんとかなりそうだったが、いくら探してもラーメン屋は見つからなかった。

 結局、駅の売店であんパンと牛乳を買い、そこのベンチでむさぼり食った。

 

 宿は京都駅の表口を出て右手25分ほど歩いたところにあった。古い木造建築の旅館。中学3年の夏、山口であった野球の県大会で3泊ほどしたが、あの時の旅館に似てるなあと思った。

 2階の大広間に相部屋だった。俺以外は受験生が1人、娘の付き添いらしいおじさんが1人の3人。1階の食堂で夕飯を食べて、狭い風呂をつかったら、あとは部屋で寝るだけなのだが、おじさんは受験生に気を遣っているのかテレビもつけず黙って本を読んでおり。受験生の男も一心不乱に問題集を睨み付けており。結局翌朝、宿を出るまで一言も交わさずじまいだった。 

 

 翌朝、冷え込んだ空気の中、旅館を出て下見をしたとおり深草学舎を目指した。大学入り口で案内されるまま、受験会場に入ったが、ずいぶん伝統を感じさせる凝った作りの教室だった。

 国語も英語もやたら難しかった。難問奇問の出題は想定済みで驚きはしなかったが、問題数が少なすぎだと思った。普通はたくさんある問題の一部が難問奇問の類で、それはそれで誰も解けない問題だからスルーしておいて、できる問題を確実にやれば良い、と思っていた。でもできる問題がない。ほぼ全部難問奇問じゃないか、と青ざめた。

 得意の社会(日本史)で挽回だと思ったが、社会の問題は国語英語以上だった。これはもしかしたら零点じゃないかと思った。こんな難問ばっかり出しやがって、暴動が起こるぜ、と苛立ったが、まわりの受験生はきわめて平静で、みんなカリカリ答案を埋めていた。

 その時、俺は悟った。

 

 おわった。

 

 そう、難問奇問だと思ってるのは俺だけ。俺が阿呆なだけなんだ。

 

 その後の事は何も憶えていない。どうやって駅まで戻り、どうやって新幹線に乗り。どうやって家まで帰ったのか。まったく憶えていない。家に帰って、自分の部屋に入ったが、まるで初めて泊まる旅館の一室みたいだと思った。ここがホントに俺の部屋かな?と居心地悪くしばらく落ち着かなかった。

 

 

 

2月19日(日)

 

 中学卒業した春休みを思い出していた。おそらく18年生きてきて、あの時ほど満ち足りていた時間はなかった。希望の高校に合格した。入試をクリアした達成感。受験勉強から抜け出せた解放感。そして高校生活への希望。眩しいくらいに光り輝いていた。

 毎日、友達と小学校の校庭に集まってボールを蹴った。もう汗をかいても寒くなかった。走り疲れて座り込んだグランドの真ん中。いっぱいの春陽。15歳の春の日。

 

 入試が終わったらあの日に帰れるかな、と思ってた。嫌な緊張から抜け出せるかなと思っていた。でも、また振り出しに戻った。嫌な緊張感はずっと続いていく。

 

 

2月26六日(日)

 

 昨日が龍谷大学の合格発表。「サクラチル」が届いた。

       ※先日、立命館からも「サクラチル」を頂いた。

 3つ受けて、みっつとも駄目だったら浪人します、と井村さんに啖呵を切った。まさか浪人なんかするわけねえ、と高を括っていた。今のままじゃ、世界中を探したって、おまえが入れる大学はない、って井村さんに言われても、そんな馬鹿なって本気で思ってた。でも現実になった。先生は正しかったんだ。俺はどうやら馬鹿なようだって、頭では感づいてたけど体で悟った。俺の馬鹿は本物なんだ。

 どん底。畳に転んだまま動けずにいる。でも涙が出るわけじゃない。どこか醒めてる。馬鹿が寝ころんでるのを天井から観察してるような冷静さもある。浪人決定だ。でも俺の決断が間違いだったとは思わない。

 自分の力にあった大学探して入れてもらえ。先生だったらそう言うだろう。ある意味正しいけど、なんか違う。なんか嫌だ。さんざん怠けてたくせに。努力もせずに居眠りばかりしていたくせに、そう思う。そこを譲ったらもう自分がなくなるような気がしてた。本能みたいな。どんなに怖くても泣いちゃおしまいだと。直感みたいな。どんなに怖くても精一杯強がってみる。平気な顔をしてみる。そしたら何かが始まる。理屈じゃない。そんな気がしてた。

 井村さんが、世界中探したって、おまえの入れる大学はない、って言ったのは、その事だったんだと気がついた。努力もしないのに、プライドばっかりで、さぼってばかりいた、俺の姿勢。そのまんまで駄目だと気付かなかったら、世界中どこを探したって、俺の入れる大学はみつからないぞって事だったんだ、と思った。

 行きたい大学に入れないなら、入る努力をするしかない。入れないから、入れる大学を探すのは逃げ道を探すようなもんだ。ここで踏ん張らなきゃ、一生逃げ道ばかりを探して歩くようになる。数学零点のボンクラのくせに、そんな生意気な事を夢想した。

 

 1年、浪人してええ?

 

 夕食の時、父親にそう聞いたら、父親はしばらく黙って焼き魚をつついていた。

 

  わしは大学に行きたかった。ほいじゃが家が貧乏じゃったけえ大学行かせてくれ言うて言い出せなん            だ。  じゃけえ、尾道の高校出て、地元の紡績会社に就職したんよ。

  見るに見かねたオジキが岡山から来た。国鉄に入れ、言うてくれた。オジキは管理局の幹部じゃった。

  鉄道に学校がある。そこなら大学並じゃ。給料もろうて勉強さしてくれる。そこへ行け。いうてのお。

  たしかに大学並じゃった。二年勉強さしてもろうたけど、楽しかった。ほいじゃが鉄道学校は鉄道学

  校。大学じゃない。ワシは大学に行きたかったんじゃ。じゃけえ、お前らが生まれた後、広島大学の

  夜間を受けた。自分で稼いだ金で大学行こう思うたんじゃ。仕事しながらの受験勉強は、そりゃあし

  んどかったが、合格した時は嬉しかった。

 

 父親はそう言って黙った。浪人して良いとも駄目だとも言わなかった。

 

 

2月27日(月)

 

 昼飯の焼きめしを食いながら母親に聞いてみた。

 

 お父ちゃん、ありゃ浪人してもええ言う意味かね?。それとも自分で稼いで行け、いうことかね?

    知らんよお、ええんじゃない?

 浪人してもええんかね。

 そりゃ、自分は夢が叶って嬉しかったんじゃろうが、あたしゃええ迷惑じゃったわいね。子どもが

     二人もお  る  のに、大学なんか行ってから。馬鹿じゃなかろうか。子どもの面倒はいっそみんくせに、

 テストの前にあんたが泣いてうるさいけえ言うて怒るし、ええ加減にせえ、思いよったけえねえ。

 

 そのかわり、1年浪人して駄目じゃったら、国鉄入りんさいよ。

 

 母親はそう言い放ってお茶をごくごく飲み干した。

 

 

2月28八日(火)

 

 昼から予備校の入学案内をもらいに広島まで行った。ちょうど野村が遊びにきたから、今から広島行くで、と言うと、野村は、ほいじゃ、わしも一応いっとくか、と同意した。 

 岩国には大学予備校はない。だから大半の浪人生は広島に行く。YMCAか英数学館かのどちらかだ。というのは予備知識として知っているが、どっちが良いのかも、どこにあるのかもわからない。受験雑誌の広告にあった住所をたよりに広島駅から歩いた。

 野村は私立大学をひとつも受験してない。なんで受けんのんや?と聞くと、国公立しか興味ないけえ、と澄ましていた。行かん大学受けても金の無駄じゃん、といった。そういや公立の高崎はどうなった?って聞いたら、ああ、あそこは願書は出したが、受けに行っちょらん、どうせ行く気はなかったけえ、別にどうでもええ、と言った。

 八丁堀のYMCAはビルの屋上にでかい看板が掲げてあったのですぐに見つかった。白壁の小綺麗なビルからは、同年代の連中が出たり入ったりしていた。あのーと受付に声をかけると、事務のお姉さんがにっこり笑ってパンフレット1式が入った封筒を渡してくれた。

 ところが小町8丁目にあるという英数学館がなかなか見つからない。そもそも、八丁堀なら俺でも知っていたが小町なんてところ聞いた事がない。道に迷うたびに本屋を見つけて、地図を確認。あっちをウロウロ、こっちをウロウロ。やっとたどり着いたらもう日が暮れかかっていた。白壁のYMCAとは対照的な老朽化した鼠色のビル。その壁面に広島英数学館の文字がかろうじて読めた。

 帰りの電車。こりゃ英数学館はねえなあ、YMCAで決まりじゃのお、と野村に話したら、パンフレットを見ていた野村が、ありゃあーこりゃ駄目じゃ、YMCAは辞めた方がええ、お前には向いとらん、と言う。なんでや、とパンフレットを覗き込むと、入学試験があるらしいで、お前アホじゃけえ落ちるで、予備校入試に落ちたら笑いもんで、と鼻で笑った。

 

 帰宅してパンフレットを熟読。たしかに英数学館しかないな、という結論に至った。試験の事もある。英数学館にもテストはあるらしいが、クラス編成用のテストで、その結果で入学拒否をすることはないらしい。それ以上に決め手になったのは学費の事だ。なんと英数学館が年間20万円だというのに、YMCAは30万円。10万円も違う。ぼったくりじゃろ。いくら外壁が白かろうが薄汚れていようが、そんな事はどうだっていい。どっちにしろ勉強するのは校舎じゃなく、俺なのだ。入学試験がない上に安いなら、迷う余地はないと思った。

 

 

3月1日(水)

 

 せっかく勉強する習慣がついたわけだし、予備校が始まるまで今までのペースで勉強しようと思った。10時くらいに起きて飯を食った。飯を食ったら勉強するぞ、と思っていたら、池永と荒井が遊びに来た。

 ちょうどええ、サツマイモふかしたけえ、食べんさい、と母親が芋と牛乳を持ってきた。お前んとこあんパンでも芋でもスイカでも牛乳じゃのお、と池永が笑った。3人で芋を食ってたら、わしら2人とも地元の私大に行く事にしたんじゃ、と荒井が言った。

 

 入学まで暇じゃのお  

 

 なんて言って欠伸をする。こっちはそれどころじゃない、と言いたいが、予備校が始まるのはまだ1月先だし、来年の受験にいたっては1年先と来ている。

 

 ま、いいか。

 

 と思った。ボールを持って小学校の校庭まで歩いていって、3人でボールを蹴った。わいわい言いながら、ボールを追いかけてると、中学卒業したての春休みを思い出した。あの頃と心は大して変わってないのになあ、と思った。

 

 

3月2日(木)

 

 今日こそは、と昼前に起きたら、池永と野村が来た。うちが住む官舎は岩国駅の構内にあるから以前から友人のたまり場になっている。とくに用事がなくても、駅を降りたら、ちょっと寄って行こうかという友人がしょっちゅうやってくる。せっかく来てくれるものを来るなとは言えない。

 母親があんパンしかないけどええ?と言いながらあんパンと牛乳を持ってきた。パンを食いながらボブディランのレコードをかけた。このアルバム、ボブディランのファンからはぼろくそ言われとるらしいで、と池永が言ったが、野村は無視して、あーあ、いよいよ明日は広大の試験じゃあ、と背伸びをする。まるで緊張感がない。おまえ、そんなんで大丈夫なんか?と池永と一緒になって言ってみるが、大丈夫か言われても、ようわからんよ、なんて笑っている。

 野村と俺がオセロをやり始めると、おお、そうじゃった、と言って池永が「合格体験記」「受験必勝術」「モーレツ受験法」という3冊の本を鞄から取り出した。お前にやるわ、と言う。へえ、お前こんなん読んどったん?と聞いたら、聞いてもない野村が、そんな本を読む奴はろくなもんじゃない、と小馬鹿にした事を言う。バカタレ、受験を甘うみちょったらえらい目に遭うで、と池永は興奮して反論し、オセロそっちのけで、しばらく2人は言い争ってた。

 

 特に「合格体験記」がためになる、と池永が力説するので、夕飯の後、勉強もせずに読んでみた。

 へえ、世の中の受験生ってのは勉強してるんだなあ、と思った。体験記には現役、浪人それぞれ5人ずつが、自分の受験体験を書いていた。まあ合格した人間が書いたものだからそうなんだろうが、とにかく現役の時からものすごく勉強してるのだ。一番少ない奴でも学校から帰って1日5時間。入試までに同じ問題集を2回も3回も繰り返している。

 こりゃ俺みたいなボンクラが通るわけねえわ、と呆れた。俺なんか尻に火がついたのは冬休みに入ってからで、それまでは津田加奈子の事をクヨクヨ考えたかと思うと、親父さんのビールをちょろまかして飲み。日曜も昼まで寝ていたりと、とにかく怠けてばかりだった。

 睡眠時間四時間に削ってがんばったとは言え試験前数週間のことで、たったそれだけで天下を取ったような気になり、あそこもここも楽勝だぜといい気になった。

 そんな本を読む奴はろくなもんじゃない、と言い放つ野村の言いたい事もわかるような気がするが、刺激にはなった。自分がいかに努力していなかったのか、思い知らされた気がした。

 

 

3月3日(金)

 

 机上の本棚を作る事にした。勉強机の上が狭いのだ。奥に問題集を立てておくと、手前にノートを開いただけでいっぱいになってしまう。小学生からこのかた、勉強もいい加減だったから気にもしなかったが、生まれて初めてガリ勉してやっと気付いた。

 この先、1年、この机と付き合っていくのなら、自分が使いやすいように改造しなくちゃいけない。

 昨日の夜中、設計図を書いた。中学の時、技術科の木工で椅子を作ったのを思い出しながら一点透視図法で書いた。その設計図を持って金物屋に行き、材料を見繕ってもらった。

 昼飯を食ってから庭先で鋸をギコギコやっていたら岸部が来た。これ幸いと、ちょいそこ持っちょいて、と手伝わせた。野村、今ごろ広大の試験中じゃのお、と岸部が言った。ワシも山大まであと5日じゃけえ、緊張して勉強にならん。岸部は家の事情があって国公立しか受けさせてもらえない。滑り止めなしの山大1本だからそうとうプレッシャーがかかってる。

 岸部は手先が器用、というか鋸切りも手慣れたもんで、俺が手こずってると、ちょい貸してみ、といっててきぱきやってくれた。夕方にはもう形になっていた。

 ああ、岸部くん来ちょったんね、と母親が家から出てきた。こんなもんしかないんよ、ごめんね、と言ってバナナを一房手渡した。そがあに食えるかいや、と俺が文句言うと、残ったら土産に持ってかえりゃええじゃないの、と母親は笑い飛ばした。

 あとはペーパーかけて、砥の粉を塗って、ニスを塗りゃ立派なもんじゃ。岸部は余ったバナナを持って帰って行った。

 

 

3月4日(土)

 

 昨日、言われた通りペーパーかけをして、砥の粉を塗ったら、山脇が来た。山脇も地元の私大に決めた、と言った。これで池永、荒井、山脇の三人が進路確定だ。

 見たら金石も一緒だった。金石は3年になって同じクラスになり友達になった。ただ出身中学が違うし、家が反対方向だからうちに来たのは初めてだった。金石は部屋に上がるなりタバコに火を着けた。第一希望の中央大学が駄目でのお、浪人するのもやれんけえ専修大学に決めたいや、と笑って鼻から煙りを抜いた。おまえ、タバコ吸いよったんか、と聞いたら、わしゃ高2の時から吸いよるわ、はあヤニ中よお、と笑いながらトレードマークのリーゼントヘアを撫で上げた。4月始めには東京に引っ越すつもりじゃ、というので、へえ、花の都大東京かあ、すげえのお、と言ってはみたが、全然実感がわかなかった。

 昨日のおでんの残りじゃが、あんたら食べんかね?と母親が入ってきた。金石はさっとタバコを隠したが、あら?あんたタバコ吸うちょるんね、と母親はめざとい。はあ高校卒業するんじゃけえええいね隠さんでも、この子のお父ちゃんなんか小学校ん時から父親のをくすねて吸いよった言うけえねえ、と笑らかす。

 タバコにおでんなら、ビールがいるのお、なんて言いながらおでんを勧めたら、ちくわの刺さった竹串を持って口に運んだ金石だったが、ちくわをモグモグしながら、それよか、お前英数学館に行くつもりなんか?と真剣な顔をする。おお、まだ手続きはしちょらんがの、と俺がコンニャクに手を伸ばすと、金石は、おい、あそこだけはやめとけ、と右手のタバコをもみ消した。悪いことは言わん、YMCAにしとけ、と力説する。わしの従兄弟が英数学館に行ったけえよう知っちょる、あそこはろくな奴がおらん。バイクで予備校に乗り付けるが、昼前には集団でどこかに消える。授業中も大騒ぎで、注意した教員と喧嘩して出て行く。あそこはYMCAに行けんボンクラが行く予備校じゃ。勉強する雰囲気じゃない。

 金石は、どうやらその事を言いにわざわざ来てくれたみたいだった。わかったYMCAにするわ、サンキュ、と答えたものの、正直どうしたものかと思っていた。

 金石と山脇が帰った後、庭で1人ニス塗りをやった。刷毛を使いながら考えた。金石の言う意味は下見にいってなんとなくわかった。たぶんYMCAの方が良いんだろう。でも10万円の差はでかい。それに入学テストだ。3校連続で落ちて、さらにこの上予備校まで落ちたら再起不能だ。 

 どうせ、やるのは自分なのだ。予備校がやるわけじゃない。まわりが良くたって自分が怠ければおしまい。それは高校3年間でよくわかっている。高校の同級生はみんな真面目に勉強してた。理数科の山元は東大当確って噂だし、九州大学を受ける生徒会長の牛島も、大阪大学を受けるサッカー部の古田も間違いないだろう。大半の生徒はみな勤勉で優秀だ。うちの高校以上の環境はそうはないだろうに、それでも俺は怠けてた。

 ってことはその逆だってあるはず。まわりが怠けてる。遊び呆けてる。それでも俺はやり続ける。それでこそ本物。

 

 YMCAに入れんボンクラがいくとこ

 

 金石の言葉を思い出した。なんか英数学館って俺みたい。そう思った。

 

 

3月5日(日)

 

 きのう夜にはニスも乾いて、夜中中、勉強机周りの模様替えをした。机上本棚は2段になっていて、問題集や参考書を上の段に乗せると、下のスペースが空く。随分スッキリした。これで明日からバリバリ勉強できるぞ、と寝たのだが、朝起きてみると身体中が筋肉痛だった。

 また誰か遊びに来るかな、と思ったが、誰も来る気配がない。ちゃんとお金はおろしてあるけえ、さっさと入学手続きしちょきんさい。お父ちゃんが何言い出すかわからんよ、なんて母親が脅すので、用意してもらった20万円を懐に抱きしめて広島に行った。車内で司馬遼太郎の「関ヶ原」を読んで過ごす。それにしても広島は遠いなあ、と思った。小学3年になる春に岩国に転校してきたけど、その頃はまだ山陽本線も単線で、五日市あたりでしょっちゅう急行待ち合わせなんていうのがあった。しかも、井ノ口あたりは海まで一面芦が生える干潟が続いていた。だから時間的にも景観的にも遙か彼方まできちゃったなあ、って気がしてた。今は複線化されてるし、干潟も埋め立てられた。でもこれを毎日通うと思うと面倒くさい。

 英数学館の受付で、手続きをする時、ほんとにここで良いのか?やっぱりYMCAの方がいいんじゃないのか?と悪魔が囁いたが、心を鬼にして邪心を振り払った。自分の手で20万円なんていう大金を払ったのは人生初めてで、英数学館を出た後は怖いくらいの虚脱感で歩くのもやっとって感じだった。

 

 

3月9日(木)

 

 明日の卒業式に備えて登校。午前中、体育館で卒業式の打ち合わせ兼予行演習。その後、クラスでHR。その後、みんなで部活に行くはずだった。昨日の夜、明日に備えて、軽く練習しとこうぜって電話があったのだ。毎年サッカー部では卒業式の午後に後輩のチームと試合をするのが恒例になってる。いきなりじゃ負けるかも知れんから、軽く蹴っとこうぜって話。楽しみにしていたのに朝から土砂降り。後輩達は雨の中、練習していたけど、さすがに卒業生の俺達には酷だ。

 体育館での休憩中、雨空をみてうらめしく思っていたら宇田の馬鹿がやってきて、おいおい、お前ほんまに龍谷落ちたん?なんて言いやがる。じゃけえどうした言うんや、と冷静に返したら、龍谷いうてほんまに大学?わしゃ聞いた事ないで、誰でも通るんじゃないん?なんて抜かしやがって、思わずカッときたが、みんなが見てる前で本気になって怒鳴り返すのも大人げない。それいや、試験がさっぱりじゃったけえのお、多分零点じゃろうで、と笑い返したら、数学のない私立文系でも零点か?ほんま大馬鹿たれじゃのお、なんて馬鹿笑いしやがるもんで、それいや、わははは。と一緒に笑ってやった。

 是枝さんは第1希望の高等看護学校に受かったらしかった。おめでとう、と手を差し出したら、えへへ、と笑いながら手を握り返した。坊太郎は?どうじゃったん?とは言わなかった。宇田の馬鹿が知ってるって事はもうみんな知ってるんだろう。中原さんは広島の女学院。女子はみんな進路確定で浪人はゼロ。男子は国立待ちがほとんど。

 そんな話題で持ちきりだった。一番気になってる津田加奈子の事は、誰にも聞けなかった。

 

 

3月10日(金)

 

 小学校の卒業式の時は、憧れの野球部に入れるぞ、って事しか考えてなかった。長髪だった子どもが坊主になるのは、なんとなく大人になる儀式みたいな気がして嫌だなあと思う反面、誇らしくもあった。空気でパンパンになった風船みたいにフワフワしてた。

 中学の卒業式の時は、高校に行ったら思いっきりサッカーやるぞって思ってた。高校入試のプレッシャーから解放されて力が漲った。心は軽かったけど12歳の頃よりは落ち着いていた。フワフワした風船というよりはユラユラした気球って感じかもしれない。

 でも、今の俺にはフワフワもユラユラもない。12歳や15歳の時、地に足がついてなかったとすれば、今は地面に足が埋まってる感じ。高校の卒業式は何にもない。

 進路が決まってるやつは風船とか気球なんかじゃなく、どでかい飛行船に乗り込んで東京目指してる気分だろうな。

 式の間中、ずっと同級生の背中を見ていた。こいつは東京、こいつは大阪、こいつは地元、こいつは浪人。見えない同級生の事も考えた。あいつはどうするんだろう?どこの大学に行くんだろう?まさか浪人はないよな?でも、もし仮にだ、万が一あいつが浪人して俺と一緒に英数学館に通ったりしたら?

 なんて妄想ふくらませて1人苦笑いしたりした。

 

 昨日と打って代わって小春日和の晴天。風は強かったが良く晴れてくれた。午後から卒業試合。結果は4対2。前半の4点が効いた。後半よく追い上げたが力尽きた。

 どフリーのシュートをふかした名桑に寄ってたかって罵声を浴びせ、ヘッドをたたき込んだ鳥谷を大騒ぎでもみくちゃにした。よく叫びよく笑い、よく走った。

 

 小学生の時も、中学生の時も明日を見てた。明日の夢に心を躍らせてた。でも今、明日が見えない。まるっきり。がんばれば何か見えてくるのかな?それさえもわからない。

 

 

3月14日(火)

 

 朝、10時頃寝ていたら母親が慌てた感じで、電話よ電話でんわ、と起こしに来た。なんだか浮かれてるみたいでもあったから、このおばさん、朝からどうなってんだ?と思いながら電話に出たら、是枝さんだった。26日に行く「卒業記念ハイキング・妹背の滝」の男子の参加人数をとりまとめてくれ、って依頼だった。おお、わかった、夕方までには確認しとくわ、と返事をしたら、夕方、また電話するね、と言って是枝さんは電話を切った。

 振り向くと母親が後に立っていた。気色悪い笑顔。そうね、そうかね、今日は赤飯たかにゃいけんね、なんて1人で浮かれていた。

 安請け合いしたものの男子だけでも24人いる。すぐわかる奴を除いても19人。1人1人全員に電話かけるんか?と途方に暮れていたら、荒井と山脇が遊びに来た。

 母親は焼きそば多めに作ったけえ、食べんさい、と牛乳と一緒に持ってきたが、あんたら知っとったん?この子にも彼女がおるんじゃねえ、なんて言いだした。荒井が、そりゃ坊太郎はモテモテですから、なんておべんちゃらを言うと、それまで真に受けて、浪人せにゃいけんのに困るねえ、なんて大笑いして部屋から消えた。

 実は、と事情を説明すると納得したようで、そういうの何とも言えんよな、と苦笑いした。

 

 進路指導を丁寧にきめ細かく、という学校の方針で、3年のクラスは担任が2人いた。同じクラスなのに、実は担任ごとに半々に別れていたのだ。荒井、山脇は8組のA、俺は8組のBだったから、じゃ俺らがAの方は聞いてみるっちゃ、と二人がAの方を引き受けてくれた。電話線を引っ張って受話器を部屋に持ち込んだ。まあ、あいつとあいつは顔が広いけえ、あの2人に聞きゃすぐにわかるはず、なんて、ちゃちゃっと電話をし、10分くらいしたら折り返しの電話が入って、言ってたとおりすぐに人数がわかった。同じ要領でやりゃ早いで、というので、河合と馬鹿宇野に電話したら、予想どおりだった。

 24人中15人が参加。あさって早朝九時に岩国駅集合。男子だけで15って結構な人数だ。それにしても行事の告知は卒業式の日に後の掲示板に貼ってあったから、別に参加確認なんていらないのになって思った。

 夕方、是枝さんから電話があった。ティンパンアレンのレコード聞きながら荒井と山脇がオセロをしていた。電話の声が聞こえんけえちょい音下げて、って荒井に言ったら、誰か来てんの?って是枝さんが言うから、山脇と荒井がきちょる、2人が人数確認してくれたんで、と言うと、え?坊太郎んちってたまり場なん?なんて絶句した。まえ電話した時も誰かおったじゃん、って言うので、まあ、駅の構内じゃけえ、いつの間にかそうなったんちゃ、なんて説明し、今から是さんも来る?って聞いてみたら、きっと大笑いして、行かんっちゃ、って言うと思ったのに、え?とか言ったきり絶句したりして、なんだかいつもの是枝さんっぽくなかった。

 おい、わしにも喋らせえや、と山脇と荒井が言うから、電話代わるけえ、と言ったら、ちょい今、アレじゃけえ、と訳のわからない事を言って電話を切った。

 

 

3月15日(水)

 

 昼前に起きて、勉強しようかと思ったが、大変な事に気がついた。卒業記念ハイキングに着ていく服がない。これまでは面倒臭ければ制服で誤魔化せたが、卒業したのに制服はないだろう。基本はジーパンにトレーナーで良いと思うが、問題は上着だ。受験用に買ってもらったコートは、と思うが、真冬ならいざ知らず、この春の陽気ではちと暑すぎる。でもトレーナーだけじゃ寒いかも。

 事情を説明して春のコートを、と母親に切り出したら、ニマアと気色悪い笑顔を作って無言で1万円札を呉れた。お、おお、サンキュ、と言ったら、好きなのを買いんさい、彼女好みのやつをね、と最高に気色悪かった。

 駅前の店を2、3軒ぶらついたが、ピンと来るものがない。もともとお洒落なんかどうでもいい方で、1万円あるなら新しいジャージを買うわって方だから、なかなか決まらない。駅前通りの端に米軍お下がりの古着屋なんてのを見つけた。暗めの緑色をした木綿のGIコートがぶら下がってた。6500円。

 よし、これだ、と喜び勇んで買って帰宅したら、珍しく姉が勤めから帰っていて、それを見るなり、あれ?これ矢部のと同じじゃん、と言って笑った。矢部とは姉の彼氏だ。なんか、男ってそういうのが好きよねえ、なんて呆れてた。

 夕食の後、野村から電話があった。今日は広大の合格発表じゃったんで、というから、で?通ったんか?と聞いたら、知らん、見にいっとらんけえ、とぶっきらぼうに答えた。どうせ通るわけないと思うから、合格電報も頼んでないし、合格発表も見に行ってない、という。明日、新聞に載るじゃろうけえ、それを見るいや、としょぼくれていた。

 

 

3月16日(木)

 

 やっぱり野村は落ちくさった。そのせいか、今日は遊びに来なかった。

 

 朝、新聞を開くと別刷りで広大合格者一覧が入ってた。へえ、とか、ふぅん、とか、あらら、とか言いながらざっと見た。野村の名前はない。たしかに無い。

 池永から電話があった。池永の分析では現役浪人文理含めてうちの高校からは45人合格だそうだ。残念ながらうちのクラスからは1人も居なかった。池永とも話したが、なかなか厳しいもんだ。岡とか吉田とか、こいつが通らにゃどうするんか?って奴が軒並み落ちてる。じゃあ、予想外の人間が受かってるかっていうと、そういう例もない。

 あぁあ、立命館ぐらいぽろっと通らんかのお、とか、もしかしたら関大合格かも、とか俺の口癖だったけど、そういう事は入試では起きないのだ。やはりちゃんと勉強してない奴はそれなりって訳だ。

 津田も広大受けたはずなのだが、新聞には名前がなかった。もしかしたら受けてないのかもしれない。

 

 

3月17日(金)

 

 今日も昼まえに起きる。とにかくこの寝坊をなんとかしないと1日が短くてしょうがない。昼飯食って、2時まで司馬遼太郎読んだ。次が読みたかったから、また勉強もせずに駅前に出た。書店で立ち読みして、結局「国盗り物語」と日本史の地図帳を買い、駅前商店街を歩いていたら声かけられた。誰だ?と振り向いたら谷崎だった。

 お前、東京か?それとも広大?といきなりくるから、頭掻きながら、いや、それが、浪人確定っちゃ、と苦笑いすると、おおーって大袈裟に喜んだ挙げ句、実はワシもっちゃ、と抱きついてきた。

 ちょっとそこで話そうぜ、って事で、商店街の向日葵って喫茶店に入る。谷崎は同じ中学で3年の時、同じクラスだった。3学期は毎日ボールを蹴るサッカー仲間だった。高校は広島の私立男子校に行った。そこはサッカー部がなかったから、同じフットボールつながりでラグビー部に入ったんだ、と聞いた。たしか、高2の夏、荒井や野村と能美島に泳ぎに行ったら、そこの海水浴場で出会ったんだ。

 久しぶりなのに、コーヒー一杯で七時まで話し込んだ。多分浪人仲間だという気持ちがそうさせたんだと思う。奴は東京の早稲田ゼミに行く積もりだと言っていた。

 来年、大学生になってまた会おうぜ、と別れた。

 

 

3月21日(火)

 

 昨日3月20日、南岩国の池永の家に遊びに行った。俺と荒井と野村。麻雀をやろうってことになって、荒井を講師に基本から教えてもらった。なんかややこしいなあ、と思ったが、やり方がわかってくると面白くなった。わいわい言いながらやってたら夜の10時過ぎだった。今更帰るの面倒くせえわ、と荒井が言うと、泊まっていけや、と池永がいい、ええんか?と俺が聞くと、どうっちゅうことねえわ、というのでそのまま、朝まで麻雀をやり続けた。

 昼前の11時頃、気がつくと炬燵を囲んでごろ寝しており、池永のお母さんが作り置きしておいてくれたトーストと目玉焼きをむさぼり食った。これが徹夜麻雀ってやつか、と思うとなんだか大人になったような気がした。

 飯を食った後、フューチャーズレーンでボーリングをやり岩国に戻ったが、野村がGパン買うんでつきあえと煩いので、あれこれ店を回り、結局家に帰ったら夕方7時だった。

 なんだか自分の家なのに、初めて泊まる古い旅館かなんかのような気がした。ああ、受験で京都から戻った日と同じだな、って思った。

 

 

3月24日(金)

 

 朝、池永から電話がある。なんでも篠沢さんちにみんなで行くんだが、お前も来ないか?という。え?篠沢さんって、篠沢先生の事だろ?先生んちに何しに行くん?と聞くと、なんでも篠沢さんは、私塾みたいなのを自宅でやってて清隆が遊びに行ったら、卒業したらみんなで来いって言われたらしい、と教えてくれた。へえ、篠沢先生か、って思った。行ってもいいな、っていうか、ここで行かなかったらもう一生篠沢先生には会えないだろうなって思った。

 言われた時間に言われた場所に行くと、10人くらい集まっていた。よし、これで全員だよなって清隆が確認して篠沢宅へ。庭に大きめのプレハブを造って、そこを教室にしてるようだった。清隆が持ってきた菓子を長机に並べると、お前らこっちの方がいいんだろ?と母屋から一升瓶を2,3本持ってきてくれ、驚きのあまり、思わずみんなで顔を見合わせた。

 

  最初はびっくりでしたよ。だって、あんなの先生しかいませんもん。何ページの例題を英作文して、

  できたら黒板に出て書きなさい。ってこれだけだぜ。これまでは、これはこうだな、こういう場合

  はこの構文を使ってこうって勝手に先生が1人で喋って、1人で英作文して終わり。それを黙って

  聞くのが授業だったんすよ。なのに、最初1分そう指示して、そのあとずーーっと待ってんすから。

  みんな顔見合わせてどーする?どーする?って、お前書きに行けよ、やだよ、お前行けって。1時間

  目は誰も出ずに、それで終わりでしたもんね。授業終わって、先生が教室出た瞬間、大騒ぎでしたよ。

  なんじゃ今のは。座禅か?修行か?。って大騒ぎ。次の時間も同じで、シーンとしてたら、北島がさ

  っと出ていってさ。そうそう、ああいうとこ北島ってすげえんだよな。でさ、北島が出たら、あとは

  次から次から出始めてさ。ああなると出やすいんだよな。

 

  そうか、それは悪かったな、前任校の下西では、あれで上手くいってたんだ。だから、そのつもりで

  やったらああだ。わしもねえ、随分悩んだんだ、実は。

 

  へえ、先生も悩まれたんですか。全然そんなふうに見えなかったけどなあ(爆笑)

 

 なんて思い出を話した。その間、ほぼ全員がタバコを吸い、出された酒をお冷やでぐいぐい飲み、声は大きくなり大宴会になったが、篠沢先生は、うんうんと頷くばかりで終わりまで黙って聞いていた。

 帰る時、俺だけ篠沢先生に呼び止められた。

 

  坊太郎、今年はほんとに、がんばるんだぞ。

 

 急に真顔で言うからびっくりした。嬉しくて泣きそうだったのに、突然あんな事言うから、はぁ、なんて間抜けな返事しかできなかった。ほんと、ひどい先生だ。

 

 家に帰ったら是枝さんから電話があった。今度のハイキングは弁当いらんけえ、みんなに伝えといて、と言う。なんで?と聞くと、女子が全員2人分作っていく予定なんで、と。へえ、そりゃありがたい、って喜び、サンキュって電話を切ったけど、よく考えたら誰のを食べるのかは聞いてない。是枝さんの弁当なら良いけど(まさか黄粉パンじゃないだろうが)話した事もない子のだったら、なんだか気まずいなあ、とか思った。

 

 

3月26日(日)

 

 久しぶりに朝7時に起きた。八時岩国駅集合。男子15,女子18の計33人だから、ちょっとした団体なみだ。23日、24日が山大やら2期校の入試だった。発表は4月だから試験を済ませたやつらはなんとなくホッとした感じだ。集まったメンバーをぼんやり眺めていて、重大な事実に気がついた。

 

  浪人確定は俺だけじゃねえか?

 

 まさにそのとおり。女子は全員進路確定。男子は私立で決定か、国立の結果待ち。そりゃ国立が駄目で浪人になるやつもいるだろうが、もはやどうあがいたところでどうしようもない俺と、まだ多少なりとも可能性のある奴らでは、似ているようでまるっきり違う。やつらには明日があるが、俺にはないのだ。俺だけ明日がないのだ。

 山陽本線を上り、大野浦って駅で降りて歩くこと30分。こんなところに滝があんの?って言いながら、神社の境内を歩いていくと、その奥に立派な滝が流れ落ちていた。2年の時行った修学旅行で見た日光の滝には叶わないが結構迫力がある。

 滝の脇にある坂道をふうふう言って上ると池がある。滝に落ちる小川を堰き止めて作った池らしかった。貸しボートがあった。佐藤が沖浦さんに声かけて、ねえ、いっしょに乗ってもらえん?って言うと、え?わたし?とか言いながら戸惑い、女どもは、おー告白告白、と囃し立て、せっかくじゃけえ乗りんさいや、と背中を押し、2人の乗ったボートは気持ちよさそうに池を進んでいった。

 沖浦さんは、背が高くて手足が長くて、どこか白人っぽい。そのくせ目は切れ長で、なんだかほっそりした観音さんのようだ。クラスでもちょっと気になる存在だったが、ほんと大人しい子で男子と喋ってるところはついぞ見たことがなかった。言うまでもないが俺も話した事がない。俺みたいなボンクラ野郎には興味ないんだろうな、と勝手に思いこんでいた。それは充分わかってる積もりだが、ここにいる奴らの中で浪人は俺だけなんだって事実がやけに虚しい心に絡む。そっぽを向いてる振りして2人の乗ったボートを目で追った。

 佐藤に続いて仲元が長谷田淳子を誘い、荒井は沖田を誘い、女子同士で乗る組も出てきた頃、吉松さんが金石を誘っており、え?っと思った。吉松さんってそうなんだって、少し凹んだ。やっぱ浪人確定したやつなんか陰気臭くて誘えねえよなあ、とひがむ。進路確定してる奴は未来があっていいよな、表情が明るいもんな、ってふてくされていたら、是枝さんが誘ってくれた。嬉しかったけど、物欲しそうに見えたのかなって思うと、ひねくれた。せっかく誘ってくれたのに悪いなあとは思ったが、小さい頃ボートがひっくり返っておぼれそうになった事があってさあ、と大嘘ついた。

 春のあったかい太陽がぽかぽかしていて、池を抜けてくる風もちょっと冷たくって気持ち良かった。俺は河合と一緒に日の当たるベンチに座って、池の上を漕ぎ回るボート達を眺めていた。隣りのベンチには中原さんと谷口さんが黙って座っていた。中原さんとは合唱コンクール以後、疎遠になった。受験のせいもあるが、なんとなくそうなった。河合に誘えば?って言ったのに、聞こえない振りをされた。

 

 昼ご飯は男子がクジをひいて当たった番号の弁当をもらって食べるという趣向だった。どの番号が誰が作った弁当かわからないが、作り手への感謝のメッセージを番号札の裏に書いて返す、って事になってた。なかなか上手いやり方だな、って思った。作った本人は、自分が作った弁当をあいつが食ってるって観察できるけど、もらう男子の方は誰が作ったものかわからない。これなら遠慮せずに食べられる。俺がひいたクジの弁当は小さめの弁当箱に小さめの結び、と全部入っているものが小さくて可愛かった。だから、こんな可愛いお弁当、生まれて初めて食べたよ、感激。また食べたいなあ、ってメッセージを書いておいた。食べ終わったら、ねえまだお腹余裕ある?って是枝さんが言うので、まだまだ全然余裕って答えたら、じゃウチが作ったのも食べてえや、ってもう一つ呉れるので、よろこんで食べた。唐揚げが最高に美味かった。

 

 そのあと滝壺のまわりにあった東屋で、フィーリングカップルってゲームをやった。女子達は実にいろんな事を考える。こんだけ準備するの大変だったろうって感心したとたん、まあ、進路が決まって暇なんだよな、なんてひねくれたりした。

 1回目の10人は芸達者で、意地の悪い質問にもめげず場を盛り上げ、カップル(またしても佐藤と沖浦というのが癪だったが)も出来て存分に笑わせてもらったが、最後の10人です、と発表された男子チームの5番はなんと俺で、一気に気分が萎えた。

 俺は浪人決定組なんだ。そもそも進路が決まったお前らとはな、身分が違うんだよ身分が。ほんとはこんなとこに来てわいわい騒いでちゃいけないんだぞ。進路決定者同士でもりあがっとけばいいんだよ。ほんと、そっとしといてくれよ。

 なんて言いたい気分を堪えて出ていったが、いざその場になると妙に張り切ってしまうお調子者なわけで、高校1番の思い出は?なんて聞かれて、やれ数学零点、とか、彫刻刀事件、とか、セクシーGK、とか野次が飛ぶなか、

 

  それはぁ、やっぱりぃ、是枝さんにぃ、もらった黄粉パンです

 

 なんてアイドルっぽく答えて、キショクワル、と大騒ぎになってしまった。しかも女子チームの1番で出ていた是枝さんは、告白タイムで、是枝さんを選んだ俺ではなく3番の河合を選び、当然、カップル誕生を期待していたみんなを驚かせた。

 なんで俺を選んでくんねえの?って帰りながら聞いたら、あの質問であんな答えするけえよ、って怒られた。

 帰りは3時半の下りで帰る予定だったけど、帰り道がバラバラになってしまい、俺たちが駅についた時には、先を行ってた一団を乗せた汽車がすでに出ており、俺達は駅で次の汽車を待った。

 残ったのは、いつも俺んちに来る山脇、荒井、に金石。そして河合。女子は中原、谷口のコンビに、沖田さん、是枝さんと吉松さんの10人。

 駅で列車を待つ間、是枝さんから佐藤の話を聞いた。この春の人事異動でお父さんが九州に転勤になった。本人は東京の私立に合格してるけど、どっちにしてももう岩国には家がない。もう戻って来れない。

 ああ、そうなんだって思った。最後の最後だから、思い出になったろうけど、もう会えないと思うと寂しいよね。ねたましいなんて思った事を後悔した。

 

 岩国の駅に列車が入ってきた時、ちょうど操車場の貨物が出払っていて、ホームからうちの官舎が見えた。ほら、あそこに見える掘っ建て小屋がウチだから、今度駅まで来たら遊びに来いよ、って是枝さんに言ったら、うん行くわ、キー子と一緒でもええ?って聞くから、土産もって来いよって笑っておいた。

 

 

3月27日(月)

 

 あと3日で4月。4月になれば大学が始まる。地元の修道大学は6日から。荒井も池永、山脇も忙しくなるだろう。予備校だって15日開校だ。それこそ受験戦争の始まり。

 となれば遊ぶしかないでしょう。前はダレた気持ちを引き締めなくちゃって、そっちばかり気になっていたが、無駄な努力ってやつだった。持ってる金も全部使い果たして、あとは勉強するしかないって状況に自らを追い込む。それも良いかもな。

 

 家に遊びに来た岸部が、山大しくじった、ワシはもうだめじゃ。ワシにも予備校を紹介してくれ、なんて言うので、じゃあ見学にいってみっか?って広島まで出かけた。私立に絞った俺なんかはどうだっていい話だが、今、世間は共通一次で大騒ぎだ。100年に1度の大入試改革とかで来年からは大幅に入試制度が変わるのだ。国立大学も1期校、2期校の別がなくなるとか、マークシート方式が導入されるとか、わけのわからない事がテレビでも報道されてる。だから、国立目指す受験生は是が非でも今年でケリをつけたい。みんなそう思ってる。

 岸部も終始、その話題を口にし、浪人になったらワヤじゃ、ほんま、自宅浪人なんか絶対できんって、入試そのものがぐちゃぐちゃなのに予備校行くしかねえよなあ、なんてぼやき続けていた。

 その岸部だが、ここがそうじゃ、と英数学館に案内すると、なんかアレじゃのお、お化け屋敷みたいなのお、なんて老朽化した校舎(というか雑居ビル?)を見上げた。ほいじゃが入学金が10万も安うて、入学試験もねえんど、と言うと、ジューマンエン?と声をあげ、おお、じゅうまんえんど、そりゃでかかろ?って顔を覗き込むと、おお、ほんまじゃ、そりゃ良心的じゃあ、と表情を崩した。

 小町あたりの汚らしいお好み焼き屋に入って、そば肉玉ダブルを食った。2人で小町から横川までのんびり歩いた。

 

3月28日(火)

 

 昨日、家に帰ると山脇から電話があった。あした(つまりは今日)ボウリング行かん?って言う。なんか最近ボウリングばっかやな、と思ったが女子も来るで、なんて言うので気持ちが動いた。誰が来るん?って聞いたら、男は山脇と金石。女は是枝さんと吉松さんと、沖田さん。ああ、そのメンバーならって快諾して、今日の午前中、汽車で南岩国まで行った。

 駅に着くと、もう他の5人は集まってた。南岩国のフューチャーズレーンまでテクテク歩く。途中、そういやハイキングの写真ができとるけえ、あとで見せるね、と是枝さんが笑った。

 ボウリングは指が痛い。みんな痛くないのかな?と不思議なのだが、1ゲーム、2ゲームと進むうちにだんだん親指が痛くなってくる。そもそも穴に対して指が太すぎるのだ。穴に合わせてボールを選ぶとやたら重い。だからちょうど良いのを選ぶと指が痛い。痛いから適当になる。スコアが下がる。女子にも負ける。やる気がなくなる。

 まあだいたい、そういう感じで無惨な事になる。他のやつらは快調に投げ、快調にピンをぶっ飛ばし、軽やかにレーンで跳ね、ガッツポーズを決めていた。唯一人、沖田さんって人はリズムが違った。どうやったらあんなに曲がるのか?という不思議な軌道を描いて右端から左端の溝にねじ曲がっていき、ガーターを連発していた。いい人だなと思った。

 ボーリングの後、2階の喫茶コーナーでコーヒーを飲んだ。是枝さんがハイキングの写真を見せてくれた。滝の前で撮った集合写真はたくさん複写してあるというので、1枚買った。

 沖田さんって子は同じクラスだったのに、1度も話した事がない。教室でもいつも黙ってたから、さぞ無口な子なんだろうと思ってたのに、コーヒー飲みながら喋っていたのは主に沖田さんって子で、なんか言ってはコロコロと笑い転げていた。この子、津田加奈子と同じバスケ部なのだ。あんな大人しい子が格闘技みたいな球技できねえだろって思ってたのだが、なるほどねって納得がいった。

 

  でさ、部活で津田加奈子ってどうだったの?

 

 って聞きたくて聞きたくて仕方なかったけど、是枝さんや吉松さんのいるところで、さすがにそれはないだろって思って、黙ってた。よもやまな雑談の中に部活の話題も出るかな?って期待もしてみたが、あえて避けてんのか?ってくらいそんな話は出なかった。

 吉松さんはもっぱら金石に話しかけてた。カネポンはボート漕ぐのが上手いんよねえ、とか、そのリーゼント見とったら、指でつんつんしとうなるね、とか喋ってた。金石は4月3日に東京に行くんだと言った。もうアパートも決めたし、荷物も一昨日送ったらしい。せっかくアドバイスしてくれたのに、ごめんな、って英数学館の事を謝った。何言ってんだよ、気にすることか、まあしっかりやれよ、って金石は吉松さんと一緒にどこかに行った。

 家を出る時は空気が澄んで気持ちの良い天気だったのに、帰りはなんだか曇っていてモヤモヤしていた。

 家に帰ってから、小学校の校庭で一人ボールを蹴った。

 

 

3月29日(水)

 

 一日、何もせずに司馬遼太郎を読んでいた。司馬遼太郎は面白い。話の合間に、この時代○○は△△するのが常識だった、みたいな解説がひとしきり入る。それが詳しいのにわかりやすくて為になる。文学部の日本史学専攻に行けば、あんな小説が書けるようになるんだろうか?歴史は大好きだが、大学の史学科が何をするのか今ひとつよくわからない。高校の歴史の授業と何が違うんだろうか?それも知らずに史学科を希望するわけだから合格する訳がない。

 夕方、野村が遊びに来た。岸部の事を話したら、もしもの時はワシも混ぜてくれや、なんて珍しく弱気な事を言っていた。広大ははなから諦めていたようだが、山大は余裕綽々だったはず。たしかにあいつなら通って当たり前だが。

 この野村って男、中学の時はたまげるほどの秀才だった。中3の時の市内統一テストで10番以内に入っていたという。市内全員が受験したテストだから、すなわち、それでベストテンって事はうちの高校でベストテンってことだ。広大山大はもとより、京都、大阪、九州くらいは充分狙える頭は持ってたはず。もともと真面目な柔道部員だったのだ。たまたま中2で不良野球部員の俺と隣りの席になったばっかりに口をきくようになり、遊ぶようになり、いつのまにかサッカーに誘い込まれ、そして今ではこの体たらく。末は博士か大臣か、と思っておられたはずのご両親は、さぞお怒りの事と思われた。

 

 まあ、お前なら大丈夫いや、なんて話をしながら小学校の校庭でボールを蹴った。

 日が暮れたので、そろそろ帰るかとダラダラ歩いていたら向こうから自転車に乗った2人連れが近づいてきた。薄暮で誰だかよくわからなかったが、すれ違う時、あ?坊太郎じゃ、って声が聞こえて、振り返ったら長谷田淳子だった。一緒にいたのはたしか津田加奈子だったように思うのだが、停まる訳でもなくそのまま行きすぎた。おい、今の津田じゃなかったか?って野村に聞いても、いいや、長谷田じゃろ、なんて間の抜けた事を言っていた。卒業式の時も遠くから見かけた程度で、とてもじゃないが話なんかできてないが、それ以来。なんだか100年ぶりに会ったような気がした。

 津田加奈子。どうだったんだろ?広大の発表には名前が無かったが、受験してなかったのか。それとも落ちたのか。2期校はどこを受けたのか。私立は?聞きたい事はたくさんあるけど何も聞けない。

 電話して、受験結果どうじゃった?なんて聞いたら、こいつ正真正銘の馬鹿かと思われるだろうな、なんて電話を睨み付けていたら、山脇から電話がかかってきた。

 スケート行かんか?って言う。ボーリングの次はスケートかよって言ったら、女子も来るで、と言われグラっと来た。この前のメンバーで今度はスケートに行こうやって事になったらしい。それなら荒井も誘ってみるか?って聞いたら、そりゃ賑やかでええわ、って言うので、早速電話で誘っておいた。

 

 

3月30日(木)

 

 また早起き。遊びの日は早起きするのがつらい。岩国駅に集合。

 スケートは小学生の時、広島アリーナに何度か家族で行った憶えがあるが、正直自信がない。恐らく何度もこけて、ズボンがびしょびしょになった、はずだ。ボーリングに続いて、今回も恥をさらすんだろうな、と思うと気持ちが萎えた。

 

 

 クラスの女子とこんなに話した事はなかった。挨拶だって適当だったのに。卒業したとたんにこうだ。受験という邪魔者があったにしても、ちょっと変わりすぎじゃねえか?。いろんな子と喋って、いろんな子の事を知って、友達になって。一体どうなってんだ?俺達、って思った。

 汽車でそれを言ってみたら、沖田さんって子が、それいね、と同意してくれた。在学中から話しときゃ良かったよね、うちら、って言って笑い転げた。

 

 スケートは案の定駄目だった。何度もこけてGパンがびっちゃこになった。荒井は前回のボーリングの時に来てなかったこともあってか、最初のりが悪かったが、広島アリーナに着くと、よろよろ滑る沖田さんを見るや、そう足の親指に力いれて、とか肩の力ぬかにゃあ、とかつきっきりでコーチし始め、ビックリしてみんなが顔を見合わせた。終わる頃には2人で手を繋いで何周も滑っていて驚いた。

 

 スケートの後、2階のラウンジでコーヒーを飲んだ。どうも、卒業してからやたらとコーヒーを飲むようになった。これも卒業して変わった事だ。卒業するまで喫茶店に入った事もなかった。コーヒーと言えば粉コーヒーのことで、お店のコーヒーなんて飲んだ事も無かったのに、ここんとこ連日だ。

 大急ぎでなにもかも変わっちゃうけど、俺だけが変わらない。

 

  もう会えんねえ

 

 ってセリフを是枝さんも吉松さんも連発した。是枝さんは4月になったら寮に入るのだそうだ。その準備が忙しい。女子大に決まった沖田さん吉松さんも、入学までにこれだけはやっとけ、みたいな課題を出されたってぼやいてた。課題といえば山脇や荒井も一緒だ。金石は3日には東京だ。たしかに会えなくなる。

 そうか、だから時間を惜しんで今こうして会ってるのかって、納得した。

 

  今度会えるのは夏休み?

 

 って是枝さんが言ったら、なんかみんなしんみりして、何も言わなかった。 

 

 中学2年の時、土山という大学出たての男の先生が担任だった。喧嘩とか万引きとか問題の多いクラスだった。いい人だったけど、悪ガキの俺たちから見たら、隙だらけだった。先生の目を盗んではいっぱい悪いことをした。俺たちのせいで爺さん婆さんのベテラン教師達からいびられて先生も大変だったろうと思う。そのせいか俺らの卒業を待たず2年が終わった春に下関に転勤になった。

 春休みのある夜、土山が7時の下りで帰るらしいけえ、見送りに行こう、って野村が誘いに来た。他にも男子ばかり5人くらい来るという。おお、そりゃ行かにゃあいけんわ、って駅のホームで待ってたら、送別会の流れなのか、酔っぱらった大勢の教師達と陸橋を渡ってホームに降りてきた。おお、こがあに生徒から慕われて、あんた幸せもんじゃのお、クラスはわやじゃったが、最後にええ思いをしたのお、とベテランの爺さんが馬鹿笑いをした。土山先生は見送りに来た俺らの1人ひとりと握手した。目に涙をいっぱい溜めてた。 

 

  なんじゃ先生、大袈裟な、これまで毎日会うちょったんじゃけえ、いつかどっかで会えるっちゃ

 

 なんて俺は言ったんだ。でも、あの夜から今日まで、土山先生とは1度も会ってない。家に帰ってから、その事を思い出した。

 

 

3月31日(金)

 

 夢を見た。俺はスケートをしていた。津田加奈子が怖い怖いって言うから、大丈夫、肩の力を抜いて、足の親指に力を入れて、とか言いながら、津田加奈子の手を取った。いつのまにか上手くなった俺と加奈子は、まるで両手を広げて空を飛んでるみたいな気分で、だだっぴろいリンクを何度も何度も周回した。

 

 俺はおかしい。病気かもしれない。

 おとといの夕方、黄昏時の街角で津田加奈子とすれ違っていらい、すごくおかしい。ふと気がつくと津田加奈子の事を考えてる。やっぱ住むなら東京より京都だよなあ、なんて自分のこと考えてたはずなのに、気がついたら、津田加奈子はどこに住むんだろ?なんて考えてる。万が一、加奈子が今年、京都の私大に入り、一年後俺が京都に行って、町中でバッタリあって、それで意気投合して交際に発展して、とか妄想してる。

 2学期に振られて、もう忘れたつもりだった。実際、年明けからは受験受験で、それどころじゃなかった。津田加奈子のかけらも残ってないと思ってたのに。俺は、おかしいのだ。相当に。

 

 俺は是枝さんが好きだ。是枝さんと喋ってたら楽しい。それに気を遣わなくていい。是枝さんなら、ありのままの自分をさらけ出せる。そんな子は他にはいない。もし是枝さんと結婚したら、一生楽しく過ごせるだろうなあって思う。でも、それは津田加奈子が好きだって気持ちとは違ってる。是枝さんといっぱい遊んで、ああ楽しかったなあって思っても、一晩寝たら忘れちゃってたりする。だけど津田加奈子は、ほんの一瞬、街角ですれ違っただけなのに、いつまでもいつまでも追いかけてる。津田加奈子が俺のことなんか気にも留めてないのは、わかってるのに。